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第21話:不死身の泥ネズミと、王の崩壊

第五階層、狂獣の森。

 底なしの泥沼が広がる地帯で、俺と『屍冠の白猿シラカンのハクエン』の地獄の削り合いは、すでに三十分以上続いていた。


「グルォォォォォォッ!!!」


 右下の腕を俺の牙杭で完全に粉砕された白猿は、もはや森の王としての威厳をかなぐり捨て、ただ眼前の泥ネズミ(俺)をミンチにするためだけの狂戦士と化していた。

 残った三本の丸太のような豪腕が、嵐のように俺へと降り注ぐ。


 ズドォォンッ! バァァァンッ!!


 腕が泥沼を叩きつけるたびに、クレーターのような大穴が穿たれ、泥の散弾が猛烈な勢いで周囲の木々をへし折っていく。

 俺はその暴力の嵐の中を、レベル10の脚力を全開にして逃げ回っていた。


「ガハッ……!」


 左上の腕による薙ぎ払いを間一髪で躱した直後、死角から飛んできた泥と石の塊が、俺の右太ももを深く抉り取った。

 肉が削げ、白い骨が露出する致命傷。脚力がガクンと落ち、俺の身体が泥水に沈みかける。


 すかさず、白猿の右上の剛腕が、俺をハエのように叩き潰そうと頭上から迫る。

 だが、俺は倒れ込みながら腰のポーチから小瓶を引き抜き、親指でコルクを弾き飛ばして黄金の薬液を一気に飲み干した。


「……五本目(一千万)!」


 胃に落ちた治癒薬が爆発的な熱を生み、抉り取られた太ももの肉をコンマ数秒で強制的に再生させる。

 俺は完全に復活した脚力で泥を蹴り上げ、直後に俺がいた場所を白猿の巨大な拳が粉砕した。


 潰されては飲み、裂かれては飲む。

 いくら俺がレベル10の敏捷性を持っていようと、体長八メートルの巨体から繰り出される三本の腕の波状攻撃を完全に回避することなど不可能だった。

 だが、俺には『数千万の経費』がある。骨が砕ける激痛など、ポーションを飲めば数秒で消える。痛覚すらも麻痺した脳で、俺はただ冷徹に「次の一手」を計算していた。


(……だが、このままじゃジリ貧だ。向こうも学習してきやがった)


 俺は泥水の上を滑るように走りながら、白猿の動きの変化を鋭く察知した。

 最初は力任せに叩き潰そうとしていた白猿だったが、何度潰しても瞬時に再生する俺を見て、戦術を変えたのだ。

 上の二本の腕で退路を塞ぎ、残った『左下の腕』を、俺を叩き潰すためではなく『捕獲』するために使い始めていた。


 そして、その瞬間は唐突に訪れた。


「チッ……!」


 上の二本の腕による、逃げ場のない挟み撃ち。俺が前方へ低くスライディングしてそれを躱した、まさにその着地点。

 待ち構えていたかのように、泥の中から白猿の左下の巨大な手が現れ、俺の胴体を万力のように鷲掴みにしたのだ。


「ギシャァァァァァァッ!!」


 白猿が、勝利を確信したような歓喜の咆哮を上げる。

 俺の身体は軽々と宙に持ち上げられ、八メートル上空にある狼の白骨スカルの目の前へと吊るし上げられた。

 空洞の眼窩の奥で揺れる青白い炎が、憎悪を込めて俺を見つめている。


 メキッ……メキメキメキッ!!!


「ガ、ァァァァッ……!!」


 白猿の巨大な指が、俺の胴体をゆっくりと、だが確実に握り潰しにかかる。

 肋骨が次々と砕け、内臓が圧迫され、口から大量の鮮血が噴き出す。産業用のプレス機に挟まれたかのような、逃げ場のない絶対的な圧力。


 普通なら、ここで終わりだ。

 だが、俺は白猿の目を見つめ返しながら、血みどろの顔で狂ったように笑った。


「……捕まえたぜ、デカブツ」


 俺は、捕獲されることを『許容』したのだ。

 逃げ回っていても、決定打は打ち込めない。だから、肉を切らせて骨を断つ。


 俺は砕けゆく胴体の激痛に耐えながら、自由になっている両手で腰のポーチから『二本の治癒薬』を同時に引き抜いた。

 コルクを歯で噛み砕き、二本(四百万円)の薬液を同時に口の中へ流し込む。


 ドクンッ!!!


 体内で、破壊と再生の凄まじい綱引きが始まった。

 白猿の握力が俺の骨と内臓をすり潰そうとする速度と、二本同時の中級治癒薬が細胞を強制再生させる速度が、俺の身体を舞台にして拮抗したのだ。

 痛覚が悲鳴を上げ、脳が焼き切れそうになる。だが、死なない。俺の身体は、この絶対的な握力の中にあっても、形を保ち続けていた。


「グルォッ!?」


 いくら力を込めても潰れない謎の泥ネズミに、白猿が驚愕と混乱の声を漏らした。

 その、ほんの一瞬の隙。


 俺は血を吐きながら、左手に漆黒の『牙杭』を、右手に魔骨の『重槌』を構えた。

 そして、俺の胴体を握りしめている白猿の巨大な親指の『付け根の関節』に牙杭を当て、ゼロ距離からフルパワーで重槌を打ち込んだ。


 ――ゴフッ!!!


 分厚い装甲に守られていない関節の隙間を、最強の暗殺具が容易く貫通する。

 親指の骨を根本から粉砕された白猿は、悲鳴を上げて俺を握っていた左下の腕を離した。


 俺は空中に投げ出されながらも、空中で姿勢を制御し、重力に従って落下する。

 これで、白猿の『下の二本の腕』は完全に機能停止した。

 残るは、上の二本だけ。バランスを崩した巨体は、もはや絶対的な王権を失っていた。


「ギ、ギャァァァァァァァァッ!!!」


 二本の腕を失い、激痛と屈辱に発狂した白猿が、最後の力を振り絞る。

 残った上の二本の豪腕を頭上で組み合わせ、落下していく俺に向かって、全身全霊のダブル・ハンマーを振り下ろしてきた。

 空気が圧縮され、回避不可能な面積を持った死の質量が迫る。


 だが、下の腕を失ったことで、白猿の胸元は完全に『がら空き』になっていた。


「ごちそうさまでした」


 俺は落下しながら、空中で足元の空間(空気)を蹴った。

 レベル10の脚力による、強引な空中機動。俺の身体は振り下ろされる二本の剛腕の死角をすり抜け、白猿の広大な胸板の上へと着地した。


 そのまま、俺は重力に逆らうようにして、純白の毛並みを掴みながら、白猿の胸を一気に駆け上がる。

 振り下ろした腕を戻す時間は、もうない。


 俺は白猿の首元まで跳躍し、その狼の白骨スカルの頭部、青白い炎が揺れる空洞の眼窩のど真ん中に、漆黒の牙杭を突き立てた。


「死ね」


 右手の魔骨の重槌を、今日一番の、レベル10の限界を超えるフルスイングで叩き込む。


 ――メキョォォォォォォォッ!!!!


 金属音が響き渡る。

 だが、砕けたのは親父の打った最強の暗殺具ではない。

 生態系の王として何百年も君臨してきた、屍冠の白猿の硬い頭蓋骨そのものだった。

 牙杭は白骨の装甲を粉砕し、脳髄の奥深くまで完全にめり込んだ。


 ピタリ、と。

 森の時間が止まったかのように、白猿の巨体が硬直した。


 眼窩の奥で揺れていた青白い炎が、フッと吹き消される。

 直後、体長八メートルの絶対者の巨体が、音を立てて崩れ落ち、世界を真っ白に染め上げるほどの巨大な光の粒子となって爆発した。


「……ふぅ」


 光の雨が降り注ぐ中、俺はズブズブと泥水の中に膝をついた。

 全身の骨が悲鳴を上げ、筋肉がちぎれそうに痛む。タクティカルベルトに残された治癒薬は、あとたったの三本。二千万円以上の経費を、この数十分の戦いだけで使い潰したのだ。


 だが、その莫大な赤字を補って余りある『最高級の報酬』が、泥沼の中心に残されていた。

 バスケットボールほどもある、虹色に輝く規格外の魔石。

 そして、白猿の頭頂部に生えていた、血のように赤い『屍冠の角』だ。


 俺は泥を引きずりながら歩み寄り、その虹色の巨大な魔石に手を触れた。


 ――ドォォォォォォンッ!!!!!


 触れた瞬間、今までの比ではない、まるで太陽を直接飲み込んだかのような暴力的な熱(経験値)の奔流が、俺の腕から全身の血管へと逆流してきた。

 細胞が沸騰し、魂の器がミシミシと音を立てて拡張していく。


「あ、ぁぁっ……ははっ、すげえ……!」


 俺は泥水の中で大の字に倒れ込み、狂ったように笑い声を上げた。

 痛覚を麻痺させるほどの、極上のカタルシス。

 レベル10という常識外れの壁をさらにぶち破り、俺のステータスが未知の領域へと跳ね上がっていくのを、全身の血肉が確かに感じ取っていた。


 二千万の経費と、折れた骨。

 それと引き換えに、俺は第五階層の絶対者を単独で食い殺し、この狂獣の森の新たな『頂点』へと上り詰めたのだ。


「……さて。次は、どの階層ビュッフェを荒らしに行くか」


 俺は泥だらけの拳を強く握りしめ、まだ見ぬ未知の経験値への渇望に、深く、昏い笑みを浮かべた。

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