第20話:四本の豪腕と、数百万の命綱
第五階層、狂獣の森。
一千五百万の特注ステルス外套のフードを脱ぎ捨てた俺の眼前に、この森の生態系の頂点たる絶対者、『屍冠の白猿』が立ちはだかっていた。
見上げるほどの、体長八メートルにも及ぶ純白の巨体。
だが、その神々しいまでの毛並みとは裏腹に、その姿はあまりにもおぞましく、そして凶悪だった。
岩盤のように隆起した筋肉の鎧を纏う、丸太のように太い四本の腕。そして、肉が完全に削げ落ちた狼の白骨の頭部。その頭頂部からは、周囲の木々の生命力を吸い上げているかのように、血のように赤く禍々しい樹木の角が、王冠のように捻れながら天へと伸びている。
空洞の眼窩の奥で、ユラリと青白い炎のような光が揺れた。
ギリリ、と首の骨を鳴らしながら、絶対者が俺という『目障りな小動物(害獣)』を完全に見下ろしている。
俺の心臓は、警鐘を通り越して氷のように冷え切っていた。
勝てるわけがない。
ステータスの桁が違う。俺がどれだけレベル10の異常な出力を誇ろうと、種族としてのベースがあまりにも違いすぎる。あの四本の腕のどれか一本が掠っただけで、俺の身体など容易くミンチにされるだろう。
だが、俺の足は一歩も後ろへは下がらない。
逃げられないからだ。背中を見せた瞬間に殺されるという、強者からの絶対的なロックオン。
だからこそ、俺は己の生存戦略を『暗殺』から『徹底的な削り合い』へと瞬時にシフトさせた。
俺の腰のタクティカルベルトには、分厚い布で幾重にも巻かれた十数本の『中級治癒薬の小瓶』が、走っても一切の音を立てないように隙間なく固定されている。
街でダース買いしたあの重い木箱など、森に入る前にとうの昔に解体して捨ててきた。隠密と機動力に全振りする俺が、ガチャガチャと音の鳴る木箱を担いで森を歩くわけがない。常に最悪の事態を想定し、手ぶらで動けるように小分けにしてポーチに忍ばせてきたのだ。
そして今、その総額数千万円にも及ぶ『命綱』こそが、俺がこの絶対的暴力に立ち向かうための唯一の武器だった。
――ズォォォンッ!!
警告も、咆哮もなかった。
白猿が動いた。体長八メートルの巨体からは絶対にあり得ない、物理法則を無視したかのような爆発的な初速。
視界から巨体が消えたかと思った次の瞬間、四本の腕のうち、右上の丸太のような剛腕が、周囲の大木を薙ぎ払いながら、俺の胴体を真っ二つにへし折る軌道で迫ってきていた。
「……っ!」
俺はレベル10の脚力を爆発させ、間一髪で後方へと跳躍した。
白猿の巨大な裏拳が空を切り、俺の鼻先数センチを通り過ぎていく。
直撃は、免れた。
だが、回避できたと安堵する暇すら、白猿は与えてくれなかった。
白猿の腕が空気を引き裂いて振り抜かれたことによって生じた、『凄まじい風圧と真空の衝撃波』。それが、コンマ数秒遅れて、俺の身体を紙クズのように吹き飛ばしたのだ。
「ガ、ハッ……!!」
防ぐことなど不可能だった。俺は空中で体勢を崩し、十メートル後方の太い木の幹に背中から激突した。
メキッ、というひどく嫌な音が体内で鳴り響き、左腕の骨と、背面の肋骨数本にヒビが入る鋭い激痛が脳を貫いた。肺から空気が強制的に絞り出され、口の中に鉄の味(血の味)が広がる。
直撃せず、ただの風圧の余波を喰らっただけでこの有様だ。
正面から一発でもまともに喰らえば、一瞬で肉塊に変わる。俺は血を吐き出しながら、格上との圧倒的なステータス差を冷徹に、そして絶望的なまでに理解した。
だが、俺の心に焦りは一切ない。
俺は激痛の走る左腕を庇いながら、すぐさま森の奥へと走り出し、同時に右手で腰のポーチから治癒薬の小瓶を一本引き抜いた。
親指でコルクを弾き飛ばし、走りながら黄金の薬液を一気に喉の奥へと流し込む。
一本で二百万円の経費。
それが胃の腑に落ちた瞬間、ヒビの入っていた左腕と肋骨が、異常な高熱を帯びて一瞬で完治した。折れた骨がパキパキと音を立てて強制的に繋がり、裂けた筋肉の繊維が編み込まれるように再生していく。
痛覚すらも強制的に麻痺させる極上の回復。
俺は肺いっぱいに酸素を吸い込み、完全に元通りになった身体でさらに速度を上げた。
「さあ、来いよデカブツ」
俺が挑発するように振り返ると、白猿は空洞の眼窩に青白い怒りの炎をさらに激しく燃え上がらせ、四本の腕で邪魔な巨木を次々とへし折りながら、重戦車のような猛烈な勢いで追ってきた。
ここから先は、息もつかせぬ波状攻撃の連続だった。
右上の腕による上からの叩きつけ。左下の腕による横からの薙ぎ払い。さらに残った二本の腕で、数トンはある大岩をえぐり出しての投擲。
俺は反撃という選択肢を完全に捨て去り、『森の地形を使った回避と逃亡』のみにレベル10の全神経と身体能力を注ぎ込んだ。
右へ左へ、木の幹を蹴り、枝を飛び移り、腐葉土の上を泥まみれになりながら転がり続ける。
だが、相手の腕は四本もある。しかもそのどれもが、一撃で地形を変えるほどの破壊力を持っているのだ。いくら俺がレベル10の敏捷性を持っていようと、完全回避など不可能だった。
振り下ろされた拳が地面を砕き、飛び散る木片や石の破片が散弾銃のように俺の身体を襲う。
鋭い石の破片が肩の肉を大きく裂き、吹き飛ばされた巨木の枝が太ももを貫通する。
普通なら、出血多量やショックでとっくに動けなくなり、死んでいる致命傷の連続。
しかし、俺はそのたびに新しいポーションの小瓶を開けた。
肉が裂けようが、骨が砕けようが、走りながら口の周りを血と黄金の薬液で濡らし、瞬時に傷を塞いで這い回った。
潰されても、引き裂かれても、一瞬で全回復してまた逃げ回る「不死身の泥ネズミ」。
その異常で卑小な、それでいて絶対に死なないゴキブリのような立ち回りに、生態系の王である白猿は、明確な苛立ちと怒りを募らせていく。
何百年もの間、圧倒的な力で一方的に獲物を蹂躙してきた絶対者にとって、どれだけ叩き潰しても次の瞬間には完治して逃げ回る俺の存在は、理解の範疇を超えたストレスだったのだろう。
(……そうだ、もっと怒れ。もっと大振りになれ)
俺は逃げ回りながら、少しずつ、だが確実に、白猿を第五階層特有の『底なしの泥沼』が広がる地帯へと誘導していた。
狂獣の森の奥深くに点在する、一度足を踏み入れれば強靭な魔物すら抜け出せなくなる、粘り気の強い泥と腐葉土の底なし沼。
そして、白猿が俺を追って、その巨大な泥沼のど真ん中に両足を踏み入れた瞬間。
ゴォォォォォォッ!!!
怒り狂った白猿が、森全体を震わせるような凄まじい咆哮と共に、四本の腕を同時に高く振り上げた。
ちょこまかと逃げ回る俺を、周囲の地形ごと完全に粉砕するための、文字通りの必殺技。
巨体が宙に浮き、重力を味方につけた四本の豪腕が、俺の足元の泥沼に向かって一斉に叩き落とされた。
ドッッッバァァァァァァン!!!!!
数十トンもの泥水と腐葉土が、火山の噴火のように数十メートルの高さまで噴き上がった。
俺はその凄まじい衝撃波で空中に吹き飛ばされ、内臓がひっくり返るような衝撃を全身に受けながらも、口角を深く歪めて笑った。
(……かかったな、バカが)
俺がこの泥沼の地形を選んだ理由。
それは、泥のクッションで白猿の攻撃の衝撃を殺すためではない。四本の太い腕が、分厚い泥の底深くへめり込んだことによる、『巨体の引き抜きの遅れ』を誘発するためだ。
絶対者の凄まじい筋力をもってしても、泥の強烈な粘着力が吸盤のように働き、白猿の四本の腕は一瞬だけ、完全に地面に縫い留められた。
どんなバケモノにも必ず存在する、全力の大技の直後にだけ生まれる『絶対的な硬直』。
俺は爆発する泥の雨の中を抜け、空中で無理やり体勢を立て直すと、泥に沈み込んだ白猿の『右下の腕』の肘関節へと向かって、弾丸のように落下した。
狙うのは、岩盤のような筋肉の装甲が唯一途切れる、関節の僅かな隙間。
俺は左手に握った漆黒の『牙杭』の先端を、白猿の肘の筋繊維の隙間にピタリと押し当てた。
そして、右手に持った魔骨の『重槌』を、レベル10の全筋力と、上空から落下する重力の勢いを全て乗せて、渾身の力で振り抜いた。
――ゴフッ!!!
裏通りの親父が俺のためだけに打った最強の暗殺具が、またしてもその理不尽な貫通力を証明した。
漆黒の牙杭は、白猿の強靭な筋肉と腱を容易く食い破り、太い腕の関節を完全に貫通。そのまま内部の太い骨を、修復不可能なレベルで粉砕したのだ。
「ギャルルォォォォォォォォォッ!!!!」
右下の腕を完全に破壊された白猿が、何百年ぶりかに味わう自身の血の匂いと、関節を砕かれた凄まじい激痛に、森の木々の葉が全て落ちるほどの絶叫を上げた。
王の怒りの咆哮が突風を生み出し、俺はその風圧で泥水の中へと無様に吹き飛ばされて転がった。
「ガハッ……!」
水面に叩きつけられた衝撃で、治ったばかりの肋骨が再び折れる。
俺は泥水まみれになりながらもゆっくりと上体を起こし、力なく垂れ下がった一本の腕と、残る三本の腕で俺を握り潰そうとさらに狂暴化する白猿を見上げた。
そして、腰のポーチから四本目となる新しいポーションの小瓶を引き抜き、歯でコルクを噛み砕いて一気に飲み干した。
「……まずは一本目」
俺は、口の端から溢れる血と黄金の薬液を手の甲で乱暴に拭いながら、暗闇の中で狂ったように不気味に笑った。
「さあ、お前が俺をすり潰すのが先か。俺の経費が尽きるのが先か。……地獄の我慢比べの始まりだ」
圧倒的な絶対者の暴力に対する、不死身の泥ネズミの狂気に満ちた「泥沼の削り合い」が、いよいよ本格的に幕を開けた。




