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第2話:凡人の生存戦略と、泥まみれの3%

ダンジョン第二階層、入り口付近のジメジメとした湿地帯。

 俺は苔むした巨大な岩の陰に身を潜め、ガチガチと鳴りそうになる奥歯を必死に噛み締めていた。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、冷や汗が背中を伝い落ちていく。


 視線の先、約十メートル。

 そこには、灰色の体毛に覆われた一匹の獣がいた。第二階層の入り口付近を縄張りとする俊敏な魔物――『ファングウルフ(牙狼)』だ。

 体長は一メートル半ほど。第一階層で俺が狩り続けてきたゴブリンの棍棒とは比較にならない恐るべき速度と、分厚い革鎧すら容易く引き裂く鋭い爪を持つ。今の俺にとっては、文字通り出くわした瞬間に死を覚悟するレベルの捕食者だった。


 この5年間、俺はこいつと正面から戦ったことは一度もない。

 正確には、「戦えなかった」のだ。


 俺は第一階層から第二階層へ続く階段の陰などの絶対的な安全圏から、こいつが自分より才能のある同級生や、調子に乗った新米探索者たちを噛み殺すのを何度も、何度も震えながら見てきた。

 才能のない俺にできるのは、ただひたすらに息を潜め、強者が強者を狩るのを観察することだけだった。


 だが、ただ怯えていたわけではない。俺はその臆病さゆえに、安全地帯からファングウルフの生態を徹底的に脳裏に焼き付けてきたのだ。

 あいつらは、獲物を見つけるとどう動くのか。

 どういう予備動作で、どれくらいの距離を一足飛びで詰めてくるのか。

 そういった『敵の癖』や『殺しのパターン』は、戦いの素質がない俺の頭の中にも、5年分の生きた知識としてしっかりと蓄積されていた。


「……グルゥゥッ!」


 不意に、ファングウルフが低い唸り声を上げ、姿勢を低くした。

 鼻をヒクつかせ、真っ直ぐに俺が隠れている岩の陰を睨みつけている。匂いで気づかれた。


(来る……っ!)


 頭では分かっているのに、恐怖で胃袋がせり上がりそうになる。

 昨日までのレベル1の俺なら、ここで完全にビビって足がすくみ、岩陰から逃げ遅れて喉笛を食いちぎられていただろう。

 だが、今日の俺は違う。昨晩の20歳の誕生日を経て、俺は『レベル2』になった。システムが俺の身体能力と神経の伝達速度を、ほんの「3%」だけ底上げしてくれている。


 狼の右肩が、ぐっと沈み込んだ。

 5年間見続けたあの予備動作。次は左前足を踏み込み、一直線に俺の喉元へ跳躍してくる。


(跳ぶぞ……動け、俺の身体っ!)


 俺は剣を構えて迎え撃つような、格好いい真似はしなかった。

 そんな技術は俺にはない。俺はただ、岩の陰から飛び出し、地面に向かって無様にダイブするように横へ転がった。


 ヒュンッ!!

 直後、さっきまで俺の顔があった空間を、鋭い牙と生臭い息が通過していく。

 鼻先を掠めた強烈な風圧に総毛立つ。頬にチリッとした痛みが走り、数滴の血が飛んだ。鋭い爪の先端が、皮膚をほんの数ミリだけ掠めたのだ。


「うおおおおっ!?」


 地面を転がりながら、俺は心の中で絶叫した。

 躱せた。ギリギリだ。だが、確かに躱せた。

 頭で「避けろ」と指令を出してから、実際に筋肉が動くまでのタイムラグ。それが3%だけ短縮されたことで、レベル1の時には絶対に間に合わなかったタイミングで、俺の身体は地面に転がることができたのだ。

 このたった3%の底上げがなければ、間違いなく俺の首は宙を舞っていた。


「ギャンッ!?」


 俺が必死に転がった先は、事前に見繕っておいた「足場の悪いぬかるみ」だ。

 勢いよく飛び込んできたファングウルフは、着地点の泥に足を取られ、ズルッと無様に体勢を崩した。

 俺の5年間の観察によれば、こいつらは平原や硬い岩場では無類の強さを誇るが、足場が悪い場所では途端に踏ん張りが効かなくなる。だからこそ、俺はこのジメジメとした不快な湿地帯を最初の狩り場に選んだのだ。


 体勢を崩した狼が、鋭い爪を立てて泥から抜け出そうと藻掻く。

 俺はその隙を見逃さなかった。震える右手をポケットに突っ込み、あらかじめ大量に忍ばせておいた『目潰し用の粗塩と砂の混合物』を鷲掴みにする。


「食らえっ、クソ犬がぁっ!!」


 俺は泥まみれになりながら起き上がり、体勢を立て直そうとこちらを向いた狼の顔面に向けて、全力でその砂を投げつけた。


「キャインッ!! ギャンッ、ガウゥゥッ!!」


 目と鼻の粘膜に粗塩と砂が入り込み、ファングウルフが悲痛な鳴き声を上げてのたうち回る。

 前足で必死に顔を掻きむしり、完全に隙だらけになった。

 剣術の素養なんて、俺には欠片もない。ただ、第一階層のゴブリン相手に5年間繰り返してきた「動けない相手の急所を、ただ力任せに突く」という、ひたすらに泥臭い作業をやるだけだ。


 俺はぬかるみに足を取られ、何度か転びそうになりながらも必死に狼に駆け寄った。

 そして、両手で逆手に握りしめたショートソードを、もがき苦しむ狼の首元へ、親の仇のように何度も、何度も、何度も突き立てた。


「死ねっ! 死ね、死ね、死ねぇっ!!」


 刃が肉を裂き、硬い骨に当たる嫌な感触が手に伝わる。返り血と泥が顔に跳ねるが、そんなものを気にする余裕はない。ただ無我夢中で腕を振り下ろし続けた。

 やがて、狼の巨体が大きく痙攣し――パァン、と光の粒子となって四散した。


 後に残されたのは、第一階層では見たこともないほど大きく澄んだ魔石が一つだけ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……っ、げほっ!」


 俺はそのまま泥だらけの地面に仰向けに倒れ込み、荒い息を吐き出した。

 全身が泥と狼の血で汚れ、ひどい有様だ。心臓は破裂しそうなくらい鳴っているし、剣を握っていた手はガクガクと震えている。


 決してスマートな戦いじゃない。

 同級生の天才たちが見たら、「なんだあの卑怯で無様な戦い方は」と鼻で笑うだろう。彼らはレベル5に到達した圧倒的な身体能力で、平原で堂々と剣を交え、ファングウルフを正面から一刀両断するはずだ。

 それに引き換え、俺の戦い方はどうだ。泥に飛び込み、砂を投げつけ、相手が苦しんでいるところをタコ殴りにする。探索者としての誇りなど微塵もない、底辺のドブネズミのような戦い方だ。


 だが。

「……勝った。俺は、勝ったんだ」


 泥だらけの右手で大きな魔石を握りしめ、俺は震える声で笑った。

 レベル1の時には絶対に逃げるしかなかった相手。出くわしたら死を覚悟するしかなかった相手に、俺は勝つことができた。

 俺の『臆病な観察眼』と『せこい戦法』、そしてシステムがくれたたった3%の『レベルアップの恩恵』。これらが泥臭く噛み合ったことで、俺はついに第二階層の魔物を単独で仕留めたのだ。


 のろのろと身体を起こし、俺は空中に自分のステータスボードを呼び出した。


================

【名前】天馬 駆

【年齢】20歳

【レベル】2

【特殊スキル】

『月次更新』:ステータス更新が「5年に1度」から「1ヶ月に1度」に変更される。

================


 そこには燦然と輝く、俺だけの特権【月次更新】の文字がある。

 他の人間が5年待たなければならないステータスの清算が、俺だけは1ヶ月後にやってくる。


 天才たちのような戦い方は、俺には一生できない。

 だが、今の戦いで確信した。あのドブネズミのような戦い方なら、今の俺でも第二階層で十分に通用する。

 才能にあふれた連中は、こんな足場の悪い泥沼や、見通しの悪い入り組んだ洞窟には絶対に入ってこない。彼らは怪我をするリスクを嫌うし、何より泥で服や鎧が汚れるのを嫌うからだ。


 しかし、俺にとっては違う。

 俺は泥水に顔を突っ込むことなど、この5年間で嫌というほど経験してきた。服が汚れることなんて気にも留めない。むしろ、この足場の悪さや視界の悪さこそが、格上の魔物を罠にハメて安全に殺すための「最高の狩り場」なのだ。

 俺の生存本能と臆病さが生み出した卑怯な戦法は、この不人気なエリアでこそ最も輝く。


「……計算してみるか」


 俺は泥だらけの顔のまま、ニヤリと笑った。

 今日から1ヶ月間、毎日この泥沼に通い詰め、ポケットいっぱいの砂と罠を使ってファングウルフを乱獲したとする。

 得られる経験値は、第一階層のゴブリンの比ではない。普通なら5年かけて貯めるような膨大な経験値が、わずか30日で俺の中に蓄積されていく。


 そして来月、俺のレベルは3になる。

 レベル3になれば、さらに3%の身体能力と理解力が向上する。

 そうすれば、今よりも少しだけ重い罠を素早く仕掛けられるようになるし、狼の動きが今よりもさらにはっきりと見えるようになる。すると、1日に狩れる狼の数は増え、安全性も増す。


 再来月にはレベル4。

 その次の月にはレベル5。同年代のトップ層である天才たちに、たった数ヶ月で追いつく計算だ。

 能力が上がれば上がるほど、卑怯な戦法の精度は上がり、稼げる経験値は加速度的に増えていく。


「これが……複利の力」


 俺は力強く立ち上がった。

 膝の震えは、いつの間にか止まっていた。

 凡人は凡人らしく、誰よりも泥まみれになって這い上がってやる。5年に1度の成長を待つ停滞の世界で、俺だけが毎月、雪だるま式に進化していくのだ。


「休んでいる暇はない。砂の補充と、次の獲物探しだ」


 俺は地面から泥をひとつかみ拾い上げ、顔にこすりつけた。魔物から人間の匂いを消すための、底辺探索者の知恵だ。

 1ヶ月後の「更新日」に、俺がどこまでレベルを上げられるのか。

 果てしない高揚感を胸に抱きながら、俺はさらに深く、薄暗い湿地帯の奥へと足を踏み入れていった。

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