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第19話:一千五百万の迷彩と、森の絶対者

一千五百万。

 その途方もない金額を全額叩き込んで作らせた特注の『迷彩外套ステルスマント』の性能は、俺の想像を遥かに超える、まさに異常な代物だった。


 第五階層、狂獣の森。

 外套のフードを目深に被り、俺は鬱蒼とした腐葉土の海を歩いていた。

 深層の『変幻蜥蜴カメレオン・リザード』の皮をなめしたというその極薄の布地は、周囲の光をぐにゃりと歪め、森の薄暗い風景に俺の姿を完全に溶け込ませていた。

 さらに恐ろしいのは、その遮断性だ。俺の体温は一切外に漏れず、むせ返るような森の腐葉土の匂いが、人間の体臭を完全に上書きしている。


 これに、俺自身のレベル10の『完璧な身体制御(心拍数と筋肉の摩擦音のゼロ化)』が組み合わさった結果。

 俺は、物理的にこの森から「存在が消失した」も同然だった。


 頭上の枝で、鋼鉄の糸を編み込んでいる巨大な大蜘蛛の真下を通り抜ける。

 大蜘蛛の無数の複眼は、俺をただの「森の暗がり」として素通りした。

 次の瞬間、俺は木の幹を蹴って音もなく跳躍し、大蜘蛛の頭頂部に漆黒の『牙杭』を突き立て、魔骨の『重槌』で脳髄をぶち抜いた。


 また別の場所では、水飲み場で喉を潤す双頭の巨大な毒蛇の背後に立ち、その二つの頭蓋骨を、左右の腕の連撃で同時に粉砕した。


 彼らは皆、自分が殺されたことにすら気づかないまま、巨大な魔石へと姿を変えていく。

 最高だ。同格のバケモノたちがひしめく深層が、まるで俺一人だけのために用意された『食べ放題のビュッフェ』と化している。


 俺は数日間にわたり、寝る間も惜しんで狂獣の森を徘徊し、極上の経験値を貪り食い続けた。

 疲労が溜まれば、木箱で買い込んだ最高級の中級治癒薬を水のように飲み干し、肉体を強制的に回復させて狩りを再開する。

 俺の体内には、かつてないほどの莫大で、熱く、暴力的な経験値の奔流が渦巻いていた。


     * * *


 異常に気づいたのは、狩りを始めて五日目の深夜だった。


「……静かすぎるな」


 外套の奥で、俺は微かに眉をひそめた。

 あれほど豊富に歩き回っていたはずの、シックスアイズ・パンサーやマッドアーマー・グリズリーといった主クラスの強敵たちの気配が、森からパッタリと消え失せてしまったのだ。


 俺が狩り尽くしたからではない。まだ森は途方もなく広いはずだ。

 歩みを進めると、巨大な倒木の陰で、一匹の猛毒を持つ巨大狼がうずくまっているのを発見した。


 チャンスだと思い、牙杭を構えて背後に忍び寄る。

 だが、俺はすぐに足を止めた。

 巨大狼は、俺の気配に気づいて怯えているのではなかった。ガタガタと全身を激しく震わせ、牙を鳴らしながら、ただ一点――『森のさらに奥深くの底知れぬ闇』を見つめて、恐怖に失禁していたのだ。


(……俺から隠れてるんじゃない。森の連中が、一斉に『何か』から逃げ隠れているんだ)


 背筋に、氷のような悪寒が走った。

 本能が、けたたましい警鐘を鳴らしている。

 俺は狩りを即座に中断し、牙杭と重槌をホルダーに収めた。


「今日は帰ろう」


 迷いは一秒もなかった。

 生態系に異常が起きているなら、原因を確かめる必要などない。さっさと安全な地上へ逃げ帰るのが、生き残るための絶対の鉄則だ。俺は踵を返し、第四階層へと続く階段を目指して足を踏み出した。


 その瞬間だった。


 ズン……ッ!!!


 背後の深い森の奥から、地震のような重低音が響いた。

 一歩、また一歩。

 歩みを進めるたびに、見上げるほど太い樹齢数百年の巨木たちが、「ただ歩いてぶつかっただけ」でバキバキと飴細工のようにへし折られ、なぎ倒されていく。


 圧倒的な質量。そして、森の空気を一瞬で凍りつかせるほどの、次元の違う絶望的なプレッシャー。


 月明かりに照らされ、なぎ倒された木々の奥から『それ』が姿を現した。


 体長は、八メートルを下らない。

 全身を純白の長い体毛に覆われた、巨大な類人猿のバケモノ。だが、その腕は丸太のように太く、左右に二本ずつ、計四本も生えている。

 そして何よりおぞましいのは、その頭部だった。類人猿の顔ではなく、肉の削げ落ちた巨大な狼の白骨スカル。その頭頂部からは、血のように赤い樹木のような角が、王冠のように捻れながら天へ向かって伸びていた。


 第五階層『狂獣の森』の食物連鎖の頂点。

 生態系の完全なる絶対者――【屍冠の白猿シラカンのハクエン】。


(……冗談だろ)


 俺は息を呑んだ。

 こいつは、俺という人間を殺しに来たわけではない。ただ自分の縄張りから、極上の餌である主クラスの魔物たちを数日間にわたって根こそぎ横取りした『見えない害獣』を排除するために、巣の奥底から這い出てきたのだ。


 だが、焦るな。

 俺はレベル10の完璧な身体制御と、一千五百万のステルス外套を着ている。どれほど巨大なバケモノだろうと、匂いも音も姿もない俺を認識することはできないはずだ。

 やり過ごせばいい。


 俺は大樹の太い根元にピタリと背中を預け、外套の迷彩機能で完全に周囲の樹皮と同化した。

 呼吸を完全に止め、心臓の鼓動を仮死状態ギリギリまで遅くする。

 俺は木だ。ただの背景だ。通り過ぎるのを待て。


 ズシン、ズシン。

 白猿が、俺の数十メートル先の広場の中央で立ち止まった。


 白猿は、鼻をヒクつかせて匂いを探っているわけではなかった。四つの腕をだらりと下げ、ただそこに立っているだけ。

 だが、その狼の白骨の頭部が、ギリ、ギリ、と不気味な音を立ててゆっくりと横へ向いた。


 そして、ぽっかりと空いた空洞の眼窩が。

 音も匂いもなく、完璧に風景に同化しているはずの俺が潜む大樹の根元を――寸分の狂いもなく、『真っ直ぐに』見据えた。


「…………チッ」


 俺の額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちた。

 視覚や嗅覚で探したのではない。こいつは、生態系の頂点として何百年も君臨してきた、バケモノとしての『絶対的な闘争直感』だけで俺を見つけたのだ。


 見えない。匂いもしない。音もない。

 だが、こいつの直感は『そこに、自分を脅かす異物が、確かな質量を持って存在している』という空間の違和感そのものを感知している。

 理屈ではない。王の勘だ。


 ゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!


 白猿の頭蓋骨の奥で、空気を震わせるような低い唸り声が響いた。

 四本の巨大な腕の筋肉が、岩盤のように隆起する。

 完全に、俺という存在を『敵』としてロックオンしている。


(……逃げられない、か)


 背中を見せて走り出せば、次の瞬間にはあの四本の丸太のような腕で、ミンチにされる。

 やり過ごすことはできない。不意打ちも通用しない。

 五年間のダンジョン生活で、俺が絶対に避けてきた「格上との、逃げ場のない正面からの対峙」。


 俺は外套のフードをゆっくりと脱ぎ捨て、深く、長く肺に空気を吸い込んだ。

 そして、左手に漆黒の牙杭を、右手に魔骨の重槌を握りしめ、静かに泥ネズミの牙を剥き出しにした。

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