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第15話:狂獣の牙と、裏通りの職人

第五階層、狂獣の森。

 俺と同格、あるいはそれ以上の身体能力を持っていた巨大な漆黒の豹は、俺の全力の不意打ちによって完全に沈黙した。


 その代償として、俺の右手に握られていた特注でもなんでもない、5000円で買ったばかりの安い鉄杭と鍛冶用ハンマーは、完全にスクラップと化していた。

 ひしゃげた鉄の塊と、砕け散った木の柄が、分厚い腐葉土の上に散乱している。

 人間の作った安い工業製品では、ダンジョンの深層を生き抜くバケモノの装甲と、俺自身の『レベル10』という常軌を逸した出力の板挟みになり、物理的な限界を迎えてしまったのだ。


「……今日はここまでだ」


 俺は、光となって消えゆく豹の死骸から強引にもぎ取った『漆黒の巨大な牙』と、石のように重く硬い『大腿骨』をリュックに放り込むと、それ以上森の奥へは一歩も進まず、即座に踵を返した。

 圧倒的な力を手に入れたからといって、武器もない丸腰の状態で深層をうろつくなど、ただの自殺志願者だ。


 どれだけ己の数字が跳ね上がろうと、俺の本質は絶対にリスクを冒さない泥ネズミだ。

 俺は全身に塗った泥と強烈な匂いを放つ樹液で気配を完全に殺したまま、一切の足音を立てず、誰にも見つからないように息を潜めて地上へと逃げ帰った。


     * * *


 翌朝。

 俺は再び、探索者街の裏通りに足を運んでいた。


 大通りに面した、ガラス張りで綺麗な武具店には目もくれない。俺が向かったのは、煤と油の匂いが染み付いた、無骨な職人が営む『武器屋(工房)』だ。

 カラン、とくすんだ真鍮のドアベルを鳴らして店内に入ると、むせ返るような鉄と火の匂いが鼻を突いた。


「……おいおい、兄ちゃん」


 カウンターの奥でパイプを吹かしていた顔に火傷の痕がある親父が、俺の顔を見るなり呆れたような声を上げた。


「なんだ、この前うちのガラクタ箱から拾っていった『5000円の工具』、もう無くしたのか? そりゃあ安い鉄くずだが、そう簡単に壊れるもんじゃねえぞ」

「いや。砕け散ったんだ」

「はあ? 砕けたあ? 岩盤にでも力任せに斜めに打ち込みやがったな。だから素人は困るんだ。道具ってのはな、使う角度と……」


 説教を始めようとする親父の目の前に。

 俺は背負っていたリュックを下ろし、中から『漆黒の巨大な牙』と、鈍い光を放つ『大腿骨』を取り出すと、ドンッと重い音を立てて木製のカウンターの上に置いた。


 その瞬間、親父の口からポロリとパイプが零れ落ち、床で乾いた音を立てた。


「なっ……お、おい、これ……っ!」


 親父はひったくるようにしてその牙と骨を手に取ると、顔面を蒼白にさせて小刻みに震え始めた。

 長年、数多の魔物の素材を見て、叩き、加工してきた鍛冶職人の目が、その素材の異常な密度と、死してなお放たれる強烈な威圧感を正確に見抜いていた。


「お前、こりゃあ……シックスアイズ・パンサーの牙と骨じゃねえか……! 第五階層の、それも奥深くにしか出ねえ主クラスのバケモノだぞ! 一体どこのトップクランが狩ったんだ!?」

「偶然、死骸を見つけて拾ったんだ」


 俺は表情を変えずに短い嘘を吐き、カウンターの上に分厚い札束を三つ、無造作に積み上げた。先日、イレギュラーの魔石を換金して得た金の一部だ。

 親父は積み上げられた三百万円という現金と、俺の顔を交互に見て、ゴクリと唾を呑み込んだ。


「親父さん。あんたの腕を見込んで、頼みがある。この牙と骨で、『特注品』を打ってくれないか」

「と、特注だあ? おい兄ちゃん、こいつは名剣や名槍の刃になる一級品中の一級品だぞ。そのままギルドに持ち込めば、数百万、いや数千万で買い取るクランだってある。それをわざわざうちみたいな場末の工房で……」

「剣はいらない。俺の出力じゃ、どんな名剣でも、この前買った5000円の工具と同じように一撃で砕け散る」


 俺は積み上げた札束を、スッと親父の方へ押しやった。


「剣は、力を線で伝える構造上、硬い装甲に弾かれれば必ず刃こぼれを起こす。俺が欲しいのは、俺の全力を『点』に集中させ、どんな装甲だろうが物理的に貫通させるための道具だ」

「……」

「この牙の根元を削って、俺の手に馴染む『極太の杭』にしてほしい。そして、この大腿骨で『ハンマーの柄とヘッド』を打ってくれ。俺の全力の出力で打ち込んでも、絶対にひしゃげない、絶対に折れない最強の相棒だ。このバケモノの素材と、あんたの技術なら打てるはずだ。……頼む」


 親父は頭を抱えた。

 トップクランが喉から手が出るほど欲しがる深層のレア素材を、ただ殴って刺すだけの「工具」にしろというのだ。美しい武器を打つことを至上とする職人の美学が、それを許さないのだろう。


 だが、親父は積み上げられた札束と、俺の真剣な瞳をじっと見つめ返した。

 底辺を這いずり回ってきた俺の目と、何十年もこの薄暗い工房で鉄を叩き続けてきた職人の目。

 そこに、余計な言葉は必要なかった。俺が本気で命を預けるための道具を求めていること、そして、その仕事をこの街で任せられるのはあんたしかいないという純粋な敬意は、確実に伝わっていた。


 親父は深く、深く溜め息をつくと、乱暴に頭を掻き毟った。


「……狂ってやがる。せっかくの最高級素材を、ただの杭とトンカチにしろだと? 他の職人が聞いたら卒倒するぜ」

「無理か?」

「馬鹿野郎、誰に言ってやがる。鉄が曲がるほどの力で打ち込むための、バケモノの牙の杭。……俺の職人魂をこれほどそそるイカれた注文は、何十年ぶりだ。金はきっちりもらうぜ。三日待ちな」


 親父は獰猛な、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべると、黒い素材と札束を抱えてカウンターの奥の作業場へと消えていった。


     * * *


 三日後。

 指定された時間に再び工房を訪れた俺の前に、目の下に酷い隈を作り、髪をボサボサにした親父が、布に包まれた二つの黒い塊を並べた。


「……持っていけ。硬すぎて、うちの特注のヤスリが五本もダメになったぜ。赤字スレスレだ」


 憎まれ口を叩く親父の顔には、確かな達成感と、自らの最高傑作に対する誇りが滲んでいた。

 俺は無言で布を捲り、息を呑んだ。


 そこにあったのは、もはや工具と呼ぶのもおぞましい、美しく、そして極めて凶悪な暗殺具だった。

 豹の漆黒の牙は、俺の手にすっぽりと収まるように根元が完璧な曲線で削り出され、滑り止めの革が緻密に巻かれていた。先端は、どんな強固な装甲をも貫く鋭利な円錐状の『牙杭』へと変貌している。

 そしてハンマーは、大腿骨の最も硬く重い関節部分をそのままヘッド(打撃部)に利用し、柄の部分は俺が握りやすい太さに調整されていた。手にした瞬間にわかる、重心が極限までヘッド側に偏らせてある狂いのないバランス。まさに一撃必殺の『魔骨の重槌』だ。


「……素晴らしいな。持っただけで、手に吸い付くようだ」


 俺は牙杭を左手に、重槌を右手に持ち、その完璧な仕上がりに感嘆の声を漏らした。


「おい、ちょっと裏へ来い」


 親父に促され、俺は工房の裏庭へと出た。

 そこには、親父が新しく打った武器の試し斬り用に用意している、厚さ三センチほどの分厚い鋼鉄の板が、頑丈な万力で固定されていた。


「素振りだけじゃわからねえだろ。その鋼鉄の板に、お前の全力で打ち込んでみろ。もし俺の打ったハンマーの柄が折れたら、代金は全額返してやる」


 親父の言葉に、俺はこくりと頷いた。

 鋼鉄の板の前に立ち、左手の牙杭の先端を、冷たい鉄の表面にピタリと当てる。

 呼吸を整え、右手に握った魔骨の重槌を高く振りかぶる。


 レベル10の筋力。常識外れの出力を、右腕の筋肉の繊維一本一本にまで行き渡らせる。

 そして、一切の力みなく、コマが回転するような完璧な連動で、重槌を牙杭の頭に向かって全力で振り抜いた。


 ――ゴフッ!!


 金属同士がぶつかる、あの甲高い破砕音は鳴らなかった。

 まるで、薄い段ボール箱にアイスピックを突き立てたかのような、ひどく重く、くぐもった鈍い音。


「……なっ」


 背後で見ていた親父が、絶句して息を呑む音が聞こえた。

 俺が手を離すと、厚さ三センチの鋼鉄の板のど真ん中を、漆黒の牙杭が完全に、そして容易く貫通し、根元まで深々と突き刺さっていた。


 特注の鉄杭では曲がってしまった俺の規格外の出力を、この魔物の素材は一切逃がすことなく、100パーセントの威力として先端の一点に伝達したのだ。大腿骨のハンマーも、俺のフルパワーの衝撃を完全に受け流し、柄にはヒビ一つ入っていない。

 鋼鉄の板から牙杭を引き抜いて確認するが、漆黒の先端には傷一つ、欠け一つなかった。


「……最高の仕事だ。あんたに頼んで本当に正解だったよ。感謝する」


 俺は職人の完璧な仕事に対して、心からの敬意を込めて深く頭を下げた。

 その理不尽すぎる貫通力と、それを生み出した俺の姿を見て、親父は凄まじいものを生み出してしまったというような、畏怖の混じったため息を漏らした。


「お前……本当に、それを何に使う気だ……?」

「さあな。ちょっとした穴掘りさ」


 俺は親父に背を向け、最高の相棒となった二つの暗殺具を腰の特製ホルダーに収めた。

 鉄の限界を超え、人間の常識を超えた力と道具。


 これで、いよいよ準備は完全に整った。

 同格のバケモノたちを一方的に食い殺すための『極上の食べ放題ビュッフェ』が待つ、第五階層の深い闇の中へ。

 俺は再び泥まみれのネズミとなって、ダンジョンの最前線へと歩みを進めた。

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