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第14話:砕けた武器と、捕食者の牙

第五階層、狂獣の森。

 上層の冷たい泥沼とは全く違う、ひどく重く、湿気を帯びた空気が肺にまとわりつく。見上げるほど巨大な樹木が乱立し、足元には何百年も降り積もった分厚い腐葉土が敷き詰められていた。


 その腐葉土の山のひとつに、俺は完全に同化して潜んでいた。

 顔にも衣服にも、強烈な匂いを放つ樹液と泥を塗りたくり、呼吸は限界まで薄く、遅くしている。


 俺の視線の先、数十メートル離れた大樹の根元に、『それ』はいた。


 体長五メートルを超える、漆黒の巨大な豹。

 顔の左右に三つずつ、合計六つの紅い眼球を不気味に光らせる、深層の捕食者。

 豹の足元には、数分前まで生きていたはずの巨大な猪の魔物が、すでに無惨な肉塊と化して転がっていた。


(……バケモノめ)


 俺は腐葉土の隙間から、冷徹にその筋肉の動きを観察した。

 猪の太い骨をバターのように噛み砕く顎の力。周囲の微かな音に反応してピクリと動く耳と、全く隙のない六つの眼球の連動。


 常識外れの力を持つに至った今の俺の目から見ても、あの豹の動きは決して遅くない。

 間違いなく、俺と同格。あるいは、純粋な戦闘能力においては俺のさらに上を行く殺戮生物だ。

 もし真正面から武器を構えて名乗りを上げれば、互いの命をすり減らす、五分五分の熱い死闘になるだろう。一歩間違えれば、あの鋭い爪で俺の喉笛が噛み千切られる。


 だからこそ、俺は絶対に真正面からは戦わない。

 どれだけ常識外れの強さを手に入れようと、俺の本質は、常に死に怯える泥ネズミのままだ。一発も殴られず、一方的に極上の経験値だけを奪い取る。それ以外に、ダンジョンに潜る理由などない。


 数時間が経過した。

 這い回る虫が俺の頬を噛んでも、決してピクリとも動かない。

 やがて、猪の肉を平らげた巨大な豹が、大樹の根元で寝そべり、前足で顔を洗い始めた。


 六つの紅い眼球のうち、四つがゆっくりと閉じられる。

 残った二つの目も、満腹感からか、とろんと細められた。


 針の穴を通すような、一瞬の、そして完全なる死角。


 俺は腐葉土の中から、一切の音も殺気も立てずに跳ね起きた。

 向上した脚力が、爆発的な初速を生み出す。空気を切り裂く音すら置き去りにするほどの速度で、俺は数十メートルの距離を一瞬でゼロにした。


 手には、武器屋の極太の鉄杭と、巨大な重ハンマー。


 俺の異常な接近に気づいた豹が、残った二つの目を見開き、迎撃のためにその巨体を捻ろうとする。

 その反応速度は、確かに凄まじかった。

 だが、俺の『不意打ちの初速』が、ほんのコンマ一秒だけ上回った。


 豹が牙を剥き出しにして咆哮を上げるより早く。

 俺は、その無防備な喉笛のど真ん中に特注の鉄杭を押し当て、背中の筋肉が引きちぎれるほどの全力で、ハンマーを打ち下ろした。


 ――ガァァァァンッ!!!!


 森全体を激しく揺るがすような、凄まじい爆発音が響き渡った。

 だが、その直後。俺の右手に、あり得ない感触が伝わってきた。


 刺さらない。

 同格のバケモノの皮膚と、その下にある鋼鉄のような筋肉の壁に阻まれ、武器屋の鉄杭が、グニャリと飴の字のようにひしゃげたのだ。

 さらに、俺の全力の筋力と速度を乗せた衝撃に、ハンマーの太い鉄の柄そのものが耐えきれず、空中で粉々に砕け散った。


「……っ」


 一撃必殺の暗殺は、失敗した。

 普通なら、ここで反撃を喰らって死ぬ場面だ。


 だが、刃は通らなくとも、俺の異常な出力で振り抜かれた鉄塊の『圧倒的な運動エネルギー』そのものが消滅したわけではなかった。

 ひしゃげた鉄杭を介して、大砲の直撃にも等しいすさまじい衝撃波が、豹の喉元から内部へと一気に突き抜けたのだ。


 メキョッ。


 嫌な音が鳴った。

 豹の強靭な首の骨、その最も太い頸椎が、内部から完全にへし折れた音だ。さらに、逃げ場を失った衝撃波がそのまま頭蓋骨の内部で反響し、豹の脳髄を激しく揺らして破壊した。


 反撃のために捻ろうとしていた豹の巨体が、糸の切れた操り人形のようにぐらりと傾き、そのまま轟音を立てて腐葉土の上に崩れ落ちた。


「…………」


 俺は、柄だけになったハンマーを握りしめたまま、荒い息を吐いた。

 結果的に、暗殺は成功した。一滴の血も流させず、物理的な衝撃(鈍器による破壊)だけで、同格の強敵を即死させたのだ。


 直後、巨大な豹の死骸が、光の粒子となって森の空気に溶け始めようとする。

 だが、俺はその光に見とれることなく、豹の頭部へと飛びついた。


 光となって消え去る寸前。

 俺は、豹の口元から覗く『漆黒の巨大な牙』の根元を両手で掴み、死に物狂いで捻り切った。さらに、消えゆく後ろ足から、極めて硬度の高い『大腿骨』を力任せに引き抜く。


 パァンッ、と心地よい音を立てて、深層の捕食者が完全に消滅した。

 あとに残されたのは、今まで見たこともないほど巨大で、赤黒く脈打つような禍々しい魔石。


 俺はそれを拾い上げ、両手で強く握りしめた。


 ドクンッ!!


 細胞が沸騰する。

 これだ。この熱だ。

 圧倒的な格下のオークを何万匹狩っても得られなかった、同格の強敵からのみ搾り取れる、極上の経験値の奔流。

 俺は森の静寂の中で、顔を歪めて歓喜の笑いを漏らした。

 真正面から戦えば死闘になる相手を、ノーリスクの不意打ちで一方的に食い殺す。これ以上効率の良い経験値の稼ぎ方が、他にあるだろうか。


 ひとしきり熱の余韻を味わったあと、俺は足元に転がった、ひしゃげた鉄杭と砕けたハンマーの柄を見下ろした。


「……ハンマーでも、もう俺のフルパワーには耐えられないのか」


 人間の鍛冶技術が悪いわけではない。俺の出力と、深層の魔物の装甲が、ただの鉄という素材の限界を超えてしまっただけだ。


 だが、絶望はない。

 俺は右手で、たった今もぎ取った漆黒の牙を。左手で、重く硬い大腿骨を握りしめた。

 鉄が通らないなら、深層のバケモノの肉体を切り裂いてきた、この同格のバケモノの牙(素材)を使えばいい。

 牙を杭に、骨をハンマーにすれば、俺の出力にも耐えられる最凶の暗殺具になる。


「……ごちそうさまでした。次は、これでお前らの喉笛をぶち抜いてやる」

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