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第13話:紙細工の世界と、レベル10の泥ネズミ

静寂。

 骨が軋み、筋肉が千切れるようなあの凄まじい変異の夜が明け、俺は自室の万年床の上で静かに目を開けた。


 真っ先に感じたのは、圧倒的な『違和感』だった。

 痛みが消えているのは当然だ。だが、それだけではない。世界が、ひどく静かで、そして異常に遅いのだ。


 ブン、ブン。


 視界の端を、一匹の小蠅が飛んでいた。

 いや、飛んでいるという表現は正しくない。空中に固定された小蠅が、一秒に一ミリほどの速度で、ゆっくりと、本当にゆっくりと羽を上下させている風景画を見ているようだった。

 俺の神経伝達速度が常軌を逸して跳ね上がったせいで、周囲の時間が完全に停止しているように錯覚しているのだ。


「……信じられないな。あのバケモノ、どれだけの経験値を溜め込んでたんだ」


 俺はゆっくりと上体を起こそうとして、万年床の横の畳に右手をついた。

 体重をかける。ただ、身体を起こすための日常の動作。


 ――メシャッ。


 乾いた破砕音。

 俺の右手のひらが、抵抗を一切感じることなく、分厚い畳を貫通し、その下にあるアパートの床板をぶち破って床下の空間まで沈み込んでいた。


「なっ……」


 慌てて右手を引き抜く。床には、綺麗な手形の風穴がぽっかりと空いている。

 痛みはない。血も出ていない。

 だが、背筋に冷たい汗が流れた。


 俺は立ち上がろうと、慎重に足に力を入れた。

 ミシッ……バキバキッ!

 軽く踏み込んだだけで、床板がクレーターのように陥没する。俺は慌てて力を抜き、まるで薄氷の上を歩くように、ミリ単位で体重を分散させながら立ち上がった。


 洗面所に向かい、顔を洗おうとしてプラスチックの蛇口に指をかける。

 ひねる。

 パキンッ、と飴細工のように蛇口の根元が砕け散り、水柱が天井に向かって吹き出した。


「おいおい……嘘だろ」


 俺は吹き出す水をハンカチで無理やり縛って止めながら、自分の両手を呆然と見つめた。

 レベルが一つや二つ上がったという次元ではない。人間という枠組み(ハードウェア)そのものが、完全に別の生物へと作り変えられてしまっている。


あの同族喰らいのイレギュラーが蓄積していた、途方もない経験値の塊。それをそっくりそのまま飲み込み、そこに俺の【月次更新】の狂った複利が乗った結果だ。

それが一体、俺の身体にどれほどの『バグ』を引き起こしたのか。


「……ステータス」


俺は震える声で呟き、探索者になった日から見慣れている半透明のパネルを空中に呼び出した。

恐る恐る、自分の『レベル』の項目に視線を落とす。


【 天馬 駆 】

【 レベル:10 】


「…………は?」


俺は自分の目を疑い、思わずパネルを二度見した。

同級生の天才どもがレベル5。国内のトップランカー、人類の到達点と呼ばれるエリートたちですらレベル7だと言われている。


たった一ヶ月。

俺は五年かけても誰も到達できないような常識外れの領域へと、一気に放り出されてしまったのだ。

 

「……このままじゃ、外も歩けねえな」


 俺は深い溜め息をついた。

 今の出力のまま街に出れば、人とすれ違って肩がぶつかっただけで、相手の骨を粉砕してしまう。

 俺は大学を完全に休学する手続きをスマホで済ませると、そこからの数日間、狭いアパートの部屋に引きこもって、己の有り余る暴力を「完璧に抑え込む」ための地味な訓練に没頭した。

 卵を割らずに持つ。紙コップを潰さずに水を飲む。

 紙細工のように脆くなってしまった日常を壊さないための、バケモノの出力制御訓練。


     * * *


 数日後。

 己の出力を完全にコントロールできるようになった俺は、深夜、いつもの布服を着込んで第三階層へと足を運んでいた。

 武器屋の親父から買った、さらに強固な新しい鋼鉄の杭とハンマーを腰に下げている。


 淀んだ泥沼の広場。

 俺が歩いても、もう泥は一切跳ねない。体重を完全に制御し、水面を滑るように歩くことができるからだ。

 広場の中央に、一匹のオークがのし歩いていた。

 かつて俺を蹂躙し、恐怖のどん底に陥れた第三階層の主。


「……」


 俺は岩陰に隠れることすらやめ、堂々とオークの正面に立った。

 オークが俺の気配に気づき、血走った目で丸太の棍棒を振り上げる。


 遅い。

 あくびが出るほど遅い。


 俺は腰のハンマーを抜くことすらしない。

 足元の泥の中に入っていた、親指ほどの大きさの小石を拾い上げ、それを親指の爪に引っ掛けた。

 軽く、本当に軽く、デコピンの要領で小石を弾く。


 ――パンッ!!!


 乾いた破裂音。

 ライフル弾を凌駕する速度で撃ち出された小石は、数十メートル先のオークの眉間を正確に撃ち抜き、分厚い頭蓋骨を背後まで容易く貫通した。


 棍棒を振り上げた姿勢のまま、オークがパァンと光の粒子になって消え去る。

 後に残されたのは、緑色の魔石だけだ。


 俺は近づいて魔石を拾い上げた。

 手のひらから経験値が流れ込んでくる。だが、俺はわずかに眉をひそめた。


「……まるで、砂漠にスポイトで水を一滴垂らしたような感覚だな」


 全く満たされない。

 巨大になりすぎた俺の器からすれば、通常のオークの経験値など、もはやビスケットの欠片ほどの足しにもならなかった。

 この第三階層のオークを何万匹狩ろうと、もう俺の成長が満たされることはないだろう。


「……卒業だな。ここはもう、俺の餌場じゃない」


 俺はオークの魔石をポケットに放り込み、迷うことなく第三階層の最奥にある『下層への階段』へと向かった。


     * * *


 第四階層を素通りし、俺が足を踏み入れたのは、上位のクランやごく一部の天才しか立ち入ることを許されない深層の入り口。

 【第五階層:狂獣の森】だ。


 泥沼だった上層とは違い、そこは鬱蒼とした巨大な樹海だった。

 空気が重い。肺に吸い込む酸素の密度すら違うような、圧倒的なプレッシャー。少しでも気を抜けば、森そのものの殺気に精神を押し潰されそうになる。


 ガサッ。

 頭上の巨大な枝が揺れた。


 見上げると、そこには体長五メートルを超える巨大な漆黒の豹が、音もなく這いつくばっていた。

 顔の左右に三つずつ、合計六つの紅い眼球が不気味に輝いている。深層の捕食者。

 そのしなやかな筋肉から放たれる威圧感は、通常のオークとは比べ物にならない。同級生の天才たちが束になって挑んでも、一瞬で喉笛を噛み千切られて全滅するだろう。


「……いい匂いだ」


 俺は、その六つ目の豹を見上げて、思わず舌舐めずりをした。

 恐怖など微塵もない。あの豹の体内に流れる、極上の経験値の匂い。空っぽになった俺の胃袋を満たすのに、これ以上ないご馳走だ。


 深層の魔物すら凌駕するかもしれない、圧倒的な力を手に入れたのだ。

 剣を抜き、堂々と正面から名乗りを上げて戦うのが、強者の振る舞いというものだろう。


「……なわけ、ねえだろ」


 俺は一人ごちると、その場で泥と腐葉土を両手にすくい上げ、自分の顔や衣服に躊躇なく塗りたくり始めた。

 どれだけバケモノになろうが、どれだけ常識外れの数字を手に入れようが、俺の本質は「死を恐れる泥ネズミ」のままだ。


 俺は気配を完全に殺し、鬱蒼とした腐葉土の影へと、音もなく沈み込んだ。


 最強の肉体と、最低の戦術。

 深層のバケモノたちを絶望のどん底に突き落とす、俺の新たな『暴食』が、静かに幕を開けようとしていた。

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