第12話:五百万の燃料と、バケモノへの羽化
浅い呼吸をするだけで、折れた三本の肋骨が肺を突き破りそうなほどの激痛を脳に送り込んでくる。
第三階層から地上への帰還は、まさに地獄だった。
全身は泥と乾いた血でどす黒く汚れ、右の手首は異常な方向に腫れ上がっている。探索者街の表通りに出ると、すれ違う通行人たちがギョッとして道を空けた。
だが、俺の足取りは決して重くなかった。激痛で歪む顔の奥で、瞳だけが極度の興奮と熱に浮かされ、爛々と輝いていたからだ。
あのイレギュラーのバケモノから奪い取った、途方もない質量の経験値。それはすでに俺の細胞の隅々にまで染み渡り、来月の「更新」を今か今かと待ちわびている。
あとに残されたのは、右のポケットに入っている、ずっしりと重い禍々しい濃緑色の魔石だけだ。
この肋骨の骨折と全身の打撲を、安い病院で普通に治せば、完治まで数週間はかかる。
その間、ダンジョンに潜れなくなる。
経験値を稼ぐ効率が、数週間もゼロになる。
今の俺にとって、それは死ぬことよりも耐えがたい損失だった。
ギルドの正規換金所を通せば、出所の面倒な審査があり、現金化されるまでに数営業日は待たされる。おまけに、万年レベル1の底辺探索者がこんな高純度の魔石を持ち込めば、間違いなく不審に思われ、ギルドの査問委員会に目をつけられてしまう。
「……時間を、金で買うしかない」
俺は血だらけの足を引きずり、早朝の街を裏通りへと向かった。
目指すのは、ギルドを通さずに即金で魔石を買い取ってくれる、あのうさん臭い民間の買取チェーン店だ。
カラン、とドアベルを鳴らして店内に入ると、カウンターの奥で欠伸をしていた初老の鑑定士が、俺の凄惨な姿を見て息を呑んだ。
「お、おい兄ちゃん……なんだその怪我は。オークの群れにでも轢かれたのか?」
「……換金だ。現金で頼む」
俺は無造作に右のポケットから『それ』を取り出し、金属のトレイの上に転がした。
ゴトリ。
ただの石とは思えない、異様に重く、硬い音が響いた。
「なっ……!?」
鑑定士の目が、文字通り飛び出さんばかりに見開かれた。
大人の両手でようやく包めるほどの巨大な魔石。そして何より、周囲の光を吸い込むような、底知れず禍々しい漆黒に近い緑色。
「こ、こんな濃度の魔石、俺も長年やってるが見たことがねえぞ……。オークの突然変異か……?」
鑑定士の手が震えていた。ルーペを目に当て、冷や汗を流しながら魔石の奥底に渦巻くエネルギーの密度を測っている。
だが、数分間の沈黙のあと、彼は商売人特有のいやらしい目つきを取り戻し、わざとらしく咳払いを一つした。
「……兄ちゃん。こいつは確かにデカいが、ギルドの登録にもない未知の魔石だ。正直言って、相場が全く分からねえ」
「いくらだ」
「市場価値が不明なものを買い取るのは、店にとって在庫を抱えるリスクがデカすぎる。……五十万。それが限界だ」
五十万。普通の大学生のアルバイトなら、数ヶ月分のまとまった大金だ。
だが、俺は血と泥にまみれた顔をゆっくりと上げ、鑑定士を真っ直ぐに見据えた。
底辺を這いずり回ってきた俺を、舐めるな。
あの魔石から俺の体内に流れ込んできた、何十匹分にも相当する圧倒的な経験値の熱量。俺自身の身体が、その真の価値を誰よりも正確に測っている。
「……ふざけるな」
俺の喉から、自分でも驚くほど低く、冷酷な声が漏れた。
その瞬間、俺の全身から、あのイレギュラーを叩き潰した時に引きちぎった『純粋な殺気』が漏れ出し、狭い店内を支配した。
「ひっ……!」
鑑定士が顔を青ざめさせ、数歩後ずさった。
俺はトレイの上の魔石に指を這わせながら、静かに告げた。
「これをギルドの公式オークションに流せば、大企業の研究所や大手のクランが、数千万単位で飛びつく代物だろ。在庫リスクだと? 即日でさばける極上の品を前にして、安い嘘をつくな」
「そ、それは……」
「あんたの店の仲介手数料をたっぷり引いてやって、俺の手元に入る現金は最低でも五百万だ。今すぐここで現金と振込で用意できないなら、この足で大通りの競合店に持ち込む」
五百万。
少し前までの俺なら、この金額を手に入れれば「これで目標の資産額に到達した」と狂喜乱舞し、ダンジョン探索を辞めて安全な生活に戻っていたかもしれない。
だが、今は違う。五百万という数字を見ても、俺の心は一ミリも満たされない。
鑑定士は俺の異様な威圧感と、狂気を孕んだ瞳に完全に気圧され、震える手で本部に連絡を取り始めた。
* * *
数十分後。
俺は分厚い札束の入った封筒をリュックにねじ込み、そのまま探索者街の最も煌びやかな一角へと向かった。
高級な武器や防具が並ぶ店のさらに奥にある、白亜の壁で統一された『高級ポーション専門店』だ。
泥と血にまみれた俺が足を踏み入れると、清潔な制服を着た店員たちが露骨に顔をしかめた。
だが、俺がリュックから無造作に数百万円の札束をカウンターに叩きつけると、彼らの態度は一変した。
「ち、中級治癒薬ですね。承知いたしました」
小瓶に入った、淡く光る黄金色の液体。
一本で二百万円もする、大怪我を一瞬で完治させる魔法の薬だ。
俺は店員からそれを受け取ると、店を出ることもなく、その場でコルク栓を引き抜いて一気に胃袋へと流し込んだ。
直後。
折れていた肋骨の断面が、無理やり引っ張られるようにして癒着を始める。
千切れた筋肉の繊維が異常な速度で細胞分裂を繰り返し、再生していく。
「――っ、ぐ、がぁぁっ……!」
治癒の過程は、決して優しいものではなかった。
身体の内側から熱湯を流し込まれたような激痛に、俺はその場で膝をつき、脂汗を流して床を掻きむしった。
だが、数十秒後には、肺を突き破りそうだった痛みは完全に消え去り、腫れ上がっていた右手首も元通りに動くようになっていた。
「……あははっ、すげえな、これ」
俺は立ち上がり、血だらけの服のまま、信じられないものを見るような目で見つめる店員たちに向かって笑いかけた。
手に入れた大金の半分近くが、たった数十秒で消し飛んだ。
それでも構わない。金など、ただのツール(経費)だ。これで数週間のロスが消え、今夜からまたすぐに、あの暗い泥沼で莫大な経験値を吸い上げることができるのだから。
俺は残った金で、武器屋の親父の元へ向かい、さらに太く頑丈な特注の鋼鉄杭を発注して、ボロアパートへと帰還した。
* * *
そして、数日後の深夜。
ボロアパートの自室。壁に掛けられた安い時計の針が、23時58分を指していた。
部屋の明かりは消してある。
俺は万年床の上に仰向けになり、じっと天井の木目を見つめていた。
枕元には、新しく仕入れた無骨な鉄の工具たちが並んでいる。
この一ヶ月間。
俺は第三階層で、数え切れないほどのオークを毒殺し、暗殺し、そして最後には、あの同族喰らいのイレギュラーという『極上のフルコース』を丸呑みにした。
体内に蓄積された経験値の総量は、俺自身の想像を遥かに超えているはずだ。
時計の秒針が進む音が、やけに大きく脳内に響く。
23時59分。
同級生の天才たちが数年かけて登る階段を、俺は泥水をすすりながら、この一ヶ月の複利計算だけで一気に駆け上がろうとしている。
秒針が、頂点へと到達した。
0時00分。
システムのアナウンスなどない。祝福のファンファーレもない。
ただ、唐突に。
ドクンッ!!!
心臓が、今までとは全く違う、重く分厚い、爆発的な鼓動を打った。
それは、過去二回の更新とは次元が違った。
あのイレギュラーから奪い取った途方もない質量の経験値が、俺の身体という器の中で、一気に暴走を始めたのだ。
「あ、がっ……あァァァァァァァァッ!!」
全身の血液が沸騰したかのような錯覚。
筋肉の繊維が内側からブチブチと千切れ、より強靭な太さとなって瞬時に再構築されていく。
骨の密度が限界を超えて圧縮され、ギシギシと悲鳴を上げる。
眼球の奥が焼け焦げそうに熱くなり、視神経が強引に繋ぎ直される。
人間という枠組みそのものが、内側から強引に作り変えられていく凄まじい変異の痛み。
俺は布団の上で海老のように身体を丸め、歯を食いしばりながら、声を殺して悶え苦しんだ。
痛い。熱い。身体が破裂しそうだ。
だが、その強烈な苦痛の奥底で、俺の細胞は歓喜の声を上げていた。
五年間、ずっと怯えて逃げ回ってきた泥ネズミが、ついに絶対的な『力』を手に入れ、真のバケモノへと羽化しようとしている。
骨が鳴る。肉が軋む。
果てしない高みへと跳ね上がる、異常な成長の胎動。
深夜のボロアパートの暗闇の中で、俺の静かで壮絶な変異の夜は、いつまでも続いていた。




