第11話:泥まみれの同類と、暴力的すぎる熱
ズォォォォンッ!!!
第三階層の広場を、爆風のような大剣の一振りが薙ぎ払った。
俺が先ほどまでへたり込んでいた岩の塊が、巨大な刃によって豆腐のように両断され、無数の破片となって泥沼に降り注ぐ。
「ブガァァァァッ!!」
首の真下に極太の鋼鉄の杭を突き立てたまま、傷だらけのイレギュラー(オーク)が怒り狂って大剣を振り回している。
尋常ではない生命力だ。あの位置に異物が刺されば、普通の生物ならショック死するか、痛みに耐えかねてうずくまる。だが、こいつは首の筋肉を万力のように硬直させて出血を抑え込みながら、俺という明確な『敵』を殺すためだけに、その巨体を信じられない速度で躍動させていた。
ビュォォッ!
薙ぎ払いの風圧が、俺の前髪を激しく揺らす。
折れた三本の肋骨が、動くたびに肺を突き破りそうなほどの激痛を脳に送り込んでくる。
だが、俺は泥の上を滑るように後退し、致命傷となる刃の間合いから完璧に逃れ続けていた。
「……ははっ、どうした? 動きが単調になってるぞ、デカブツ」
血を吐きながら、俺はわざと挑発するように笑い声を上げた。
同級生の天才・剣崎なら、この圧倒的な暴力を前にして足がすくみ、為す術もなく潰されていただろう。
だが、俺は違う。五年間、ずっと自分より強い魔物から逃げ回ってきたのだ。
俺のレベル5に向上した肉体は、相手を「倒す」ためではなく、「絶対に攻撃を喰らわず、逃げ延びる」ことに全振りされている。
大振りの軌道、踏み込む前の筋肉の収縮、泥の足場の悪さ。そのすべてを計算し、俺は半歩のステップと泥へのダイブを繰り返し、オークの体力を削るためだけの『遅延行為』を徹底していた。
「ブギィィィィッ!!」
苛立ったオークが、大剣を両手で高く振り上げ、俺の頭上へ真っ向から叩き落としてくる。
俺は回避行動を取りながら、左手で泥沼の底から汚いヘドロを鷲掴みにし、オークの顔面めがけて全力で投げつけた。
ベチャッ!
「ブガッ!?」
泥が目に入り、オークの視界が一瞬だけ塞がれる。
大剣の刃が俺のすぐ横の泥を激しく抉り飛ばした瞬間、俺はオークの懐へと一気に踏み込んだ。
狙うのは首ではない。奴の左太ももに刻まれた、一際目立つ古いケロイドの傷跡だ。
右手に握った短いハンマーを、その古傷のど真ん中へ向けて力任せに振り抜く。
ゴガンッ!!
肉を叩いたとは思えない鈍い音が響き、オークの巨体がわずかにバランスを崩した。
傷跡は皮膚が硬いが、その下の神経や筋繊維は脆い。急所を突けないなら、弱い部分を執拗に叩いて嫌がらせをするだけだ。
俺は深追いせず、すぐに泥を蹴って背後へと大きく飛び退く。
怒り狂ったオークの裏拳が空を切り、虚しく風を叩いた。
「……ぜぇっ、はぁっ……!」
息が上がる。口の中は血の味しかしない。
だが、俺の戦術は確実にバケモノの命を削り取っていた。
オークが首を振り、大剣を振るうたびに、首に刺さった鋼鉄の杭が肉の中でわずかにズレる。筋肉の万力で押さえ込んでいるとはいえ、動けば動くほど傷口は広がり、どす黒い血が止めどなく泥沼へと滴り落ちている。
奴は自分の死期を悟っているのか、焦りから攻撃の振りがどんどん大きく、雑になってきていた。
あと少し。
あと一押しで、あの巨体は完全に沈む。
「ガ、アァァァ……ッ!!」
突然、オークの動きがピタリと止まった。
大量の出血で脳への酸素が足りなくなったのか、巨体が大きくグラリと揺れ、大剣の切っ先が力なく泥の中へと沈む。
膝から崩れ落ちそうになるのを、大剣を杖代わりにして必死に耐えている状態。
(今だ)
千載一遇。いや、俺が泥水をすすって作り出した、必然の死角。
肋骨の激痛を無視し、俺は残された全身の力を両足に込め、泥を爆発させて前傾姿勢で突進した。
俺の殺気に気づいたオークが、最後の力を振り絞り、泥に突き刺さった大剣を無理やり引き抜いて下から掬い上げるように薙ぎ払ってくる。
だが、その軌道はあまりにも遅く、読みやすかった。
俺は姿勢をさらに低くし、泥の上を野球のスライディングのように滑り込んだ。
頭上すれすれを巨大な刃が通過していく。
そのままオークの懐に潜り込んだ俺は、滑る勢いを利用して跳ね起き、オークの分厚い胸当ての縁に足をかけて、その巨体をよじ登った。
見上げる先には、奴の首の真下に深々と突き刺さった、あの『極太の鋼鉄の杭』の頭。
オークが驚愕に見開いた両目と、俺の狂気に満ちた視線が、ゼロ距離で交錯した。
「……ごちそうさま」
俺はオークの肩に左手を引っ掛けて身体を固定し、右手のハンマーを頭上高く振りかぶった。
そして、一切の躊躇なく、これまでの五年間の怨念と、経験値への底知れぬ飢餓感を全て乗せて、杭の頭めがけて全力で打ち下ろした。
――ガギィィィィィィィンッ!!!!
火花が散り、広場全体が震えるほどのすさまじい金属音が爆発した。
ハンマーの重撃を受けた鋼鉄の杭が、オークの首の筋肉の抵抗を完全にへし折り、残りの数センチを強引に突破する。
分厚い頭蓋骨の底面を粉砕し、脳髄のど真ん中を貫通して、杭の先端がオークの頭頂部から勢いよく突き抜けた。
「…………」
声すら出なかった。
歴戦のバケモノの巨体が、まるで雷に打たれたかのようにビクンと一度だけ跳ね上がり、両腕から完全に力が抜け落ちた。
手放された大剣が泥沼に落ち、重い音を立てる。
俺はオークの身体から飛び降り、泥の中に着地した。
直後、俺の背後で、巨大な肉の塊がパァンッと弾け飛んだ。
洞窟全体を照らすほどの強烈な光の粒子。同族の魔石を喰らい続けたバケモノが、ついにこのダンジョンの理へと還元された瞬間だった。
光が収まったあとの泥沼には、大剣と歪んだ胸当て、そして――。
「……なんだ、これ」
俺は荒い息をつきながら、泥の中に転がった『それ』を拾い上げた。
今まで俺が拾ってきたオークの魔石とは、比べ物にならない。大人の両手でようやく包み込めるほどの巨大さ。そして、美しい緑色ではなく、どこまでも深く、禍々しいほどの漆黒に近い濃緑色。
何十、何百という魔物の命を喰らい、濃縮された、純粋な経験値の結晶。
それを両手でしっかりと握りしめた、その瞬間だった。
ドクンッ!!!
俺の心臓が、破裂しそうなほど強く跳ねた。
魔石を握る両手から、火傷しそうなほど暴力的な『熱』が、一気に腕の血管を遡って全身の細胞へと流れ込んできたのだ。
「あ、がっ、あああああっ!?」
痛い。熱い。だが、それ以上に――圧倒的な、頭がおかしくなるほどの『快楽』。
今までチマチマと吸い上げてきたオーク一匹分の経験値など、ただの泥水に思えるほどの、濁流のようなエネルギーの奔流。
俺の身体を構成する全ての細胞が、歓喜の悲鳴を上げながら、その莫大な経験値を一滴残らず貪り食っていく。
あまりの熱量に、俺は魔石を抱きしめたまま泥の中に仰向けに倒れ込んだ。
折れた肋骨の痛みなど、もはや欠片も感じない。あるのは、自分が途方もない格上のバケモノを殺し、その全てを奪い取ったという、絶対的な全能感だけだ。
「……ははっ、あははははははははっ!!!」
静まり返った第三階層の闇の中に、俺の狂ったような笑い声が響き渡った。
最高だ。これ以上の悦びが、この世界のどこにあるというのか。
こんな暴力的な質量の経験値を、来月の【月次更新】で『複利』として掛け合わせたら、俺の身体は、俺の存在は、一体どこまで跳ね上がっちまうんだ?
俺は泥まみれの顔で、見えないダンジョンの天井を仰ぎ見た。
同級生の天才どもが、束になっても決して届かない遥かな高み。
底辺を這いずり回る泥ネズミは、最悪の捕食者を喰らい尽くし、さらなる異常な羽化の時を確信して、いつまでも泥の中で嗤い続けていた。




