第10話:泥底の跳躍と、死角からの杭打ち
泥の底で、俺は完全に停止していた。
思考も、感情も、心臓の鼓動すらも凍りつかせた無機物の世界。
その頭上、わずか数十センチの距離で、傷だらけの巨大なオークが前かがみになっている。
俺が用意した極上の餌。その胸元にねじ込んだ巨大な魔石を抉り出そうと、奴が太い指を突っ込んだ、まさにその瞬間だった。
心の奥底に何時間も封じ込めていた狂気と殺意の鎖を、俺は一気に引きちぎった。
――爆発。
静寂に包まれていた泥沼が、凄まじい水柱となって天高く跳ね上がった。
向上した肉体のすべてのバネを足の裏に集中させ、冷たい泥の底から俺は空へ向かって一直線に跳躍する。
視界が泥水から一気に開け、淀んだ第三階層の空気が肺に流れ込む。
眼前には、信じられないものを見たというように、見開かれたオークの血走った眼球があった。
完璧な不意打ち。
完全なる死角からの、ゼロ距離。
俺の存在に気づいたオークが、咄嗟に右手に持った大剣を振ろうと筋肉を強張らせる。だが、遅い。武器が大きすぎる。俺と奴の距離は、もはや互いの鼻息がかかるほどに密着していた。
大剣を振り被るだけの空間すら、ここにはない。
俺は空中で泥水を撒き散らしながら、左手に握り込んでいた極太の鋼鉄の杭を、オークの太い首の真下、鉄の胸当ての隙間にある柔らかい顎下へと力任せに押し当てた。
「死ね」
一切の感情を排した、ただの作業報告のような低い声。
それと同時に、右手に持った鍛冶用の重いハンマーを、背中の筋肉がちぎれんばかりの力で真上へと振り上げ、鋼鉄の杭の頭に向かって全力で打ち据えた。
――ゴガァァァァッ!!
岩盤を粉砕するような、耳を劈く凄まじい金属音と破砕音が広場に響き渡った。
ハンマーの圧倒的な質量と打撃力が、鋼鉄の杭を介して一点に集中する。二千円の安物ナイフではかすり傷しかつけられなかった異常な硬さの皮膚を、分厚い脂肪を、そして頭蓋骨の底面を、鋼鉄の杭が容易く突き破り、深々と突き刺さっていく。
手首に伝わる、確かな肉と骨を砕く手応え。
杭はそのまま脳髄のど真ん中を貫通し、頭頂部から突き抜けるはずだった。
勝った。
極上の経験値は、俺のものだ。
そう確信した、次の瞬間。
ギギギギギギギギギッ!!!
俺の右手に、あり得ない感触が跳ね返ってきた。
脳髄に到達するわずか数ミリ手前で、杭の進行が完全に止まったのだ。岩盤に杭を打ち込んでいて、奥にある絶対に砕けない鋼の層にぶち当たったかのような、絶望的な反発力。
「……なっ!?」
俺は空中で目を剥いた。
鋼鉄の杭が曲がったわけではない。オークが、首に刺さった異物を止めたのだ。
奴は死線を潜り抜けてきたイレギュラーだ。俺が泥から飛び出したあの刹那、殺されることを本能で悟った奴は、回避を諦め、己の首の筋肉を限界まで膨張させた。さらに上下の顎の骨を砕けるほどの力で噛み合わせ、首周辺の肉体すべてを『巨大な万力』へと変貌させて、杭の進行を強引に挟み込んで止めたのだ。
鋼鉄をも止める、異常なまでの生存本能と筋肉の密度。
こいつは、ただの魔物じゃない。絶対に死なないという執念だけで生き延びてきた、俺と同じ狂人だ。
「ブ、ガァァァァァァァァァッ!!!」
首の奥深くに極太の鋼鉄を突き立てられた激痛に、オークが両目を真っ赤に染め上げて凄まじい咆哮を上げた。
洞窟全体がビリビリと震えるほどの、怒りと殺意の爆発。
空中にいる俺には、回避する術はなかった。
大剣を振るうことすら忘れたオークは、丸太のような左腕をそのまま真横に薙ぎ払い、裏拳で俺の胴体を思い切り殴り飛ばした。
「がはっ……!!」
ダンプカーに側面から激突されたような衝撃。
肺の中の空気が全て吐き出され、左の肋骨が三本、嫌な音を立てて同時に砕け散った。
俺の身体は水切りの石のように泥沼の表面を三度跳ね、十メートル以上離れた岩壁に背中から激突して、泥水の中へと無様に転げ落ちた。
「ごほっ、げはっ……!」
口から大量の血と泥水が吐き出される。
視界が明滅し、意識が遠のきかける。だが、俺は泥の底で歯を食いしばり、必死に右手に残ったハンマーの柄を握り直した。
向上した肉体が、無理やり俺の意識を現実へと繋ぎ止める。
激痛に歪む顔を上げると、広場の中央で、首の真下に極太の杭を突き立てたままの巨大なバケモノが、肩で荒い息をしながら俺を睨みつけていた。
傷口からは、どす黒い血が滝のように噴き出し、足元の泥を赤く染めている。
それでも奴の瞳の奥にある暴力の炎は、一切衰えてはいなかった。むしろ、明確な殺意を持って俺という『敵』を認識し、その巨大な大剣をゆっくりと両手で構え直している。
致命傷には至らなかった。
だが、俺の杭打ちが決して無駄だったわけではない。
「……ははっ、痛ぇ……だが、これで五分だ」
俺は泥水にまみれた顔で、血まみれの口角を歪めて笑った。
奴の首には、まだ鋼鉄の杭が深々と突き刺さったままだ。
筋肉で無理やり止めているとはいえ、動けば動くほど出血は酷くなり、傷口は広がり続ける。放っておいてもいずれ死ぬ、死に体のバケモノ。
対する俺は、肋骨が折れ、全身が泥と血にまみれているが、まだ両足で立つことができる。
相手が死ぬまで、泥水をすすってでも逃げ回り、隙を突いてあの杭をもう一度ハンマーで叩き込めば、俺の勝ちだ。
「来いよ、デカブツ。お前のその莫大な経験値……一滴残らず、俺の餌にしてやる」
俺は折れた肋骨の痛みを強靭な意志でねじ伏せ、短柄のハンマーをだらりと下げたまま、ゆっくりと立ち上がった。
泥沼に落ちる血の音だけが、不気味に響き渡る。
静かなる暗殺は失敗した。
ここから先は、ただ相手の命を削り合うだけの、惨めで、汚らしくて、最高に理不尽な泥沼の死闘の始まりだった。




