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第1話:3%の恩恵と、規格外の【月次更新】

ポタリ、と冷たい水滴が岩肌を伝い落ちる音が、薄暗い空間に響き渡った。

 現代社会の裏側にポッカリと口を開けた異空間――『ダンジョン』の第一階層。苔むした石畳と、鼻を突くような土と鉄錆の匂いが混ざり合うこの場所が、ここ5年間の俺の日常だった。


 俺は暗がりに身を潜め、荒くなりそうになる呼吸を必死に殺していた。

 視線の先、約五メートル。松明の微かな明かりに照らされているのは、緑色の肌と醜悪な顔を持つ小鬼――ゴブリンだ。手には粗末だが分厚い木の棍棒が握られている。


(……足の重心は左。右肩がわずかに下がった。来るのは、大振りのフックだ)


 ゴブリンが鼓膜を裂くような叫び声を上げ、地面を蹴った。

 脳内での予測からコンマ数秒遅れて、視界いっぱいに丸太のような棍棒が迫る。風を切り裂く暴力的な一撃。まともに食らえば、頭蓋骨など容易く陥没するだろう。


 だが、俺は焦らない。

 棍棒が届くギリギリの瞬間、俺は最小限の動きで半歩だけ後ろに下がり、同時に上体を反らした。鼻先数ミリを凶器が通り抜けていく。ゴブリンはフルスイングの遠心力に持っていかれ、無防備な背中を晒して大きく体勢を崩した。


 その瞬間を、俺は5年間待ち続けてきたかのような精度で刈り取る。

 手にしたショートソードを滑らせ、ゴブリンの膝裏の腱を的確に薙ぎ払った。


「ギャギィッ!?」

 醜い悲鳴を上げてゴブリンが崩れ落ちる。その隙を逃さず、俺は踏み込んだ勢いのまま、ゴブリンの頸椎の隙間――骨と骨の間の僅かな急所へ、刃を深々と突き立てた。

 ゴツン、と剣先が硬い地面に到達する感触。直後、ゴブリンの肉体は光の粒子となって四散し、後には小さな魔石だけが残された。


「……ふぅ。動きのロスは、だいぶ減ってきたな」


 額の汗を拭いながら、俺は小さく息を吐いた。

 俺の名前は天馬駆てんま・かける

 人類がダンジョンという超常の存在と、それに伴う『ステータス』というシステムを授かってから半世紀。俺はそんな世界で、最底辺の探索者として日銭を稼ぐ青年だ。


 今の流れるような戦闘を見て、俺のことを「高い敏捷性ステータスを持った強者」だと思う人間はいないだろう。

 なぜなら、俺の身体能力は、その辺を歩いている一般の男子高校生と何一つ変わらないからだ。


 この世界におけるステータスシステムには、絶対的で残酷なルールが存在する。

 それは、どれだけダンジョンでモンスターを倒し『経験値』を稼ごうとも、それがステータス画面に反映され、自身のレベルが上がるのは**『5年に1度の誕生日』**だけ、という果てしなく長いラグだ。


 人類は皆、15歳の誕生日に『レベル1』の身体を与えられる。

 そこからダンジョンに潜り始め、次にステータスが更新されるのは20歳。その次は25歳。

 さらに絶望的なことに、システムによるレベルアップの恩恵は、決して魔法のようなものではない。レベルが一つ上がるごとに向上する身体能力や脳の処理速度は、**「たったの3%」**に過ぎないのだ。


 レベルが上がったからといって、急に剣の達人になるわけではない。魔法の知識が頭にインストールされるわけでもない。

 ただ、筋繊維の質が3%上がり、神経伝達速度が3%上がり、記憶力や理解力が3%向上するだけ。


 だからこそ、この世界では『人間的な経験』が何よりも物を言う。

 俺がさっきゴブリンの攻撃を紙一重で躱せたのは、ステータスが高いからじゃない。この5年間、泥水にまみれながら何千匹というゴブリンの挙動を観察し、筋肉の動かし方を体に叩き込み、死の恐怖と隣り合わせで得た『地道な経験』の賜物だ。


 レベルアップによるスペック向上と、人間的な行動による経験。

 この二つは明確に分かれているが、密接に関係し合っている。スペックが上がれば、脳の理解力や肉体の連動性が高まり、これまで以上の精度で『経験』を吸収できるようになる。質の高い行動と経験を積めば、次の5年後により多くの経験値ボーナスを得られる。

 この好循環に乗れた者だけが、より深い階層へと進むことができるのだ。


「今日の24時で、俺も20歳か……」


 ダンジョンの安全地帯であるセーフティエリアに腰を下ろし、俺は携帯端末の時計を見つめた。

 時刻は23時55分。


 15歳から20歳までの、最初の5年間。

 平均的な探索者は、この初回の更新で『レベル2』になる。毎日血を吐くような努力をしてダンジョンに通い詰めた者で、ようやく『レベル3』。

 そして、生まれ持った才能と環境に恵まれた一握りの天才だけが『レベル5』に到達すると言われている。


 同年代のトップ層は、今日という日を迎えて一気に15%近いスペック向上を果たすのだろう。彼らはその底上げされた性能を使って、さらに高度な経験を積んでいく。

 対して、俺は決して天才ではない。特別な才能なんて何一つない、ただひたすらに泥臭く経験を積んできただけの凡人だ。俺の目標は、あくまで平均点である『レベル2』に到達することだった。


 時計の針が進むにつれ、心臓の鼓動が早くなっていく。


 探索者の間でおとぎ話のように語られる『レベル10の壁』というものがある。

 レベル10を超えた者は、脳と肉体の構造そのものが劇的な変異を起こし、『新人類』と呼ばれる未知の次元へと到達する。9から10へ上がるその一瞬だけで、累計50%以上もの凄まじい性能向上が起きるらしい。

 だが、5年に1度しか成長の機会がない仕様上、そこに到達できるのは才能と幸運を兼ね備えた本物のバケモノだけだ。俺のような凡人が気にするような領域ではない。今の俺に必要なのは、目の前の確実な3%の成長だ。


 やがて――時計の針が、0時00分を指した。


『――個体名:天馬駆の20歳の誕生日を確認』

『――第2回・ステータス更新プロセスを開始します』


 脳内に、性別も感情も読み取れない無機質なシステム音声が響き渡った。

 直後、俺の身体を淡い黄金色の光が包み込む。

 細胞の奥底がじんわりと熱を帯び、頭蓋の中を心地よい微電流が駆け巡るような感覚。


『過去5年間に蓄積された経験値を清算します』

『レベルが1から【2】に上昇しました』


 光が収まると同時に、俺はゆっくりと目を開けた。

「……レベル2か。よし、目標達成だ。順当だな」


 立ち上がり、軽く身体を動かしてみる。

 劇的に身体が軽くなったわけではないし、岩を砕けるほどの腕力がみなぎっているわけでもない。

 だが、確かに『違う』。

 薄暗いダンジョンの奥まで、視界のピントがすっと合いやすくなっている。指先を動かせば、脳の指令に対して神経が以前よりもわずかに遅延なく、忠実に従う感覚がある。頭の中にかかっていた薄い靄が晴れたような、不思議なクリアさ。


 これが、3%の向上。基礎スペックの底上げ。

 たかが3%、されど3%。

 この僅かな能力向上が、これまでの5年間で身体に叩き込んだゴブリンとの戦闘経験や、無数の失敗から得た知見を、より洗練されたものに昇華してくれるはずだ。明日からの探索は、今までよりも少しだけ楽になる。


 安堵の息を吐き、ダンジョンから帰還しようと背を向けた、その時だった。


『――続いて、特殊スキルの獲得判定を行います』

『……解析中。個体名:天馬駆に、極めて異例な【エラーコード:M-01】を検出』


「エラー……?」


 俺は思わず足を止めた。

 ステータス更新でエラーが起きるなんて話、ネットの掲示板でも聞いたことがない。


『特例事項を適用。特殊スキル【月次更新マンスリー・アップデート】を付与します』

『――世界システムの基本ルールを一部上書きしました。次回のステータス更新は【5年後】から【1ヶ月後】に変更されます』


「…………は?」


 無機質なアナウンスの意味が理解できず、俺は間抜けな声を漏らした。

 慌てて空中に手をかざし、自身のステータスボードを呼び出す。半透明のウィンドウには、確かに見慣れないスキルが刻まれていた。


================

【名前】天馬 てんま・かける

【年齢】20歳

【レベル】2

【特殊スキル】

『月次更新』:ステータス更新の周期が「5年に1度」から「1ヶ月に1度」に変更される。

================


「いっかげつ……?」


 その文字列を二度、三度と読み直す。

 先程までより3%だけ処理速度の上がった俺の脳が、瞬時にそのスキルの持つ『異常性』を弾き出し――俺は、背筋に強烈な悪寒のようなものを感じた。

 いや、悪寒ではない。これは、未知の可能性に対する激しい武者震いだ。


 レベルアップによるシステムの成長恩恵は、3%。

 普通の人間は、この恩恵を5年という途方もない時間をかけて、ようやく一度だけ得る。

 だが俺は、これを毎月得るのだ。


 レベル2になった俺は、基礎スペックが上がり、これまでより少しだけ質の高い『経験』を積めるようになる。運動神経が上がったことでより高度な回避ができ、理解力が上がったことでより深く敵の生態を考察できる。

 そして、その質の高い行動から得られた莫大な経験値は、5年後ではなく『来月』の俺を確実にレベル3へと押し上げるだろう。


 レベル3になれば、さらに頭の回転が速くなり、肉体の連動性が増す。

 すると、得られる経験の質と量はさらに跳ね上がり、再来月にはレベル4になっているはずだ。


 成長が、さらなる成長を呼ぶ。

 スペックが経験の質を引き上げ、質の高い経験がさらにスペックを底上げしていく。

 それはつまり、投資の世界でいうところの――『複利』だ。


 単利でちまちまと増えるのではない。元本スペックが膨らめば膨らむほど、得られる利子(経験値)が爆発的に増えていく、あの恐ろしい雪だるま式の力。


 俺が普通に探索者を続けていれば、『レベル10の壁』を越え、新人類と呼ばれる領域に到達するのは40代か、あるいは一生無理だったかもしれない。同年代の天才たちとの差は、開いていく一方だったはずだ。

 だが、この【月次更新】というチートじみた複利効果があればどうなる?


「……1年。いや、このペースで効率を上げ続ければ、半年もあれば俺は『壁』をぶち破れる……!」


 静まり返った暗いダンジョンの中に、俺の震える声が響いた。

 誰もが5年に1度の成長を待ちわび、長い停滞期間に耐え忍ぶこの世界で。

 俺だけが毎月、果てしない速度で己をアップデートし続けることができる。


 泥水にまみれた5年間の経験が、システムという最強のエンジンを得て、今、爆発的に加速し始めようとしていた。

 握りしめた拳に、今まで感じたことのない熱い力が宿っていくのを感じる。


「さて……来月の『更新日』までに、今日上がった3%の性能を限界まで使い倒してやるか」


 俺はショートソードを力強く握り直し、帰還の足をとめた。

 そして、より強い魔物が潜む、未踏の第二階層へと続く階段へと迷いなく足を踏み出した。


 底辺を這いずり回っていた凡人探索者の、常識を覆す逆襲が、今ここから始まる。

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