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第8章芦川という賭け 第9章崩れる日常 第10章夜の底で誓ったもの 第11章逃走と銃声の夜 第12章反撃の序章 第13章仁科倉庫・突入・・・

 第7章までで、優と幸を取り巻く「夜」は深さを増し、逃げ場を失った現実が二人を追い詰めていく。第8章からは、物語が一気に動き出す。弁護士・芦川の登場によって、これまで一方的に攻め込まれるだけだった二人に、初めて“戦うための光”が差し込む。

 黒田の支配、闇金の構造、裏社会の恐ろしさ。これらが本格的に姿を現し、優は自分の人生だけでなく幸の未来を守るため、危険な選択を迫られていく。

 友情・裏切り・復讐・贖罪。それぞれの思惑が交錯し、倉庫での決死の対決へと物語は加速する。そして、黒田が沈んだ夜の先に、優と幸がどんな未来を選ぶのか――

 本章以降は、“夜の終わりと、光が始まる瞬間”の物語である。

 『夜を担保にした恋』(下巻)

第八章 黒田の真意

1.不自然すぎる「裏金の帳簿」


 早朝の冷たい風が吹く中、薄汚れた喫茶店の奥の席。優と正彦は向かい合って座っていた。


 優は差し出された紙束――黒田の裏金帳簿――を震える手でめくる。


「……これ、本物なのか?」


「本物だ。俺がいた工場の建て替えで、黒田に騙される前にな……あいつらの不正を“偶然”見つけちまったんだ」


 正彦は深くうつむき、額を押さえた。


「この帳簿を持ち逃げしたせいで、俺は奴らに命を狙われた。娘に借金が残ったのは……全部、俺の責任だ」


 その声には、悔恨と罪悪感がにじんでいた。


「だが、この帳簿はただの裏金の記録じゃねえ。“建設現場の入札不正ルート”の証拠そのものだ」


「入札……不正……」


「お前の会社も、黒田側に“洗われてる”。お前の現場の図面が流出したのも、その線だ」


 優は唇を噛む。


(やっぱり……俺は、黒田の罠に引きずり込まれていたんだ)

「黒田は、本気でお前を“自分の駒”にする気だ。

 技術者の情報が欲しい。建設会社の内部に穴を開けたい。

 幸は……そのための“鍵”にされたんだよ」


 正彦の言葉に、優の胸がひき裂かれた。


「幸を……道具に……」


「あいつらにとって女は商品だ。家族も友達も利用価値でしか見ねぇ」


 正彦は、震える指で帳簿の一箇所を示した。


「ここを見ろ。

 “近藤建設 第三事業部” ってあるだろ」


「……俺の所属部署だ」


「お前の現場の“予算超過”は、全部ここへ流れてる。

 本来施工に使われる資金が、黒田の裏金に消えてんだ」


 優の中で、怒りが爆発した。


「――ふざけんな!!

 俺たち現場がどれだけ苦労してると思って――!!」


 喫茶店に響き、慌てて声を抑える。


(俺が守りたい人が……俺の現場が……全部、奴らに食われていた)


 優は拳を握りしめ、真っ直ぐ正彦を見た。


「幸は……今どこなんだ?」


「それを探すために、お前の力が必要なんだよ」


「俺の……?」


「この帳簿は“断片”にすぎねぇ。

 黒田のヤサを突き止めるには、お前の現場の“隠しデータ”が必要なんだ」


 優の心臓が一度止まったように感じた。


「俺の……現場の裏データ?」


「そうだ。黒田は表では“不動産業者”。だが本命は、“土地の価値を歪めて資金を抜く”ことだ」


「……土地の価値?」


「お前の現場、違法増築があるだろ」


 優は息を呑んだ。


「なんでそれを……」


「黒田はその違法部分を利用して、“裏金の出入り口”にしてる。

 そこを押さえりゃ、全部暴ける」


(黒田……てめぇ……!)


 優の目に、闘う決意が宿った。


「……幸の居場所を突き止められるなら、何でもやる」


「言ったな?」


 正彦はゆっくり立ち上がった。


「これから地獄に足を突っ込むことになる。本当に、覚悟はあるのか?」


「あるよ。とっくに決まってた。

 あの日、幸が泣いた時からな」


 正彦は優の言葉を聞いて、一瞬だけ表情を緩めた。


「じゃあ行くぞ。――“裏を暴く”旅だ」



2.黒田の部下、“アキラ”


 喫茶店を出て歩き始めた瞬間だった。


 後ろから、肩をポンと叩かれる。

「よう」


 優と正彦が振り返ると、革ジャンの若い男が煙草をくわえたまま立っていた。


 目が鋭く、左腕には刺青が見えている。


「黒田さんが探してんぜ。“梶原優と、もう一人のデブ親父”をよ」


「……!」


(見つかった――!?)


 正彦が一瞬で顔色を変える。


「逃げろ、優!!」


 だが遅かった。


 男――“アキラ”が、足元からナイフを抜いた。


「大人しく来いや。“女の居場所”知りたいんだろ?」


 その言葉に、優は逆に冷静になった。


(こいつらは幸を……まだ拘束している。まだ生きてる……!)


「幸は……どこだ!!」


「言うわけねぇだろ。ただし――お前らが大人しく来るなら、“手は出さねぇ”ってよ」


「信じられるか!!」


 アキラが喉の奥で笑った。


「信じる信じねぇは、お前の勝手だ。けどよ――」


 アキラはナイフをくるりと回し、優の首元へ突きつける。


「従わなきゃ、“次に消えるのは母親かもしんねぇ”」


 その瞬間、優の血の温度が下がった。


(俺の母さんを……)


「優、下がれ!」


 正彦が前に出た。


「俺が先に行く。お前は逃げろ!」


「行かせねぇよ」


 アキラの背後から、もう二人の男が現れた。

 囲まれた。


(……詰んだ……)


 そう思った瞬間。


 突然、道路の向こうで車のクラクションが鳴った。


「――優!!」


 佐伯だった。

 車の窓から顔を出し、怒鳴っている。


「乗れ!! 早く!!!」


「ちっ……!」


 アキラが優の腕を掴もうとした瞬間、正彦が全身でタックルした。


「走れ!!! 優!!!」


「正彦さん!!」


「いいから行けぇぇぇ!!」


 優は振り返りながら、佐伯の車へと全力で走った。


 アキラたちが追いかけてくる。


「くそ!! 梶原ァァァ!!」


 優が車に飛び乗った瞬間――佐伯が叫んだ。


「しがみつけ!!」


 アクセルが踏み込まれ、車は急加速した。


 後方で、男たちの怒号が響く。


 優は胸を押さえながら、必死に言った。


「佐伯……お前……なんで……」


「言ったろ。“味方だ”って」


 佐伯は前だけを見ていたが、その横顔は震えていた。


「だが梶原……お前……とんでもねぇもんに首突っ込んでるぞ……!!」


「分かってる……でももう、戻れねぇんだ」


「幸のためか?」


「……ああ」


佐伯はハンドルを握りしめ、深く息を吸った。


「だったら言え。これから……何をするつもりだ?」


 優は震える拳を固く握った。


「黒田を――潰す」


 佐伯は目を見開き、それから笑った。


「……よっしゃ。その答え……待ってた」


 車は夜の街を切り裂き、走り去った。



3.“新たな同盟”


 佐伯の車は人気のない工場跡地に停まった。

 優と佐伯は肩で息をしながら座り込む。


「正彦さん……捕まったか……?」


「いや……あの親父、ただの逃亡者じゃねぇぞ。視線の読み方も動きも、素人じゃねえ」


「……元ヤクザだって言ってた」


「やっぱりな……。でも、幸を守るために戻ってきたんだろ?」


「ああ。幸を“利用された”こと、全部知ってる……」


 優は帳簿を握りしめ、佐伯に見せた。


「これが黒田の“弱点”だ。裏金、入札不正、建築違法の証拠……全部つながってる。

 これを正しく使えば、幸を取り戻せる」


 佐伯は紙に目を通し、顔色を失った。


「これ……ヤバすぎねぇか……? お前の会社も……グルかよ……」


「全社じゃない。一部の幹部が繋がってるんだ。だから――俺はもう会社を信用できない」


「……となると、協力者が必要だな」


「誰だ?」


「一人……心当たりがある」


 佐伯はポケットから名刺を取り出した。


「裏金と不正建築に詳しい“弁護士”。警察と繋がりがあって、ハングレ案件も扱ってる。

 ただし――」


「ただし?」


「“クリーンな理由”じゃないと動かねぇ。お前の“覚悟”が試されるかもしれねぇ」


 優は即答した。


「覚悟なら……とっくにできてる」


 佐伯はうなずき、名刺を優に渡した。


「――優。ここからが本当の地獄だ。 幸を助けるってのは、黒田の“資金源を潰す”ってことだ」


「分かってる」


「殴り合いとかじゃ済まねぇ。命、本当に狙われるぞ?」


「俺は……幸を救えるならそれでいい」


 佐伯は一瞬だけ笑い、真剣な声で言った。


「よし。じゃあ――行くか」


 優は名刺を胸ポケットにしまい、静かにうなずいた。


(待ってろ幸。必ず行く。絶対に取り戻す)


第九章 弁護士・芦川

1.危険な弁護士


 佐伯の案内で、優が訪れたのは、古びた雑居ビルの三階。

 廊下の電灯はチカチカと点滅し、どこか湿ったような臭いが漂っている。


「……ここが弁護士事務所か?」


「表向きはな。けど、実態は――“半グレ潰し専門”。弁護士なんだが、その筋からは恐れられてる」


 佐伯の声もいつもより低い。


 扉の前に立つと、黒いプレートに「芦川法律事務所」とだけ書かれていた。


「行くぞ」


 佐伯がノックした。


「入れ」


 その声は底が抜けたように低く、静かだった。


 扉を開けると、室内は外観とは裏腹に整然としていた。

 書類棚が壁一面に並び、机の上にはノートPCが開かれている。

 窓際の黒い革椅子に、1人の男が座っていた。


 灰色のスーツ。

 細いメガネ。

 切れ長の眼。

 感情の読めない顔。


 ――こいつが、芦川。


「座れ」


 芦川は視線だけで指示した。


 優と佐伯は緊張しながら腰を下ろした。


「まず聞く。“黒田の裏金・入札不正・建設会社の癒着”――どこまで知っている?」


 優は持ってきた帳簿を差し出した。


「これが……その証拠です」


 芦川は帳簿を受け取り、ページをめくりながら静かに言った。


「……本物だ。しかも、この書式は“暴力団のフロント企業”で使われているタイプ。

 明らかに刑事事件レベルだな」


 優は息を呑んだ。


「俺は……これを使って、幸を助けたい」


「ほう、“個人救出”か。証拠を使う理由が“恋愛”というのは、珍しいな」


「違います。恋愛だけじゃない。彼女は……巻き込まれたんです。借金のせいで……俺が、守る」


 芦川は優をじっと見つめた。


「覚悟は本物らしい」


 その言葉に、優の背筋が伸びる。


「梶原優。君が敵に回しているのは“黒田”ではない」


「……?」


「黒田の背後にいる“組織”だ。奴はただのコレクターだよ。ターゲットを経済的に追い詰め、“駒”として使う」


(黒田は……ただの“窓口”…?)


 芦川は続ける。


「しかも君は、すでに黒田の“標的枠”に入っている。幸を捕まえた理由も、おそらく君を動かすためだ」


「……それは正彦さんも言っていた」


「正彦?」


「幸の父親です」


 芦川の指がぴたりと止まった。


「水木正彦……まさか生きていたのか」


「え……知り合いなんですか?」


「生きていれば“重要証人”になった男だ。奴は黒田の裏金ルートを一度暴きかけた。だから殺されかけた」


 優は息を詰めた。


「幸は……どこにいるんですか」


 芦川は帳簿を閉じ、机に置いた。


「可能性の高い場所が一つある。――“沖洲工業跡地”。」


「……廃工場?」


「黒田グループが最近買い取った土地だ。土地評価を下げた後、一気に転売するために“あること”をしている」


「“あること”?」


「違法改造。地下に“貸し倉庫”と称した――監禁スペースを作っている」


 優の心臓が凍った。


「そこに幸が……?」


「可能性は高い。だが、乗り込むのは無謀だ」


「無謀でも行く」


 優は即答した。


 芦川の眼が細くなった。


「……いいだろう」


「え……?」


「私は君を止めない。ただし――助けもしない」


「なぜ……」


「君は“死ぬ可能性のある道”を選んだ。私は“死ぬ気で戦う人間”にだけ情報を渡すが、介入はしない」


 優は拳を握った。


「それで十分です。情報だけでいい」


「そう言うと思った」


 芦川は机からUSBと地図を取り出し、優に差し出した。


「このUSBには廃工場の図面が入っている。地下に“監禁区画”が三つある。

 一つは最近使われた跡がある」


 優は震える手で受け取った。


「ありがとう……ございます」


 芦川はゆっくりと立ち上がり、優を見つめた。


「梶原優。君は、まっすぐすぎる。だからこそ危険だ。だが――」


 芦川はわずかに口元を緩めた。


「“まっすぐな人間”だけが地獄を突破することがある。幸を助けたいなら――後ろを振り返るな」


「……振り返りません」


 優は深く頭を下げた。



2.“幸の監禁”の真相


 一方その頃、廃工場の薄暗い地下。


 コンクリートの匂い。

 湿った鉄の味。

 小さな明かりが一つだけ灯った監禁部屋。

そこで――幸はうずくまっていた。


 両手首はロープで縛られ、

 腹部には蹴られた痕が残っている。


 扉の外から、アキラの声が聞こえる。


「黒田さんがよぉ……『優が動き出したら、女を“餌”にしろ』ってよ」


  幸の涙が頬を伝う。


「優君……来ちゃだめ……巻き込まれちゃう……」


  アキラは鍵を揺らしながら残酷に笑った。


「来るよ。あの男は絶対来る。お前のためにな」


「……優君……」


  幸は小さく震え、目を閉じた。


(ごめん……ごめんね……全部……私のせいだよ……)


  だが、その涙の奥には――


 優を信じる光が、確かに残っていた。



3.優の決断


  夜の街へ出ると、佐伯が深い溜息をついた。


「優……行く気満々だな」


「ああ。“待ってろ”なんて無理だ。幸は……あの廃工場にいる」

「でもよ……敵は黒田だけじゃねぇ。半グレもヤクザも繋がってる」


「構わない。俺は――幸を助けるためなら、何でもやる」


  佐伯は優の肩をつかみ、真正面から睨んだ。


「じゃあ俺も行く」


「佐伯、危ないぞ」


「うるせぇ。

  男が一度言った“味方”を引っ込めるわけねぇだろ」


  その言葉に、優は小さく笑った。


「ありがとう……佐伯」


「おう。ただし――」


  佐伯は顔を寄せ、怒鳴るように言った。


「死ぬなよ梶原!!」


「ああ……死なねぇよ」


  優は、幸のポーチを胸に抱きしめ、夜空を見上げた。


(幸……もうすぐ行くから……)


  そして優は歩き出した。


  向かう先は――沖洲工業跡地。


 そこには、黒田の罠、裏金の証拠、幸の命、そして――優の人生のすべてが待ち受けていた。


第十章 廃工場突入(前編)

1.荒れ果てた境界線


 沖洲工業跡地は、街外れの埠頭にひっそりと佇んでいた。

 風で錆びついたフェンスが軋み、遠くで波の打ち付ける音が響く。


 夜の闇に沈んだ巨大な倉庫群。

 その一角――“地下の監禁区画”が存在すると芦川は言った。


 優と佐伯は、車を離れた場所に停め、徒歩で近づいていた。


「……おい優。ここ……本当にやべぇぞ」


 佐伯が口を押さえながら低く言った。

 工場の敷地に漂うのは、鉄と油と……

 どこか、血のような生臭さ。


「ああ。この空気……人間が長くいた場所の匂いじゃない」


 優は一歩踏み込むごとに、心臓が強く脈打つのを感じた。


「幸……ここにいるんだよな……」


「優……落ち着け。突っ走ると死ぬぞ」


「分かってる……けど……」


 優は胸ポケットに入れた“幸の化粧ポーチ”を指で押さえた。

 これが、優をここまで連れてきた。


 風が鳴った。

 倉庫の屋根に張られた鉄板が揺れ、乾いた音を立てる。


「まずは……芦川の図面の“西側通路”から行くぞ」

「合図したら伏せろよ」

「走れとは言ってねぇからな。慎重に。死んだら終わりだ」

佐伯の声は震えていたが、覚悟がにじんでいた。


 優は息を吸い、ただ一つの言葉を絞り出す。


「――幸を助ける」


 それだけだった。



2.“監視網”


 二人は倉庫の影に身を潜め、ゆっくりと進んだ。


 暗闇に慣れてくると、時折、小さな光が走るのが見えた。


「……携帯のライトだな。巡回してる」


 佐伯が囁く。


 倉庫の中から、不規則な足音。

 笑い声。

 喧嘩のような声。


「クソ……。“監禁してる”ってレベルじゃねぇぞ……。まるで、ここ全体が“闇の仕事場”じゃねぇか」


「ああ。この工場、黒田の“金庫”なんだろう。裏金を回す場所……資材を洗浄する場所……幸みたいな“駒”を閉じ込める場所……」


 優の言葉に、佐伯はぞっとした顔をした。


「漫画みたいな話だと思ってたけど……本当にあるんだな、こういう場所……」


(ここに……幸が……一人で……)


 優の胸が痛む。


(怖かっただろう。寒かっただろう。痛かっただろう。早く……行かなきゃ……)


 だが、その時。


「――動くな」


 低い声が頭の後ろで響いた。


 優と佐伯は同時に凍った。

 背後に影が立っている。


「手、見せろ。静かにな」


 ライトが照らされた。

 目の前に現れたのは――


 黒田の側近・アキラではなかった。


 若いが眼光の鋭い半グレ風の男。 片手に伸縮式の警棒を握っている。


(……巡回役か!)


 優が拳を握りしめた瞬間、佐伯が素早く囁いた。


「優、伏せろっ!!」


 佐伯が飛び出し、男の腕にタックル。

 警棒が振り下ろされ、鉄を叩くような音が響いた。


「ぐぁっ!!」


「佐伯!!」


 優は男の足に滑り込むように蹴りを入れた。

 ガッと膝の裏に入る。


 男が崩れた。

 佐伯が頭部を押さえ込む。


「早く!! 口ふさげ!!」


 優は手元の作業用ガムテープで男の口を塞ぎ、手足を縛った。

 動けないように影へ押し込む。


「っは……っは……梶原……お前……強すぎねぇか……」


「いや……今のは……勢いだけだ……」


「勢いでも……助かったぞ……」


 佐伯は痛む肩をさすりながら笑う。


「これで終わりじゃねぇぞ……優……」


「ああ……分かってる」


 幸の声が聞こえた気がした。


(待ってろ……。すぐに行く)



3.“幸の声”


 倉庫の中は、ほとんど闇だった。


 優と佐伯は壁に沿って進み、地下に続く階段を見つけた。


 ――ギィ……ギィ……


 湿った階段が、二人の体重で悲鳴を上げる。


 下へ下へ。

 迷路のような地下通路を進む。


「優……ここ……マジで生きて帰れねぇぞ……」


「いい……進め。幸がいるんだ……」


 そして――


 遠くのほうから、微かに声が聞こえた。


 震えた、弱った、か細い声。


『……優……君……』


 優は全身が跳ねるように反応した。


「幸……!?」


 周囲に響く幻聴かと思った。

 でも違う。

 確かに“幸の声”だった。


『……怖い……痛い……寒い……優君……』


「幸!! 聞こえるか!! 俺だ!!」


 佐伯が慌てて優の口を塞いだ。


「バカ!! 声出すな!! 聞かれる!!」


 だが優は止まれなかった。


「幸!! どこだ!! 返事してくれ!!」

その時――


 通路の奥で、何かがガタッと音を立てた。


「……聞こえたぞ……」


 佐伯の声が低い。


「誰か来る……!」


 優は壁に背中を押し付け、拳を握る。


 足音が近づく。


 カツ……カツ……カツ……


 緊張で胃がねじ切れそうになる。


 そして――


 影が現れた。


 伸縮式の警棒。

 革ジャン。

 刺青。


 アキラだった。


「……やっと来たな、梶原優」


 アキラの口元が、獲物を舐める獣のように歪んだ。


「女は“奥の部屋”だよ。でもな――」


 アキラは武器を構え、


「通れると思うなよ?」


 優は拳を固く握りしめ、


「……どけ」


 アキラは薄く笑った。


「“通るなら殺す”、それが黒田さんの命令だ。お前をここで潰せってよ」


 優は一歩踏み出した。


 震えはもうなかった。


 佐伯が優の隣に立つ。


「二人まとめて来いよ、クソガキ」


 アキラの目が鋭く光った。


「いいだろ――殺してやるよ」



4.最初の激突


 アキラが飛びかかってきた。


 警棒が横に振り抜かれ、空気が裂ける。


「危ねぇ!! 優!!」


 優はぎりぎりのところで身を引き、壁に腕がぶつかった。

 痛みが走る。


「動きが鈍ぇんだよ!!!」


 アキラの足払いが優の足をかすめ、優は転びかけた。

 しかし――


「優!! 右!!」


 佐伯の声で反応し、優が反射的に拳を振る。


 アキラの頬に当たり、男がよろけた。


「この野郎……!!」


 アキラが怒りで顔を歪め、再び突っ込んでくる。


 優とアキラが激しくぶつかり合う。


 拳が交錯し、壁に叩きつけられ、蹴り返し、また殴りつける。


 何度も倒れそうになる。

 でも――


(倒れられねぇ……!!)

(幸が……奥の部屋で……!!)

(俺が行かなきゃ……!!)


 優の全身に力が走る。


 そして――


 佐伯が背後から怒鳴った。


「優!! 今だ!!!」


 アキラが攻撃の勢いで体勢を崩した瞬間だった。


 優は全力で拳を振り抜いた。


「――うおおおおおっ!!」


 アキラの顎に直撃。


 アキラの身体が宙に浮き、

 コンクリートの床に叩きつけられた。


 男は動かなくなった。


 息を切らし、優は壁に手をついた。


「はぁ……はぁ……はぁ……!!」


 佐伯が肩を押さえながら笑う。


「……優……てめぇ……マジでやったな……!!」


 優はアキラの落とした鍵を拾い、奥の扉へ走った。


「幸……!!今行く!!」


 扉に鍵を差し、回す。


 ガチャッ。


 扉が開いた。


 暗い小部屋。


 その奥――


 薄い毛布に包まれ、震えながら座り込む幸。


 顔は涙で濡れ、手首には縄の跡。

優の姿が光の中に現れると――


「……優……君……?」


 幸の声が震えた。


 優は息を飲み、


「幸……!!」


 その瞬間、幸の表情が崩れた。


「優君……!」

「優君っ……!!」

「来てくれた……来てくれたぁ……!!」


 優は駆け寄り、幸を強く抱きしめた。


「遅くなって……ごめん……!!絶対助ける……!!」


 幸は優の胸にしがみつき、声にならないほど泣く。


「怖かった……!!もう……会えないかと……思ったよ……!!」


「もう大丈夫だ……絶対離さねぇ……」


 優の腕には、強い決意と震える心が同時にあった。


(幸……絶対に……絶対に守る)


 だが――


 背後で、金属が擦れる音がした。


 佐伯が叫ぶ。


「優!!後ろだ!!」


第十章(後編)


廃工場、崩れゆく夜**


1.“後ろ”


 幸を抱きしめたまま、優は振り返った。


 視界の先――床に倒れていたはずのアキラが、ゆっくりと、蛇のように身体を起こしていた。


 口から血を流し、目は狂気に光っている。


「梶原ァ……殺す……殺す……!!」


「まだ動けんのかよ……!!」

 佐伯が叫ぶ。


 アキラは拾った警棒を逆手に持ち、完全に“殺すため”の構えで優へ体重を預けて突進してきた。


「優君!!」


「幸、後ろに!!」


 優は幸をかばい前に立つ。アキラが一気に距離を詰め――


「死ねぇぇええ!!」


 警棒が横薙ぎに振られた。


 その刹那、


 バンッ!!

 乾いた破裂音が通路に響いた。


 アキラの腕が弾かれる。

 警棒が吹き飛び、アキラ自身も壁に叩きつけられた。


「っ……は……!?」


 優と佐伯、幸が息を呑んで振り返る。


 薄暗い通路の奥、血だらけの顔で立っていたのは――


水木正彦だった。


「……間に合ったか……優……幸……」


「正彦さん!! 生きてたのか……!?」


「殺されかけたが……あいつら、詰めが甘い……死んだふりをすりゃあ……逃げられる」


  正彦は片手に鉄パイプを握り、肩で荒く息をしていた。


「……てめぇ……生きて……」


  アキラが地を這うように正彦を見上げる。


「当たりめぇだ。娘を……地獄に落とした連中に……このまま死ねるかよ」


  正彦の声は怒りで震えていた。


(正彦さん……自分の人生を捨てたのに……それでも幸を守ろうとしてる……)


  優は胸が熱くなるような痛みに襲われた。


「優……幸を連れて、外に出ろ。ここは俺が食い止める」


「正彦さん、あなたはもう……」

「黙れ!!」

 正彦が怒鳴った。


「俺の逃げた人生はこの十年で十分だ……だがな……娘がここで死ぬのは、絶対に許さねぇ……!!」


 その言葉に、優の胸が震えた。


「……分かった。必ず……みんなで帰る」


 正彦は優を見た。

 涙か血か分からないものが流れていた。


「頼むぞ……優君……娘を、頼む……」



2.増援の足音


 優は幸の肩を抱き、佐伯とともに出口へ向かう。


 だが――遠くの通路から、“複数の足音”が響き始めた。


 足音は重く、速い。

 黒田の部下が何人も一斉に走っている音だ。


「まずい……来やがった……!!」


 佐伯が舌打ちした。


「優!! 急げ!!」


「ああ!!」


 優たちは全速力で階段を上がり始める。


 しかし、階段の上から――


「おい、誰か降りてきてるぞ!!」

「黒田さんが言ってたやつらだ!!」


 ライトが一斉にこちらを照らす。


「クソ!! 挟まれた!!」


 佐伯が叫ぶ。


(ここで捕まったら……幸がまた地獄に戻る……絶対に……逃げ切る!!)


「幸、走れるか!?」


「う、うん……!!」


 幸は涙をぬぐい、優の背に掴まった。


「こっちだ!!」

 佐伯が脇の通路を指す。


 三人は全力で走った。


 倉庫の金属が揺れ、怒号が響く。


「逃がすな!!」

「女を取り返せ!!」

「梶原優を潰せ!!」


 怒りと殺意の混ざった声が、闇の中に反響する。





3.裏口


 佐伯が叫んだ。


「優!! あのシャッターの裏に非常口がある!!芦川が言ってた!!」


「行くぞ!!」


 三人は錆びたシャッターを押し開けようとするが――


「開かない!!」


「くそっ、鍵が外からかけられてる!!!」


 足音が近づく。


「――来たぞ」


 優は顔を上げた。


 通路の奥から、数人の黒田の部下が現れた。

バット、鉄パイプ……中にはナイフを持った者までいる。


 その中央。


 革靴でゆっくりと歩く男。


黒田だった。


 綺麗なコート、冷たい笑み。

 闇の王のように堂々と立っていた。


「よう、梶原君。随分と派手にやってくれたなぁ?」


「黒田……!!」


「感動したよ。“女のために命張る男”って、久々に見たぜ?」


  黒田はゆっくりと手を叩いた。


「だが残念だ。――ここまでだ」


  優は幸を背にかばい、前へ出る。


「幸は渡さない……!!お前なんかに……絶対に……渡さない!!」


  黒田は一つ笑った。


「渡さない?お前のものか?」


  その瞬間――黒田の目が“底冷えするほどの殺意”に変わった。


「梶原……てめぇ、俺の顔に泥塗ったよな?」


  胸の奥が凍る。


「勘違いさせてやるよ。“世界は正義の味方じゃない”ってな」


  黒田が手を上げた。


「やれ」


  部下が一斉に動き出す。


「くるぞ優!!」


「佐伯!! 幸を頼んだ!!」


「 任せろ!! 絶対に守る!!」


  優は前に出た。


 殴り合いではない。

 これは――

命の奪い合いだ。



4.緊急の乱戦


 バットが振られる。

 優は身をのけ反らせ、拳で男の顎を打つ。

 別の男がナイフで刺そうとする。


 佐伯が消火器を投げつけ、視界を奪う。


「優!! 左!!」


 優はその声に従い、掴まれそうになった腕を振り払う。


 殴られ、殴り返し、蹴られ、蹴り返す。


 優は自分でも信じられないほど動けていた。

 アドレナリンと恐怖と怒りが身体を推し進める。


(幸を……守るんだ……ここで倒れたら……すべて終わりだ……!!)


 その時。


「優君――――!!」


 幸の悲鳴が聞こえた。


「危ない!!」


 振り返ると、ナイフを持った男が幸に手を伸ばしていた。


(間に合わない!!)

優は全身を投げ出そうとした。


 その瞬間――


 ガンッ!!!!


 男の頭に鉄パイプが叩きつけられた。


「……離れろ……娘から……」


 正彦だった。

 血だらけで、片足を引きずりながら立っていた。


「お父さん!!!!」


「佐伯!! 優!!今のうちに娘を連れて行け!!俺は……ここで止める!!」


「正彦さん!!!」


「行けぇぇぇぇ!!!娘を……生かしたいなら……行けぇぇぇ!!!」


 優は叫んだ。


「正彦さん!!一緒に逃げるんだ!!」


「俺はもう……逃げねぇ!!これが……俺のけじめだ……」


 黒田が吐き捨てる。


「親子そろって、往生際の悪いことだ」


 正彦は鉄パイプを振り上げ、部下たちを引きつけた。


「優君……娘を……頼んだ……」


 優は涙をこらえ、幸の手を掴む。

「行くぞ幸!!」


「いやだ……! お父さん……!」


「幸!!!お前の父ちゃんは……今、お前を守るために戦ってるんだ!!!!

 無駄にするなぁ!!!」


 幸は涙を飛び散らせながら叫んだ。


「お父さん!! 絶対……生きて……!!」


「行けぇぇぇぇ!!!!」


 正彦の怒号が倉庫に響いた。


 優と佐伯、幸は裏口へ走る。


 黒田が怒鳴る。


「追え!!!逃がすな!!!!」


 倉庫全体が地獄のような混乱に包まれた。



5.裏口突破


 優は息を切らしながらシャッターの横の非常扉を探し――


「ここだ!!」


 非常レバーを引いた。


 ギィィィィィ……


 扉が重く開く。


「優!! 早く!!」


「ああ!!!」


 三人は闇の外へ飛び出した。


 潮風と夜空の冷たさが全身を刺す。


 しかし。


 背後から響く怒号。


「逃がすかァァァァ!!!!」


 黒田の声だ。


(まだだ……!まだ終わってねぇ……!)


 三人が闇の中を走り始めた時――


 廃工場の奥で、爆発音のような何かが鳴った。


 正彦の声が――聞こえなかった。


第十一章 夜明けまでの逃走

1.闇の中を走る


 非常扉を飛び出した瞬間、冷たい潮風が肌を切るように吹きつけた。

 廃工場の裏側は海沿いで、足元には割れたガラス片や錆びた鉄片が散らばっている。


 優は幸の手を握りしめ、荒れた地面を全力で駆けた。


「優君……痛い……!」


「ごめん、幸! でも走らないと追いつかれる!!」

佐伯が後ろを振り返り、叫ぶ。


「やべぇ!! 奴ら出てきた!!ライトの数が……多すぎる!!」


 黒田の部下が十人以上、懐中電灯を持って走り出てくる。

 怒号が夜の波のように押し寄せてくる。


「逃がすなぁぁぁ!!!」


「女を連れ戻せ!!」


「梶原優をぶっ殺せ!!!」


 その声は、もはや獣の吠え声だった。


 優は胸が張り裂けそうなほど走りながら、叫ぶ。


「佐伯!! 車の位置までまだどれくらいだ!!」


「あと……あと300メートル!

 あそこのフェンス抜けたら駐車場だ!!」


「よし……!! 行くぞ幸!!」


 幸は涙を流しながら頷き、優の腕にしがみついた。


「……優君……お父さん……お父さんは……」


 優の胸が締め付けられた。


(正彦さん……生きててくれ……頼む……!!)


「大丈夫だ……必ず再会できる……そう信じて走るんだ……!」


 幸は涙をこらえ、必死で足を動かした。


2.フェンス突破


「フェンスある!! でも古い!!押せばいける!!」


 佐伯が体当たりし、フェンスを歪ませる。

 優も全体重をかけた。


 金属が悲鳴を上げ、フェンスが倒れた。


「幸!! 先に行け!!」


「う、うん!!」


 幸が倒れたフェンスの上を越える。

 優と佐伯も続く。


 その瞬間。


「いたぞぉぉ!! フェンスの向こうだ!!」


「回り込め!!!」


 黒田の部隊が二手に別れ、包囲しようと動く。


「クソッ……!黒田……本気で殺す気だ……!!」


「優!! こっちだ!!」


 佐伯が導く方向へと走る。



3.車までのラストスパート


 駐車場の灯りが遠くに見える。


「あと少し!! あと少しだ優!!」


 しかし――廃工場の別の扉が突然開き、黒田の部下が三人飛び出してきた。


「こっちに来たぞ!!」


「囲め!!!」


 佐伯が叫ぶ。


「優!! 幸を守れ!!俺が先に……!」


「ダメだ佐伯!! 死ぬ気か!!」


「お前こそ死ぬ気だろうがぁぁ!!だったら俺も一緒に命張る!!」


 佐伯は拾った鉄パイプを構え、突進する。


「うおおおおおお!!!」


 男たちと激しくぶつかり合う。


「佐伯っ!!!」


「走れ!!ここは……俺の役目だ……!!死んだらぶっころすぞ梶原ぁぁぁ!!」


 優は歯を食いしばり、幸を抱えて走った。


(すまねぇ佐伯……絶対に……見捨てたりしねぇ……必ず助けに戻る……!!)


 車が見えた。


「いた!! あれだ!!」


 優が助手席のドアを引く。


「幸!! 乗れ!!」


「優君……早く……!!」


 しかしその瞬間。


パンッ!!


 乾いた破裂音が響いた。

 銃声だ。


「伏せろ!!」


 優は幸を抱えて地面に倒れ込む。


 車のフロントガラスに穴が空く。


「クソ……黒田が……銃を……!!」


 遠くの影の中から黒田の声が響く。


「おもちゃみてぇに逃げ回りやがって……!梶原優……お前は……俺の“資産”を盗んだんだよ……殺されて当然だろ……?」


 黒田の声は、静かで、氷のように冷たかった。


「……幸は資産じゃねぇ……人間だ……!!」


 優の声が震える。


「梶原……てめぇを地獄で殺してやる」


(来る……殺しに来る……)


 優は震える指で幸の頬を掴み、言った。


「幸……絶対に生きるんだ……俺が守る……」


 幸は目を見開き、涙を零した。


「……優君……一緒に、帰りたい……!」


「帰る。絶対に帰る。どんな世界を相手にしても……!!」


 優は力を振り絞り、車のエンジンをかけた。


「掴まれ!!!」


 アクセルを踏み込む。


 タイヤが悲鳴をあげ、車は闇の中へ飛び出した。


 背後で銃声と怒号が響いた。


「追えぇぇぇぇ!!」


「逃がすな!!」


「黒田さんの命令だ!!」


 夜の港町は、もう安全な場所ではなかった。



4.佐伯の安否


 逃走中、幸が震える声で言った。


「優君……佐伯さん……あの人……大丈夫かな……」


 優は唇を噛みしめながら答えた。


「絶対に助ける……俺が……幸も佐伯も……誰も失わない……!!」


 だが胸の奥では、佐伯の悲鳴がまだ耳に残っていた。


(頼む……生きてくれ……佐伯……)



5.芦川からのメッセージ


 国道に出てしばらく走ったところで、優のスマホが振動した。


 ――芦川だ。


 優は車を脇に停め、通話する。


「梶原優だ」


『生きているか』


「なんとか……。幸を連れ出した……」


『そうか。なら今すぐ指示に従え』


「指示……?」


『黒田は激怒している。お前を“最優先で殺す対象”にした』


 優と幸の背中に冷気が走った。


『今から言う場所に向かえ。 警察は当てにならん。建設会社も、もうお前を守らない』


「分かった……場所を教えてくれ」


『一つだけ言っておく』


 芦川の声が低くなる。


『――今、お前がやるべきは“黒田を倒すことだけ”だ』


「……倒す?」


『そうだ。逃げても、隠れても、幸は必ず奪われる。裏社会は、“一度狙った獲物”を諦めない』


 優は拳を握った。


「……わかってる」


『だから戦え。奴の資金源を断ち、裏金の証拠を握りつぶし、黒田をこの街から消し去れ』


 芦川の声は鋼のようだった。


『それが――幸を救い、お前自身の人生を取り戻す唯一の道だ』


 優は深く息を吸い、決意を固めた。


「……やる。俺は……黒田を潰す」


『覚悟はできているようだな。場所を送る』


 通話が切れた。


 幸が震える声で問う。


「優君……黒田を……倒すって……?そんなこと……できるの……?」


 優は幸の手を握り、


「できるようにする。どんな手を使ってでも」


 幸は泣きそうになりながら微笑んだ。


「……優君なら……できる……」


 優はアクセルを踏み込んだ。


(絶対に守る。絶対に奪わせない。黒田を……終わらせる)


 夜明けの気配が、東の空にわずかに滲み始めていた。


第十二章 反撃の序章

1.芦川との再会


 芦川が指定した場所は、港から少し離れた古いアパートの一室だった。

 外観はボロいが、中は見事に整理され、密かに誰かが使っている気配があった。


 優と幸がドアをノックすると、すぐに低い声が返る。


「入れ」


 中に入ると、芦川は机に広げた書類から顔を上げた。


 まるで戦場の司令塔のように冷静で、その眼差しはすでに“黒田を消す準備”を始めているものだった。


「無事にここまで逃げたか。……だが、時間はない」


 優は幸の肩を支えながら言った。


「黒田は追ってきています。佐伯が……時間を稼いでくれたんですが……」


「佐伯という男……命を張る価値がある友だな」


 幸は涙目で問いかける。


「芦川さん……お父さんは……!」


 少しの沈黙のあと、芦川は静かに言った。

「――まだ生きている可能性は高い」


「ほ、本当……?」


「黒田は“証拠になり得る人間”を簡単には殺さない。殺すのは、全て片がついてからだ。

 まだ利用価値がある」


 幸は胸を押さえ、崩れ落ちそうになる。


「よかった……お父さん……」


 優は芦川に尋ねる。


「芦川先生……次はどうする?黒田を潰すって、具体的には……」


 芦川は机の上のファイルを優に渡した。


「黒田の裏金ルートを断て。そして黒田の“動く金”を、すべて凍結する。それが黒田を終わらせる唯一の方法だ」


「……どうやって?」


「お前が持っている“帳簿”を使う。あれには黒田の【本当の弱点】が記されている」


 優は帳簿を取り出す。


「これが……鍵か?」


「ただの鍵じゃない。――黒田の命綱だ」


 芦川は鋭い指であるページを叩いた。


「ここを見ろ。黒田の資金は“建設会社の裏口から”流れている」


「裏口……?」


「本来は入金されるはずの資材費、加工費、人件費が……一部だけ“別口座”に流れてる」


 優の顔が強張る。


「黒田……俺の会社を……」


「ああ。お前の会社の幹部が黒田と繋がっている」


「……!」


「そして今日――」


 芦川はスマホを優に投げ渡した。


「本社から“お前の解雇勧告”が出た」


「……なんだと……?」


 優の胸に重いものが沈む。


 画面には《梶原優、情報漏えいの疑惑により処分検討》

と書かれていた。


「会社はお前を切った。“黒田に逆らった者を守る気はない”ってことだ」


(俺は……もう職も居場所も……全部奪われたのか……)


 幸が震える声で優の手を握る。


「違うよ……優君は何も悪くないよ……!」


 だが芦川は冷淡な声で追い打ちをかけた。


「梶原。もう“普通の人生”には戻れない。黒田に狙われ、会社に切られ、警察にもマークされている」


 その言葉に幸が怯えて優にしがみつく。


「優君……これ以上は……!」


  だが芦川は続けた。


「それでも戦うか?」


  優はゆっくりと顔を上げた。


  その瞳は――迷いを超えた強さを宿していた。


「戦う。幸を助けるためなら……俺は、全部失ってもいい」


  幸の目に涙が溢れる。


「優君……なんで……なんでそこまで……!」


「決まってるだろ」


  優は幸の頬に手を添えた。


「 俺は……お前を守りたかった。昔からずっと……あの日からずっと……」


  幸は、息を詰まらせたまま泣いた。


「優君……私……私なんかのために……!」


「“なんか”じゃねぇ。俺にとって幸は……唯一なんだ」


  幸は泣き崩れ、優の胸にすがりつく。


「優君……やだよ……死んじゃやだよ……!!一緒に……生きていたい……!!」


「生きる。絶対に生き抜く。一緒にだ」


 その言葉を聞き、芦川が静かに立ち上がった。


「……決まったようだな」


  芦川は地図を広げた。


「次に狙うのは――黒田の“資金セーフハウス”だ」


「セーフハウス……?」


「裏金が保管されている場所だ。そこを押さえれば黒田は動けなくなる」


  優の顔に決意の色が深まる。


「場所はどこだ?」


  芦川は地図の一点を指した。


《旧・仁科倉庫》


「黒田が資金を管理しているのはここだ。監視は厳しい。だが黒田の心臓を止めるには“ここ”しかない」


  優は拳を握った。


「行く……!」


「待って優君!!」


  幸が叫ぶ。


「もう……これ以上怪我しないで……!私のせいで……優君まで……!」


 幸の身体は震え、顔は青ざめている。精神的にも限界が近い。


  優は幸の手を握りしめた。

「幸。俺はお前を守るために戦ってる。“お前のせい”なんて一度も思ったことない」


 幸は涙で顔をくしゃくしゃにしながら言う。


「でも……私は……優君の人生を壊して……」


「違う。幸を助けたいと思ったのは俺の選択だ。俺の人生は……自分で決める」


 芦川が低く言った。


「梶原。この先に進むなら、もう戻れないぞ」


「戻らない。幸を守り、黒田を倒す。そのために……俺は生きる」


 幸が優にしがみついた。


「優君……お願い……生きて……絶対に……生きて帰ってきて……!」


 優は幸の頭を抱き寄せ、


「必ず帰る」


 その声は震えていたが、強かった。


2.黒田の逆襲


 一方その頃。


 黒田は倉庫の一室で、血まみれのアキラを治療させながら、静かに怒りを燃やしていた。


「……梶原優……あの男は“駒”として使う予定だったのに……」


  部下の一人が震えながら言う。


「黒田さん……どうします……?」


「決まってるだろ」


 黒田はゆっくりと笑った。


「――まず“母親”からだ」


  部屋の空気が一瞬止まる。


「娘を盗んだら……普通は“家族”から切り刻むもんだろう?」


「あ、明日の朝には……居場所を突き止めます!」


「全力でやれ。梶原に生きる価値を教えてやるよ……」


  黒田の瞳は、冷たい血の色をしていた。


3.優への通告


  芦川のアパートに戻った優に、スマホの通知が届く。


  差出人は不明。


  添付された写真を見た瞬間――優の顔から血の気が引いた。


《優の母親が、家の前で不審者二人に囲まれている写真》


  幸が青ざめて震えた。


「ゆ……優君……!!」


  優は拳を震わせて叫んだ。


「黒田……!!てめぇ……!!家族まで……!!!」


  芦川が冷静に言った。


「梶原。もう時間がない。黒田は“家族を人質”にしてくる。早く奴の資金源を断て」


「行く……!!」


 優は歯を食いしばり、立ち上がった。


「絶対……黒田を終わらせる!!」


第十三章 資金セーフハウス突入計画

1.「最初の奇妙な沈黙」


 芦川のアパート。

 深夜三時。

 優、幸、芦川の三人は、地図と書類を囲んでいた。


 室内には静かな緊張が満ちていた。


「まず結論を言う」

 芦川が指を折り、淡々と説明を始めた。


「黒田の資金は3つの“流入口”から生まれ、1つの“保管庫”に集まっている」


 優は身を乗り出した。


「保管庫が……仁科倉庫なんだな?」


「ああ。裏金の心臓部だ。そこを潰せば黒田は『動けない』。金の流れを止められた裏社会は一気に崩れる」


 幸が不安そうに小さく息を吸う。


「でも……あそこって守りが……」


「鉄壁だ」

 芦川は即答した。


「表の監視カメラ、裏の落とし穴、内部の巡回、バイク組の待機部隊……突入すれば乱戦になる」


「乱戦……」


 優は拳を握った。


「構わない。黒田を止めるには、それしかない」


 芦川は優の瞳をじっと見て、静かに頷く。


「……覚悟は本物だな」


 その時――ドアがノックされた。


 深夜の訪問。


 優も芦川も即座に身構える。


 だが次の瞬間、聞き覚えのある声がした。


「……開けろよ、優……俺だ……」


「佐伯!!」


 幸が息を呑む。優は急いで扉を開けた。


 そこには――

 血まみれで傷だらけの佐伯が、壁に寄りかかって立っていた。


「……よぉ……死ぬかと思ったぜ……」


「佐伯!! お前……!無事だったのか!!」


「無事じゃねぇよ……ぶん殴られすぎて……脇腹ヒビ入ってるわ……」


 佐伯は冗談まじりに笑い、

 次の瞬間、優の肩にガクッともたれかかった。


「おい優……これ以上勝手に死のうとしたら……マジで殺すからな……?」


 優は泣きそうな声で笑った。


「ああ……分かった……!もう置いていったりしねぇ……!」


 幸も両手で口を覆いながら震えていた。


「佐伯さん……よかった……無事で……!」


 芦川が穏やかに言う。


「ちょうどいい。突入メンバーは優、佐伯、私の3名だ」


「おい弁護士……あんたも前に出る気か?」


「ああ。これは“裁判”でも“交渉”でもない。――戦争だ」


 佐伯が、初めて芦川を“戦友”のように見た。



2.「救いの知らせ」か「絶望」か


 佐伯がソファに倒れ込むと、芦川が傷口を軽く消毒しながら言った。


「佐伯、少し落ち着いたら聞いてほしい話がある」


「なんだよ……?」


「――正彦だ」


 幸がビクリと身体を震わせる。

「お父さん……!?

  お父さんは……どうなったの……!?」


  芦川は一度だけ目を伏せ、ゆっくり言った。


「重傷だが、まだ生きている」


「本当に……!?」


 幸の目に涙が溢れた。


  優も強く拳を握る。


「 正彦さん……よかった……」


「だが問題はここからだ」

 芦川の声が緊張感を帯びる。


「正彦は今、黒田側に“再拘束される危険”が高い。奴らは、優と幸を追い詰めるために正彦を使う」


 幸が小さく震えた。


「お父さん……また狙われるの……?」


「狙われる。“確実に”な」


「じゃあ……助けに行かなきゃ……!」


  幸が立ち上がりかけるが――

  芦川が静かに言った。


「幸。今行けば“全員殺される”」


  幸は足を止め、崩れ落ちた。


「じゃあどうすれば……

  私……何も……できない……!」


  優が幸の肩に手を置いた。


「違う。幸、お前が生きていることが……正彦さんの命を繋いでるんだ」


「優君……」


「だから、生きてくれ。それが今のお前の役目だ」


  幸は涙の中で頷き、優に寄りかかった。



3.黒田からの“宣戦布告”


 その時――優のスマホが鳴った。


 不明番号。

 優は嫌な予感を抱きつつ出る。


「……誰だ」


『よう、梶原』


  黒田の声だった。


「……!」


『お前、逃げたつもりか?反抗したつもりか?俺に喧嘩売ったつもりか?』


「黒田……てめぇ……母さんに手を出したら……」


『ああ、母親か。優しくしてあげたよ』


 黒田は笑った。


『“まだ”手は出してねぇ。けどな――優、お前があと二十四時間以内に出てこなきゃ――“始める”』


「始める……?」


『大切な順番でな。分かるだろ?』


 優の背中に悪寒が走る。


「黒田……!!」


『そして梶原。お前に最後のチャンスをやる』


「……チャンス?」


『“帳簿”を返せ。あれは俺の心臓だ。今すぐ返せば――母親も、女も、友達も生かしてやる』


 幸が震え、佐伯が怒りで歯を食いしばる。


『だが返さなきゃ……お前の人生からひとつずつ、確実に奪う』


「黒田……!」


『さあ梶原。選べ』


 通話が切れた。


 部屋に重い沈黙が落ちる。


 優はうつむいたまま拳を握り、ゆっくりと立ち上がった。


「……決まった」


「優君……?」


 優はゆっくり振り返り、顔を上げた。


 その瞳は鋼のように硬かった。


「黒田には……ひとつも返さない。罪も、金も、命も、何一つ……返さない」


 芦川が厳粛に頷く。


「梶原……その覚悟は命を失う覚悟と同じだぞ」


「構わない。俺は“家族と幸を守るため”なら……どんな地獄でも行く」


 佐伯が笑って言った。


「なら俺も行く。黒田を地獄の奥に叩き込むまでな」


 幸は涙を拭き、揺れる声で言った。


「優君……お願い……絶対に……帰ってきて……」


 優は幸を抱きしめた。


「帰る。絶対に帰る。幸のところに……必ず」


 そして優は振り返り、芦川に言った。


「行こう。黒田の心臓を止めに」


 芦川は地図を閉じ、短く言った。


「作戦開始だ」




第十四章 仁科倉庫 “資金セーフハウス”突入

1.作戦前夜の静寂


 午前4時半。

 芦川のアパートは、恐ろしいほど静かだった。


 優と佐伯は黒ずくめの作業服に着替え、芦川はスーツの上着を脱ぎ、胸元にホルスターを装備している。


「弁護士が銃持つなよ……」と佐伯が呆れた声で言った。


「弁護士じゃない。 今日は“黒田潰し部隊”の一員だ」


  芦川は淡々と答え、懐からUSBを渡す。


「 優。このUSBには、黒田の裏金ルートと証拠データが全て入っている。仁科倉庫の中枢コンピュータに繋ぎ、“転送”すれば……黒田は終わる」


「転送……?」


「ああ。“警察幹部”へ直送だ。裏金の証拠が警察内部に行けば……黒田は逃げ場がない」


 優は強く頷いた。


「……分かった。俺がやる」



2.幸の言葉


 出発前、幸は震える声で優の前に立った。


「優君……絶対に……帰ってきて……?もう……私……誰も失いたくない……」


 優は幸の手を包み込み、静かに言った。


「帰るよ。幸のところに戻るために、俺は行くんだ」

「……約束する?」


「約束する」


 幸の瞳に涙が滲む。


「これ……持っていって……」

 幸は小さな袋を差し出した。


「……なんだ?」


「お守り。昔……私のばあちゃんが作ってくれたやつ。大事にしてきたけど……今は、優君に持っててほしい」


 優は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……預かる。幸……必ず戻る」


 幸は泣きながら笑った。


「待ってる……ずっと……」



3.仁科倉庫へ


 夜明け前の灰色の空。

 仁科倉庫は港の外れにぽつんと立っていた。


 巨大な鉄製の倉庫。

 壁の一部が不自然に補強されている。

 芦川が言うには――そこが黒田の“地下金庫”への入口だ。


「優。突入の流れを説明する」


 倉庫手前の影に身を潜め、芦川は低い声で言った。


●作戦概要


佐伯が正面で陽動→黒田側の視線を入口から逸らす。


優は裏口から侵入し、地下の金庫室へ→内部システムへUSBを接続し、証拠を転送。


芦川は電子ロックの解除と後方支援→必要なら銃で援護。


「黒田は今日の夕方、“金の移動”をする予定だ。その前に完成させる。逆に言えば――時間がない」


 佐伯が息を吐きながら言った。


「なあ芦川……死ぬ確率、どれくらいだ?」


「五分五分だ」


「半分かよ……」


「だが覚悟を決めている奴は、五分五分の世界で必ず生き残る」


 佐伯は拳を握り、


「……言うじゃねぇか」



4.突入


 午前6時。

 東の空が微かに明るくなる。


「行くぞ!」


 佐伯が倉庫の正面へと走り出し、鉄の扉を蹴りつけた。


「おい!!!誰かいねぇのかァァァ!!黒田ァァァ!!! 出てこいやァ!!」

倉庫内からざわめきが起きる。


「なんだ!? 誰だ!!」


「佐伯だ!! 殺せ!!」


(佐伯……ありがとう……!今のうちに……!!)


「優、行け!!」


 芦川が裏口へ導く。


 優は身を低くし、裏口の狭い通路へ駆け込んだ。



5.裏口侵入


 鉄製の裏扉にはキーパッドがついている。


「芦川、コードは……」


「黙れ。あと5秒で開く」


 芦川は携帯端末を使い、素早く解除を試みる。


 ピッ――ガチャッ。


「開いた。行け!」


 優は扉を押し、薄暗い倉庫内に滑り込んだ。


 内部には金属の匂い、油、そして……薬品の匂い。


(ここが……黒田の心臓……)


 奥には地下へ降りる階段がある。

 優は息を殺して進む。


6.地下金庫室


 階段を降りると、巨大な部屋に出た。


 鉄製の棚に並ぶ紙袋や箱。

封筒、記録ファイル、金庫。

 大量の“裏金”と書類が保管されている。


(全部……犯罪の塊だ……)


 部屋の中央にはコンピュータが置かれている。

 優はUSBを差し込んだ。


 画面に文字が走る。


《データ転送開始》


(あと少し……これが終われば……黒田は……)


 その時。


「――やっと会えたな」


 背後で聞き慣れた声が響いた。


 優は振り返る。


 そこに立っていたのは――


アキラだった。


 包帯だらけの身体。

 殴られて腫れた顔。

 しかし目は鋭く、狂気に満ちていた。


「梶原ぁ……てめぇ……何度俺の邪魔した……?」


 優は息を呑む。


「アキラ……お前……どうやって……」


「簡単だよ。“裏切り者”がいたんだよ」


「裏切り……?」


 アキラは笑う。


「お前の側にいた“誰か”が、位置情報を流してくれたんだよ」


「まさか……!!」


 その時、階段の上から聞こえてきた声。


「すまねぇ……優……」


 優が顔を上げた。


 そこに立っていたのは――


佐伯だった。


 血で顔を染めた佐伯が、苦しそうにアキラに肩をつかまれていた。


「これ以上……俺は耐えられなかった……」


「佐伯……!!」


「ごめん……優……!!母ちゃんが……捕まったんだ……!!『情報流せば家族は助ける』って……俺、逆らえなかった……!!」


 優の胸が凍った。


(佐伯……裏切ったのか……黒田に……!!)


 アキラが嗤う。


「 よかったな梶原。“信じてた友達”がお前を売ったんだよ」


「やめろアキラ!!」


「黙れ裏切り者!!」

 アキラが佐伯の肩を殴り、佐伯が倒れ込む。


(佐伯……許すとか許さねぇとかじゃない……こいつは……家族を守ろうとしただけだ……俺と同じ……)


 アキラは警棒を握り直した。


「さあ梶原……続きやろうか」


 優は拳を握りしめ、


「……来い」


 アキラの口元がゆっくりと歪んだ。


「殺してやるよ」


7.地獄の戦い


 アキラが地を蹴った。


 警棒が横から振り抜かれる。


「優!! 下!!」


 佐伯が叫ぶ。


 優はしゃがみこみ、振り上げた蹴りでアキラの膝をはねた。


「ぐぁ……!!」


 アキラがよろめくが、すぐに体勢を立て直す。


「てめぇ……!!」


 殴り合いが始まる。


 金庫室の中央で、鋼鉄と拳がぶつかり合う。


 アキラの攻撃は鋭く、速い。

 優は何度も壁に叩きつけられる。


(俺が……倒れたら……幸が……!母さんが……!佐伯が……!正彦さんが……!)


 優の視界が赤く染まる。


「うおおおおおお!!!」


 優は怒りと覚悟の全てを拳に込めて殴りつけた。


 アキラの顔が歪み、壁へ吹き飛ぶ。


「がっ……はっ……てめぇ……!!」


 アキラが最後の力で警棒を振り下ろそうとした瞬間――


「優ぇぇぇぇ!!!」


 佐伯が身を投げ出し、アキラの腕を掴む。


「佐伯!! やめろ!! 死ぬ!!」

「いいんだよ……!!

 友達だろ……!!

 最後くらい……役に立たせろ……!!」


「佐伯!!!」


 アキラが叫ぶ。


「邪魔すんじゃねぇぇぇ!!」


 アキラは佐伯の体を殴り飛ばし――佐伯は床に叩きつけられ、動かなくなった。


「佐伯!!!」


 優の胸に激しい痛みが走る。


(佐伯……!!生きてくれ……!!頼むから……!!)


 アキラはふらつきながらも立ち上がる。


「これで終わりだ梶原ァァァ!!」


 アキラが振り上げた警棒を――


 優は素手で掴んだ。


「終わりだ……アキラ」


「てめぇ……!」


 優はアキラを真正面から殴りつけた。


 一発。

 二発。

 三発。


 アキラは膝を折り――

 崩れ落ちた。


 金庫室に静寂が戻る。


 優は膝から崩れ落ち、肩で息をした。


「はぁ……はぁ……終わった……か……」


 USBの転送画面を見る。


《転送完了 100%》


(……やった……黒田は……終わった……!!)


 しかし――階段の上から、ゆっくりと足音が響いた。


 あの声。


「終わりじゃねぇよ、梶原」


 優の背筋が凍る。


 振り返ると――黒田が立っていた。


第十五章 黒田 vs 優(前編)


──満潮の罠──**


1.“黒田”の影


 金庫室の階段の上――黒いコートをなびかせながら、男はゆっくり降りてきた。


 黒田だった。


 倉庫の光が揺れ、黒田の影が床に長く伸びる。


「お前……どうやって……」


「簡単な話だよ」


 黒田はポケットに手を突っ込み、ゆっくりと降りてくる。


「俺が“来ないわけない”だろ?ここは俺の金庫だぞ?」


 その声は静かで、氷のようだった。


「梶原優――てめぇ、俺の心臓にナイフ突き立てたんだからな」


 優は怒りで拳を握りしめた。


「黒田……終わりだ。裏金も、証拠も、すべて――」


「――警察に流した?あぁ、知ってるさ」


「……!」


 優の心臓が跳ねた。


「まさか……USBの転送を……」


「ああ、監視してたよ。裏切り者を使ってな」


 黒田は階段の途中で立ち止まる。


 その獣のような眼が、優を射抜いた。


「俺の金をバラまいた“犯人”が誰か、分かってるんだよ」


(見られてた……!?)


 優の背中に冷たい汗が流れる。

「だがな、梶原」


 黒田はゆっくり腕を広げた。


「人間ってのは“金”だけで壊れるわけじゃねぇ」


 次の瞬間――黒田は懐からスマホを取り出し、画面を見せた。


 そこに映っていたのは、


優の母親が、泣き崩れながら床に座らされている映像。


「――!!」


  優の視界が一瞬歪んだ。


「梶原。お前は“家族を守る”って言ってたな?」


  黒田は冷たい声で続ける。


「俺の金を消した代わりに、お前の家族……ひとつずつ“消す”。それが筋ってもんだよな?」


「黒田ァァァァ!!!!」


  優の叫びは金庫室に反響し、地獄のような響きを残す。


  黒田は微笑む。


「 安心しろよ。まだ手は出してねぇ。 “お前がどう動くか”見てから決める」


(この男は……本気で命を奪うつもりだ……!)


「……黒田……覚悟しろ……俺は――てめぇを絶対に許さねぇ!!!!」


  優が駆け出そうとしたその瞬間。

「動くなぁぁっ!!」


 階段の上から、銃声が響いた。


 弾丸が優の足元の床を砕き、火花が散る。


 黒田の背後には

 銃を構えた部下が二人いた。


「……チッ」


「先に言っとくが」


 黒田は冷たく笑った。


「銃を撃つなと“命令してない”からな?」


(クソ……!これは……“殺す気”の配置だ……!)


2.アキラの“最後の罠”


 その時。


 倒れていたアキラが、血まみれの顔を上げた。


「黒田……俺は……やったぜ……」


「……?」


「梶原を……ここまで……引きずり込んで……帳簿も……警察に流れて……でもよ……」


 アキラは狂気の笑みを浮かべる。


「俺は最後に……“仕掛けて”あるんだよ……」


 黒田が眉をひそめる。

「仕掛け……?」


「この倉庫の……“地下の浸水弁”……爆発で壊してやった……」


「何……?」


  アキラは笑いを止めない。


「ははっ……潮が来るぞ……もうすぐ“満潮”だぁ……!!地下は……水で埋まる……!ここにいる全員、溺れ死ぬぞ……!!」


「この野郎……!!」


  黒田がアキラの胸ぐらを掴み殴りつける。


「てめぇ!!何してくれてんだ!!」


「へ……へへ……黒田も……梶原も……全員……地獄に……」


  アキラはそのまま意識を失った。


( 満潮……!?地下の金庫室は……水没する……!)


  優は周囲を見る。


  床が……微かに揺れている。


 壁のどこかで、水がしみ出す音がしている。


(時間がない……!!)


3.最終心理戦 ― 黒田の“提案”


  黒田は深く息を吸い、優を睨む。


「梶原。本当に……お前はムカつく男だ……!」

「お前の方がムカつくわ!!」


  黒田は笑う。


「このまま満潮で全員死ぬか、俺の“ある提案”を飲むか」


「提案……?」


「帳簿の原本――それを渡せ」


 優は目を見開いた。


「……原本だと?」


「USBのデータなんてどうでもいい。あんなもん偽装できる。

  警察は正式な“原本”がないと動けねぇ」


(芦川が言っていた……“原本が残っている限り、黒田は終わらない”と……)


  黒田は続ける。


「原本と引き換えに、母親は解放してやる」


「……!!」


「幸も、佐伯も、生かしてやる。約束してやるよ」


 優は歯を食いしばる。


「信じられるか……そんなもん……!!」


「信じるんじゃねぇよ」


  黒田の目が光る。


「お前は“選ぶしかない”んだよ。

 死ぬか……

 家族を守るか……」


(家族……

 幸……

 佐伯……

 正彦さん……)


 胸が締め付けられる。


 黒田がさらに追い打ちをかける。


「原本は、お前のカバンの中だろ。“返すだけ”だ。簡単な話だ」


(返したら……黒田は生き延びる。幸は……また狙われる世界に戻される。母さんも、佐伯も……永遠に黒田の影に怯える……)


(返さなかったら……ここで俺も……みんな溺れ死ぬ……)


(どっちを選ぶんだ……優……どっちなんだ……)


 黒田の目。


「さあ梶原。答えろ」


4.決断の瞬間


 優はゆっくりとカバンを開けた。


 黒田がほくそ笑む。


「そうだ……やっぱり最後には“家族”を選ぶよなぁ?」


 優は帳簿の“原本”を取り出した。


 黒田の目が輝く。

「それだ。それを渡せば……」


 しかし。


 優は次の瞬間、帳簿を――


金庫室の“浸水穴”へ投げ込んだ。


「!?!?」


  黒田の顔が崩れる。


「てめぇ!!!!何してやがる!!!!」


 優は叫んだ。


「お前の金も……犯罪も……全部、海に流れて消えろ!!!!」


「馬鹿野郎ォォォォ!!!!」


  黒田が拳銃を構える。


  優は背後へ飛びのき――


  その瞬間。


  床下から、轟音が響き、海水が噴き上がった。


「来た……! 満潮だ!!」


  金庫室に海水が一気に流れ込み始めた。


  床が揺れ、壁が崩れ――水が優と黒田の足元を飲み込んでいく。


「くそ……!!梶原ァァァァ!!!!!」


 金庫室は、数分も経たないうちに完全な海中になる――。


第十五章(後編)


 ──沈む倉庫と、最後の一撃──**


1.水没の始まり


 床下から噴き上がった海水は、一瞬で足首を超え、膝に迫った。


 金庫室の床が傾く。


 鉄製の棚が倒れ、裏金が散乱する。

 金も帳簿も、すべて水に飲まれていく。


「くそっ……!!」


 黒田も優も、濡れた床で滑りながら必死に立ち上がる。


 水はさらに勢いを増し、

 もう“逃げる時間”などほとんど残されていなかった。


「黒田ァァァ!!!!」


 優が叫ぶ。


「ここで終わりだ!!お前の金も……支配も……全部終わりだ!!!」


「終わるのは……お前の方だろうがぁぁぁ!!!」


黒田が拳銃を構える。


 水で足場が悪く、狙いは定まらない。だが至近距離なら――十分に殺せる。


「死ね、梶原ァッ!!」


 引き金が引かれ――


 その瞬間。


ドォン!!!


 金属の破片が跳ね上がり、弾道が逸れ、天井に直撃した。


 水圧で崩れた棚の一部が、黒田の腕をかすったのだ。


「ッ……!!」


「黒田ァァァッ!!」


  優は水を蹴り、黒田に飛びかかった。


  二人は水の中で組み合い、

  壁に叩きつけられ、流木のように流されながら、拳を叩きつけ合う。


「てめぇのせいで……!!幸はどれだけ……苦しんだと思ってんだ!!!」


「知るかよ!!弱ぇ奴は搾取されんのが世の中だ!!俺は“それを実践しただけだ”!!!」


「だったら……ここで償え!!!」


「償う?俺が??笑わせるなよ!!!」


  黒田は優の首を掴み、水の中に押し込んだ。


  優の視界が一気に暗くなる。


(やばい……息が……!!)


「死ねぇぇぇぇ!!! 優!!!」


(幸……母さん……佐伯……正彦さん……みんな……守るって… 言っただろ……!!

 ここで……終われるか……!!)


 優は必死に床を探り――指先に硬い金属が触れた。


(……!)


 それは、先ほどアキラが落とした“折れた警棒”の破片だった。


「……ッ!!」


 優はその破片を握り、黒田の太ももに突き刺した。


「ぐあああああっ!!!!」


 黒田が優から手を離す。


 優は水上に顔を出し、大きく息を吸った。


「はぁっ……はぁっ……!!」


「てめぇ……!! 殺す……!!絶対に殺す!!!」


 黒田は出血しながらも優に襲いかかる。


 しかし――


 鉄骨の天井が軋み、爆音のような水の衝撃が金庫室全体を揺らした。


天井が崩れる。


「うわああああっ!!」


 優も黒田も、水に巻き込まれた。


 大量の海水が流れ込み、金庫室は完全に“沈み始めた”。

(やばい……!!出口まで……水が……!!)


 優は必死に天井の穴へ泳ごうとする。


 黒田も同じ方向へ向かう――だが足を引きずり、出血で動きが鈍い。


「待てェェェェ!!! 優!!!俺を置いていく気か!!」


  優は振り返る。


(……置いていく……?こんな男……一緒に出たら……幸も家族も……また危険に晒される……)


 黒田が叫ぶ。


「お前……“家族を救う”んだろ!?俺を生かさなきゃ!!取引してやる!!金だ! 女だ! 力だ!!なんでもやる!!!だから……助け――」


 優は静かに言った。


「黒田。お前はな……“誰かを救うために生きてきたこと”が……一度でもあったか?」


「……なんだと?」


「だからお前は……ここで終わるんだよ」


 優は黒田を見捨て、天井の裂け目へ向かって泳ぎ出した。


「待て!!!待て優!!!助けろ!!!おい!!!梶原優ぅぅぅぅぅ!!!!」


 黒田の絶叫が、水に飲まれるように沈んでいく。


「やめろおおおおお!!俺は死なねぇぇぇぇ!!!俺は……!!俺はァァァァァァ――!!!」


 黒田の声が水に溶けて消えた。


 最後に、黒田の手が空を掴むように伸び――静かに沈んでいった。


2.脱出


 優は崩れた天井の穴を通り、必死に泳ぎ続けた。


 水面の向こうに、かすかな光――朝陽が見える。


(もう少し……もう少しで……!)


「優!!!」


 聞き慣れた声が響いた。


 芦川だ。

 倉庫の入口からロープを伸ばしている。


「掴め!!!」


 優は最後の力でロープを掴んだ。


 芦川が力いっぱい引き上げる。


 優は外の空気を吸い込み、咳をしながら倒れ込んだ。


「あ……ああ……生きて……る……!」


「梶原……よく戻った……よく……生きて戻った……!」


 芦川の声が震えていた。


(黒田……終わった……本当に……)


 しかし――


「佐伯……!!」


 優は血の気が引いた。


「佐伯は……どうなった……!?」


 芦川は言いにくそうに視線を逸らした。


「佐伯は……まだ地下に……」


「ッ……!」


 優は立ち上がろうとするが、身体が言うことを聞かない。


「待て優!お前はもう動けん!!どんなに潜っても、もう助け出せる時間じゃ――」


「佐伯は……!!俺を守って……!!裏切ったんじゃねぇ……!!家族を……守ろうとして……!!あいつは……!!」


 優の涙がこぼれる。


「佐伯……死ぬなよ……頼むから……!!」


 倉庫の奥で、水がさらに激しく噴き上がり、完全に崩れ落ちていく音がする。


(佐伯……お前……生きててくれ……頼む……!!)


3.幸の元へ


 優の脳裏に幸の顔が浮かぶ。


(幸……今、どこで……俺を待っているんだ……?)


 芦川が優を支えながら言った。


「梶原……行こう。幸が……君を待ってる」


 優は涙を拭い、震える足で立ち上がる。


「幸のところに……帰らなきゃ……俺は……生きて帰るって……約束した……!」


 芦川は優の背を支えながら歩き出す。


 朝陽が二人を照らし始めた。


第十六章(最終章前編)


 ──帰還、幸の涙、そして最後の手紙──**


1.朝陽の中で


 崩れた仁科倉庫を背に、

 優と芦川は港の古い倉庫街に停めていた車へ向かっていた。


 海風が強く、波の音が大きい。

 しかし優の耳には、胸の奥で鳴る心臓の音しか聞こえない。


(幸……

 生きて……

 俺の帰りを……待ってるんだよな……)


 身体のあちこちが痛む。

 歩くたび、骨が軋む。

 だが止まるつもりはなかった。


 幸のところへ――帰る。


 それだけが、優を動かしていた。


「……梶原」


 芦川が小さく呼びかけた。


「よく生きて戻った。

 あそこは……普通は、生還できない地獄だ」


「……幸を守るって、約束したからな」


 芦川は微笑を浮かべるような、寂しげな目をした。


「約束の力は……強いな」


     


2.幸との再会


 車は幸が避難しているアパートへ向かった。


 扉をノックする前から、中で誰かが泣いている気配がした。


 ドアを開けると――

 幸がいた。


 ボロボロに泣き腫らした目で、

 優を見るなり、息を呑んだ。


「……ゆ……優君……?」


 優はかすかに笑おうとした。


「ただいま……幸」


「――っ!!」


 幸は一気に駆け寄り、優の胸に飛び込んだ。


「優君!! 優君!!

 生きて……!!

 本当に……生きて……!!」


 幸の身体は震えていた。

 全身で優にしがみついて離れない。


「怖かった……

 死んじゃうんじゃないかって……

 私……私……もう……」


「大丈夫だよ、幸。

 ほら……ちゃんと帰ってきたろ」


「うん……うん……!!」


 幸は声をあげて泣き続けた。


 優はそっと彼女の頭を撫でる。


「もう離れない。

 絶対に……守るから」


 幸は泣きながら、ぎゅっと優の服を握りしめた。


「優君が……帰ってきてくれるって……

 信じてたよ……

 すごく……怖かったけど……

 でも……信じてた……」


 その言葉を聞いた瞬間、

 優の胸が熱くなった。


(幸……

 俺を……信じてくれてたんだ……)


 優は、彼女を抱きしめたまま目を閉じた。


 この瞬間のために、

 俺はあの地獄を生き抜いた――

 本気でそう思った。


     


3.黒田の“最期”を知る


 幸が落ち着いたころ、芦川が静かに口を開いた。


「……梶原。言わなければならないことがある」


「黒田のことか……?」


「ああ。局地的な浸水で、仁科倉庫の地下は完全に海と繋がった。黒田は……脱出できなかった」


 幸が小さく息を呑む。


「……死んだの……?」


「遺体はまだ発見されていないが、生存の可能性は“ほぼゼロ”だ」


 優は目を閉じる。


(黒田……最後まで……何も変わらなかったな……)


「だけど優君……」

幸が震える声で言った。


「優君が悪いわけじゃない……あの人が……自分で選んだんだよ……」


「ああ……分かってる」


 優は静かに答えた。


「俺は……誰も殺したくなかった。でも――幸や母さん、佐伯が殺されるくらいなら……

 俺は絶対に負けられなかった」


 芦川は少しだけ微笑んだ。


「それは“罪”ではない。梶原……お前は、守るために戦っただけだ」


     

4.佐伯の生死


 優は息を呑んだ。


「……佐伯は……どうなったんだ……?」


 芦川は一瞬、言葉を飲み込んだ。


「梶原……覚悟して聞いてくれ」


 幸が優の手を強く握った。


「佐伯さん……死んじゃったの……?」


 芦川は静かに首を振った。


「……まだ生きている」


「!!」


 優は立ち上がりそうになった。


「本当か!? 佐伯はどこに!?」


「ただし――」

 芦川の表情が重くなる。


「呼吸はあるが意識はない。

 海水を大量に飲み、肋骨も折れている。

 すぐに救急搬送したが……

 峠は越えていない」


「そんな……」


「ただ、ひとつだけ言える」


 芦川は優の肩に手を置いた。


「佐伯は……“お前を助けるために生き残ったんだ”」


 優は拳を握りしめた。


「佐伯……頼む……生きてくれ……俺……まだお前と……ちゃんと話せてない……!!」


     

5.正彦の“最後の手紙”


 その時、幸のスマホが震えた。


 差出人不明。

 添付された画像――

 それは、見覚えのある文字だった。


「これ……お父さんの字……!」


 幸は震える指で画面を開いた。


そこに写っていたのは、血のついた便箋に書かれた――正彦からの手紙 だった。


『幸へ』


 お前には苦しい思いばかりさせた。

 守れなくてすまない。


 だが、最後に願いがある。


 “幸せになれ”


 借金も、水商売も、黒田も、全部お前のせいじゃない。


 幸、お前は悪くない。


 優という男は、お前を救うために命を張った。


 あの男を――手放すな。


 そして俺のことは心配するな。

 父親はな、娘が幸せならそれでいい。


 お前の未来が、温かいものであるように。


           父・正彦


 幸は声も出さず、手紙を胸に抱いて泣いた。


「お父さん……どうして……いつも……私のことばっかり……!」


 優はそっと幸の肩を抱く。


「幸……正彦さんは……お前に幸せになってほしいだけだよ」


「でも……でも……私……お父さんを……!」


「生きてる。まだ生きてる。絶対に助けよう。二人で」


 幸は、涙の中で強く頷いた。


「うん……!二人で……!!


 もう一人じゃない……!!

 優君……ありがとう……!!」


6.未来へ向けて


 芦川が立ち上がった。


「梶原。幸。黒田は消えた。裏金ルートも崩壊した。これからは “再生” の時間だ」


 優は幸の手を握った。


「幸……一緒に生きよう。もう、苦しいところへは戻さない」


「うん……!優君となら……どんな場所でも生きていける……!」


 窓の外には朝陽が昇り、長く続いた闇をゆっくりと押しのけていく。


 優は静かに呟いた。


「この夜は……もう終わったんだな……」


 芦川は微笑みながら言った。


「夜明けは誰にでも平等に来る。どれだけ暗い夜を通ってもな」


 その言葉は、優と幸の胸に深く沁み込んだ。

第十七章(最終章)


 ──未来へ──**


1.病院の朝


 黒田との決戦から二日後。

 優と幸は、佐伯の入院している病院へ向かった。


 朝の光がまだ薄い廊下。

 消毒液の匂いが漂い、静かな空気が流れている。

「佐伯……生きててくれよ……」


 優は胸の奥が強く締めつけられるのを感じながら、病室のドアを開けた。


 ――呼吸の音が聞こえた。


 機械につながれた佐伯が、ゆっくりと胸を上下させていた。


 幸が息を呑む。


「佐伯さん……」


 優は震える声で呼びかける。


「佐伯……おい……聞こえるか……?」


 返事はない。


 だがその顔は穏やかで、まるで深い眠りについているようだった。


 そのとき、医師がそっと近づいた。


「梶原さん。大きな峠は越えました」


「……!!」


「骨折は多いですが、命に別状はありません。意識は数日、もしくは一週間かかるかもしれない。でも――目を覚ます可能性は“高い”です」


 幸が涙をこぼす。


「よかった……!佐伯さん……!」


 優はゆっくり膝に力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。


「……ありがとう……神様……佐伯……生きててくれて……本当に……」

そして佐伯の手をとり、小さく呟いた。


「生きて戻ってこい。お前に……まだ言いたいことが山ほどあるんだ……」


2.正彦の行方


 次に優と幸は、警察署へ向かった。


 正彦の容体、そして黒田の残党の情報を聞くためだ。


 応対した刑事は厳しい顔だったが、言葉は優しかった。


「水木正彦さんは……無事だ」


「!!」


 幸は思わず手を口に当てた。


「ただ、外傷と衰弱がひどく、まだ集中治療室にいる。面会も制限されているが……」


 刑事は幸に視線を向け、


「娘さんが来たと知れば、必ず喜ぶだろう」


 幸の目から止まらない涙が流れた。


「……よかった……本当に……よかった……!」


 優も胸の奥に安堵が広がる。


(正彦さん……

幸……お前の父さんは、まだ生きてるぞ……!)


3.芦川の“別れ”


 警察署の外に出ると、

 一人の男が壁にもたれて煙草を吸っていた。


「お疲れさんだな、梶原」


「芦川……」


 幸が頭を下げる。


「芦川さん……ありがとうございました……!」


「 礼なんかいらんよ」

  芦川は笑って肩をすくめた。


  だが、目の奥は少し寂しそうだった。


「芦川、どこか行くのか?」


「ああ。俺の“仕事”はここまでだ」


「仕事って……」


「黒田の処理は終わった。

  裏社会のルートも潰れた。

  ここからは、警察と国が動く」


  芦川は優の肩を軽く叩いた。


「お前はよく戦った。

  本当によく生き抜いた。俺が見てきた依頼人の中で――お前ほど強い奴はいない」


 優は思わず黙り込んだ。


 芦川は幸の方を見て、微笑んだ。


「そして君も。過酷な状況を生き抜いた。君の勇気は……優を救ったんだ」


 幸は涙を拭きながら微笑んだ。


「芦川さん……あの……また会えますか……?」


 芦川は煙草を消し、「会えるさ。困ったときは電話をしろ。俺は人の縁を切らないタイプなんだ」


 そう言って、背中を向ける。


「芦川!!」


 優が呼び止める。


「いろいろ……ありがとう……本当に……ありがとう」


「礼は……幸せになることで返せ」


 芦川は軽く手を振り、朝の光の中へ歩き出した。


(芦川……救ってくれてありがとう……俺はこの縁を絶対に忘れない……)


4.優と幸の“本音”


 夕方。

 幸のアパートに戻り、二人きりになった。


 窓からオレンジの光が差し込み、静かに時間が流れている。


「優君……」


 幸が優の手を取った。


「生きて帰ってきてくれて、本当にありがとう」


「幸……お前が待ってると思ったから……俺……戻れたんだよ」


 幸は小さく笑い、優の胸に顔を寄せた。


「ねぇ優君……聞いてもいい?」


「ん……?」


「優君は……どうしてあの日……私を抱きしめたの……?」


 優は迷わず答えた。


「昔から……好きだった。会えなくても……忘れたことなんて一度もない。幸が困ってるって知った瞬間……気持ちが抑えられなかった」


 幸の目に涙が滲む。


「私も……ずっと優君が好きだったよ……あの頃から……ずっと……」


 優は幸をそっと抱き寄せた。


「なら……一緒に生きよう。これからは……ずっと一緒に」


「うん……!私も……優君と一緒に生きたい……!!」


 二人の影が夕陽に重なり合い、優しく、静かに揺れた。


5.新たな道


 数日後。

 優は建設会社を退職することを決意した。


 裏金ルートに関わっていた幹部たちは逮捕され、会社は大きく揺れていた。


「戻る場所じゃない……俺が、幸と生きるなら……こじゃない」


 幸が優の手を握る。


「優君……この先、何がしたい……?」


 優は少し考えて答えた。


「誰かの“居場所”を作りたい。俺みたいに、幸みたいに……行き場を失った人を守れる仕事がしたい」


 幸は涙を浮かべて微笑む。


「優君なら……本当にできるよ……」


「ありがとう。幸と一緒なら……俺は何でもできる」


 二人は静かに手を取り合った。


6.未来の始まり


 そして、春。


 佐伯は奇跡的に意識を取り戻し、傷は残ったが、再び歩けるまでに回復した。


「おい優……勝手に死ぬなって言ったろ……」


 笑いながら、涙を流していた。


 正彦も徐々に回復し、幸と優に何度も頭を下げた。


「二人とも……ありがとう……幸を……守ってくれて……」


 優は正彦の前で深く頭を下げた。


「幸は……俺が守ります。これからもずっと」


 幸は優の腕にそっと寄り添い、笑った。


「優君……これからも……よろしくね」


「こちらこそ……ずっとよろしく」


 海風が吹き、沖縄の海が光り、二人の未来を祝福するように揺れていた。


第十八章 ──再出発──

1.消えた黒田、残されたもの


 黒田事件から一か月。


 沖縄の街は、あの日の夜とはまるで違う穏やかな顔を見せていた。


 海も空も、優の心にようやく戻ってきたように澄んでいた。

 しかし――仕事を失った優には、これからの道を探す時間が必要だった。


(俺は……何をするべきなんだろう)


 朝の光を吸い込む空き地の前で、優は深く息をついた。


 幸の手作り弁当が入った紙袋が、手の中で温かかった。


「優君……」


 背後から幸の声がした。


 優が振り返ると、柔らかな風に揺れる髪、少し心配そうな目――あの日からずっと、幸は優のそばにいた。


「また悩んでる?」

 幸は歩み寄り、優の隣に並んだ。


「まあな……俺、建設会社辞めたし。でも……なんか分かるんだ。“前と同じ仕事じゃ、もうダメだ”って」


「うん。優君は……誰かを守りたい人だから……きっと違う道があるんだよ」


 優は苦笑しつつも、心の奥が温かくなった。


「幸……お前は、俺の心に灯りを点ける天才だな」


「えへへ……」と幸は照れながら笑った。


2.新しい道が見えた日


 その日の午後。

 優は佐伯の病室を訪れた。


 佐伯はまだ胸を固定した包帯を巻いていたが、

 しっかりと自分の足で立っていた。


「どうだよ優、俺のこの男前な回復っぷり」


「バカ。生きててくれて本当に良かったよ」


 佐伯は歯を見せて笑ったが、優の肩を拳で軽くどついた。


「お前が助けたんだろ。裏切ったとか裏切られたとか……そんなのもうどうでもいい。一生のダチだ」


 優は喉が詰まりそうになった。


「佐伯……」


「でよ、退院したら俺、仕事辞めんの。で、優、聞けよ」


「ん……?」


「“困ってる人を助ける会社”作ろうぜ」


「…………は?」


「いや本気でさ。あれだけの地獄見たんだろ?

俺らみたいなヤツ、世の中に腐るほどいるわけ。

 借金、DV、雇用、家族…… “逃げ場ねぇ人を助ける仕事”、やろうぜ」


 優は言葉を失った。


(……佐伯……俺と同じことを……考えていたのか……)


 佐伯は続ける。


「建設の知識もある。芦川って強すぎる弁護士もいる。幸ちゃんは元スナックで人の心が分かる。俺は喧嘩担当でいいし」


「喧嘩担当ってなんだよ……」

 優は吹き出した。


 佐伯は笑って言った。


「優、お前、守りたいものがあるって言ったんだろ。なら――次は“救う側”に回ろうぜ」


 優の心に、初めて未来の輪郭が浮かんだ。


(……そうか。これが……俺の新しい仕事かもしれない……)


3.名前はまだないが、確かに始まっていた


 数日後。

 優は佐伯と芦川と三人で、小さな事務所を借りた。


 看板はまだない。

 机と椅子だけの、がらんとした部屋。


 だが――そこから新しい人生が始まる確かな鼓動があった。


「ここを……“誰でも来られる場所”にするんだ」


「困ってるやつ、力になってやろうぜ」


「私はリーガル面を固める。二人が動けば、必ず救える」


 芦川が珍しく穏やかに笑った。


「しかし……優。この道を行くという選択、覚悟はあるのか?」


 優は強く頷いた。


「ある。これが……俺の再出発だ」


 芦川はゆっくり、優の肩を叩いた。


「よかろう。では――この会社の名前をどうする?」


 佐伯が腕を組んで言った。


「“結び手”ってのはどうだ?」


 優は一瞬、胸が熱くなった。


(結び手……幸と俺を繋いだ言葉だ……)


 優はゆっくりと言った。


「それがいい。“結び手サポートオフィス”。ここは……誰かの人生を繋ぎ直す場所だ」


 芦川は頷きながら、ひとつ告げた。


「では、私からも一つだけ明かしておこう」


 優と佐伯が振り向く。


 芦川は静かに言った。


「私は……黒田の過去を知っていた。あいつが落ちる未来も、な」

「どういうことだ?」

 優は身を乗り出す。


 芦川は眼鏡を外し、言葉を続けた。


「黒田は私の“元依頼人”だ。私はかつて、彼を救ったことがある」


「………!」


「だが……あいつは変わらなかった。人をモノとしか見ないまま、闇に沈んでいった。

だから私は……いつか止めなければならなかったんだ」


「芦川……」


「梶原、君が戦ったのは……ただの極悪人じゃない。私がかつて救えなかった人間の“成れの果て”だったんだ」


 優の胸に、ゆっくりと重さが沈んだ。


(芦川にも……守れなかった過去があったんだな……)


「だから梶原。君が黒田を止めてくれたこと……私は心から感謝している」


 その声はかつてないほど静かで、澄んでいた。


第十九章 ──幸へ──

1.誓いの日


 新しい事務所が動き始めて、一か月。


 優はずっと考えていたことがあった。


(幸と……一緒に歩きたい。もう一度、失いたくない)


 その思いは日に日に膨らみ、ある夜、優は決意した。


「今日……言うんだ。俺の……本当の気持ちを」


2.沖縄の海の見える丘で


 夕暮れ。

 幸を連れて、二人は静かな海の見える丘に座った。


 優は深呼吸し、幸を見つめた。


「幸……聞いてほしい話がある」


 幸がまっすぐ優を見る。


「うん。優君の言葉なら、なんでも聞けるよ」


 優は少しだけ照れたように笑った。


「事件のあと……いろんなものを失ったけど、ひとつだけ……手放したくないものがあった」


「……なに?」


「幸。お前だけは……二度と失いたくない」


 幸の目が大きくなり、優を見る。


 優はポケットから、小さな指輪を取り出した。


「幸――」


 優はひざまずき、彼女の手をそっと包み込んだ。


「俺と……生きてくれ。これから先の人生……全部一緒に歩いてほしい。

 幸を守りたい。

 幸を笑わせたい。

 幸と生きたい。


 だから……結婚してくれ」


 幸は両手で口を押さえ、信じられないように涙を零した。


「優君……本当に……?私なんかで……いいの……?」


「幸じゃなきゃ嫌だよ」

優は迷いなく言った。


「俺は……ずっとお前が好きだった。これからもずっと……幸だけを愛したい」


 幸は涙が止まらず、首を振りながら笑った。


「うん……!うん……!!!私も……ずっと優君が好きだった……!!こんな私を……見捨てないでくれて……ありがとう……!!」


 二人は強く抱き合った。

 夕陽が海に沈み、暖かい風が二人を包んだ。


 幸の指に指輪が光る。


「優君……私、一生大事にするよ……この指輪……!」


「俺も一生大事にするよ……お前を」


 幸の頬が優に寄り添い、二人は静かにキスをした。


終わり



『夜を担保にした恋』を最後まで読んでくださり、心から感謝いたします。

 本作は、人が抱える“夜”――弱さ、後悔、絶望、そして救われない過去――を正面から描きたい、という思いで書きました。優も幸も強い人間ではありません。迷い、傷つき、逃げたくなるほど脆い存在です。それでも誰かを想い、守りたいと願うとき、人は少しだけ前へ進めるのだと信じています。

 読者の皆さまの中にも、人生のどこかで越えられない壁や、心に残った深い夜があるかもしれません。もしこの物語が、そんな夜に寄り添い、小さな灯りをともすような役割を果たせたなら、それほど嬉しいことはありません。

 最後までページをめくってくださったあなたに、深い敬意と感謝を。どうかあなたの人生にも、静かな朝のような光が差しますように。

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