第8話「解放の帰路と、ひとつ屋根の下の灯」
首輪が落ちた音は、想像よりも静かだった。
だが、リアの中に響いたそれは、雷鳴のように大きかったに違いない。
長い年月、肌にまとわりついていた冷たい鉄の感触が、首元から消える。
その事実だけで、世界が少し違って見える気がした。
「……本当に、外れたんだな」
俺は、落ちた首輪を手に取り、少しだけ眺めた。
黒ずんだ鉄の輪は、ただの金属にしか見えない。
けれど、そこには確かに「誰かを支配していた記憶」が刻まれていた。
「……燃やすか?」
「……ううん。持って帰る」
「え?」
「いつか、誰かに言えるようになりたい。“私はここから逃げたんだ”って。……そのために、取っておきたい」
リアの声には、わずかな震えと、それ以上の決意があった。
――俺の知らない彼女の時間が、確かにそこに存在していた。
◇ ◇ ◇
塔を出たあと、俺たちは無言で街道を歩いていた。
沈黙は決して気まずくはなかった。
むしろ、心に沁みるような静けさだった。
リアはときおり、首元に手をやっては、ほんの少しだけ微笑んだ。
それだけで、俺は「来てよかった」と思えた。
ラグノルの街が見えてきたころ、風が少し強くなった。
マントがはためき、前髪が視界を遮る。
そのとき、不意にリアが俺の左袖をぎゅっと掴んだ。
「……手、つないでもいい?」
「え?」
「さっきまで、怖くて聞けなかった。でも今は……大丈夫。たぶん、もう“誰かの許可”じゃなく、自分の意志で……言えると思うから」
その言葉に、俺は笑った。
「じゃあ、手ぐらい……好きに繋げばいいさ」
差し出されたリアの手は、少し汗ばんで、けれどあたたかかった。
細くて、小さいけれど、確かに“誰かを信じる”強さがそこにはあった。
帰り道は、長くなかった。
それでも、今日という一日は――俺たちふたりにとって、ひとつの“節目”になった気がしていた。
◇ ◇ ◇
木漏れ日亭に戻ったのは、日が暮れる直前だった。
宿の女将が、心なしか微笑みながら「おかえり」と言ってくれた。
部屋に入ると、どこか空気が違って感じられた。
リアが“奴隷”でなくなった今、この空間はようやく――「ふたりの居場所」になったような気がした。
「リア、風呂、沸かすか?」
「……一緒には入らないよ?」
「入れとは言ってない!」
「ふふっ、わかってる」
小さな笑いが、部屋の空気を柔らかくした。
俺は台所でいつものように夕食の準備に取りかかった。
今日はささやかな“祝福”を込めて、少しだけ奮発した食材を使うことにした。
ギルド報酬と宿代を差し引いても、何とかなる範囲だ。
それに、こんな日は――ありふれた食事すら、何より特別になる。
鍋に火を入れて、香草と肉の煮込みをつくる。
香りが部屋に広がる頃、風呂から出てきたリアがタオルを肩にかけて現れた。
「……いい匂い。なんか、特別な感じ」
「祝杯ってやつだよ。自由になった祝い」
「ふふ……そんな大層なことじゃないけど……でも、嬉しい」
湯気の立つ食卓にふたりで向かい合って座る。
「じゃあ、改めて……おつかれさま、リア」
「……うん。ありがとう、ユウト」
食事は、静かに、けれど心地よい時間だった。
言葉は少なくても、リアが一口食べては微笑むたび、俺の胸に小さな満足が積もっていく。
ああ、俺は今、誰かのために“生きてる”。
それがたとえ、世間的には冴えない放浪者でも、
この部屋に灯るあたたかさがある限り――それで、十分だった。
食後、ランプの明かりを落とす頃。
リアがベッドに腰を下ろし、毛布にくるまりながら、ふと俺に聞いた。
「ユウトは……これから、どうしたい?」
「ん?」
「その、ギルドの仕事とか……旅とか。私が、自由になった今……ユウトは、どこに向かうの?」
難しい問いだった。
けれど、俺の答えは、意外とすぐに出た。
「……リアと一緒なら、どこでもいいかな。
それだけは、もう決めてる」
その言葉に、リアは小さく頷いた。
そして――目を閉じた。
「……じゃあ、私も……どこへでも、ユウトと一緒に行く」
毛布の中の声は、少しだけ震えていた。
でも、その響きは、まっすぐだった。
今夜、ふたりの間に流れた時間は、まだ恋とは呼べない。
けれど、確かに“絆”と呼べるものだった。
俺は、ランプの灯りが消えるのを見届けてから、そっと目を閉じた。