第7話「祈りの塔にて、名もなき過去に別れを」
翌朝、ラグノルの空は一面の雲に覆われていた。
灰色の雲が風に流れ、時折、冷たい風が頬を撫でる。
それでも、空気は澄んでいた。まるで、何かが始まる前触れのように。
「……寒くないか?」
「うん、大丈夫」
リアは薄手のマントの襟をきゅっと握りながら、小さく首を振った。
首元には、まだあの鉄の首輪が残っている。
――けれど、今日でそれともお別れになる。
目指すは、街の郊外。ラグノルから徒歩で一時間ほど北東に位置する《祈りの塔》。
旧時代の神殿の跡地を改装したというその塔には、かつて「魔導刻印師」として名を馳せた老人が身を隠している――というのが、ギルドで聞いた情報だった。
「ダルモンって人、クセがあるって言ってたけど……どんな人なんだろうな」
「怖い人……じゃないといいけど」
「だな。まぁ、最悪、また薬草依頼こなして金稼いで別ルート探せばいい」
「……ユウトって、時々すごく適当だよね」
「それ、褒めてる?」
「ううん。でも、ちょっと安心する」
そんなやりとりを交わしながら、ふたりは塔の前にたどり着いた。
祈りの塔は、想像よりも古びていた。
石造りの塔の表面は蔦で覆われ、入り口の扉は木材がところどころ朽ちている。
だが、何か“場の空気”が違う。無人とは思えない、かすかな気配がある。
「……入ってみるか」
ギィ……と、扉が軋む音を立てて開く。
中は薄暗く、空気が冷たい。けれど不思議と澄んでいて、奥からは誰かが焚いた香の香りが漂っていた。
「よく来たな、小娘と転生者よ」
その声は、奥の階段上から静かに響いてきた。
現れたのは、ボロ布のようなローブをまとった老人だった。
肌は浅黒く、目は白濁しているのに、その視線は鋭かった。
「……お前が、ダルモン?」
「そうだ。そして見えるぞ。――その娘の“首輪の痕”と、“心の鎖”の深さもな」
リアが思わず身をすくめた。ユウトは一歩前に出る。
「彼女の首輪を、外してほしい。……それだけのために、ここまで来た」
「“外す”だけなら、俺でなくともできる。ただ、問題はその先だ」
ダルモンはゆっくりと杖を突き、ふたりに近づく。
「娘よ、問う。お前はなぜ、自由になりたい?」
「……私は、もう“物”として扱われたくない。
名前も、声も、心も、すべて他人のものだった……でも、今は違う。
私は、ユウトに“リア”という名前をもらった。
だから――私は、“リア”として、生きたい」
塔内に、静寂が落ちた。
「……ならば、試練を受けよ。解放とは、願うだけで叶うものではない。
“自らの意志で、それを掴む”ことで初めて成されるのだ」
ダルモンの杖が床を叩いた瞬間、塔の空間が歪んだ。
「!?」
「結界空間……これは精神領域だ」
◇ ◇ ◇
気づけば、リアの周囲は闇に包まれていた。
ユウトの姿はどこにもない。
――そして、目の前に現れたのは、過去の“自分”。
首輪をつけ、怯え、蹲るもう一人のリア。
『お前なんかに、自由なんて無理』
『誰にも愛されなかった。助けてもらったって、また捨てられる』
『ユウトも、いつか飽きて、お前を見限る』
過去の“声”が、リアを責め立てる。
あの頃の痛み、恐怖、孤独が、闇の中で巨大な波になって押し寄せる。
「……やめて……っ」
リアは震えながらも立ち上がった。
「……私は、怖い。いまでも、信じるのが……怖い。
でも、それでも……信じたい! あの人は、私の名前を呼んでくれた。
……私は“リア”だ。もう、“誰かの物”じゃない!」
その瞬間、彼女の中で何かが弾けた。
闇が裂け、光が差す――。
◇ ◇ ◇
塔の結界が消え、リアの体が小さく揺れた。
首輪に刻まれた魔導刻印が、ひとつ、またひとつと砕けていく。
そして――
ガチャン。
鉄の輪が、音を立てて床に落ちた。
「……やった、のか?」
「うむ。本人の心が、枷を砕いた。……これが、真の解放だ」
リアは、首元にそっと手を添える。
そこには、何もなかった。
「……これが、自由」
そう呟いたとき、初めてリアの目に、本当の涙があふれた。
「……ありがとう、ユウト。私、ようやく“自分”になれたよ」
それは、“奴隷”として過ごしてきた少女が、
ようやく――「誰か」になれた瞬間だった。




