第3話「その目に宿る、名前のない光」
冒険者ギルドを出た俺は、少し歩いた先の石畳の裂け目に気づいた。
その先に広がっていたのは、まるで街の裏側のような空間――スラム街。
ラグノルの商業区から一歩踏み外すだけで、そこには露骨に空気の違う一角があった。
崩れかけた建物、薄汚れた布を貼り合わせただけの屋根、そして道端にうずくまる子どもたち。
「……同じ街とは思えねぇな」
異世界といえど、格差は存在するらしい。
まさか転生してまでスラムに足を運ぶことになるとは思ってもみなかったが、あの時耳にした噂が引っかかっていた。
「スラムの奥でまた女の子がさらわれたらしいぞ……」
「あの歳で奴隷かよ。胸糞悪いな……」
助けられるとは限らない。そもそも、自分に戦闘力はない。
けれど、“目を逸らす理由”にはならなかった。
スラムの最奥部、かすかに明かりの灯る路地裏。
路面に敷かれた木板の下から、かすれた声が聞こえた。
「……た、すけて……」
俺は無意識のうちに、そこへ歩を進めていた。
人ひとりがやっと通れるような隙間の奥。
その場所で、ボロ布をかぶせられた少女がうずくまっていた。
年は、おそらく十代半ば。髪は銀に近い灰色で、泥と埃にまみれたその姿は痛々しい。
だが何よりも、目を引いたのは――その瞳だった。
深い緑色の虹彩。
まるで戦場から逃れてきたような、獣のように警戒した目。
「大丈夫か……?」
そっと手を伸ばすと、少女はぴくりと肩を震わせた。
「……こないで……お願い……もう、叩かないで……」
怯えた声だった。咄嗟に、俺は自分の手を引っ込める。
「……叩かない。誰も、君を叩いたりしない。俺はただ、君が大丈夫かどうか……それだけが、気になっただけだ」
ゆっくりとしゃがみ込むと、少女は徐々に顔を上げた。
その顔には、無数のあざと擦り傷。そして、鉄製の首輪が――。
「……奴隷……か」
俺のつぶやきに、少女は小さく頷いた。
「……逃げて……でも、見つかって……また、売られる……」
その声は、あまりに細い。
このまま放っておいたら、きっと明日には息を引き取ってしまう。そんな危うさがあった。
俺は、そっとポーチからパンと水筒を取り出す。
宿の朝食の余りだったが、今はそれで十分だ。
「ほら。……食べな」
「……いらない……騙すんでしょ……どうせ食べたら、鎖で……引きずって……」
少女の手は、震えていた。けれど――
空腹は、きっと限界だったのだろう。数秒後、彼女はパンに手を伸ばし、むさぼるように食べ始めた。
……その姿を見ているだけで、胸が締め付けられる。
「……助けてくれて、ありがと……」
パンを食べ終えた少女が、かすれた声でそう言った。
「なぁ、君。……行く場所、あるか?」
「……ない」
「だったら――うちに来ないか? と言っても、宿の一室だけどな。飯はある。寝床もある。……それだけだけど」
少女は、ぽかんとした顔で俺を見た。
「……いいの?」
「俺は戦えない。力もない。だけど……今、見捨てたら、きっと一生後悔するから」
沈黙。数秒の後、少女は小さく、うなずいた。
◇ ◇ ◇
その夜、木漏れ日亭の宿の一室。
洗い終わった少女は、粗末な布服を着せられてベッドにちょこんと座っていた。
首輪はまだ外せていない。特殊な奴隷刻印があるらしく、下手に触れると爆発するタイプらしい。明日、ギルドで相談する予定だ。
「名前、聞いてなかったな。君、名前は?」
少女は、ふと目を伏せる。
「……ないの。売られるとき、消された……」
「じゃあ、これから付けよう。俺が勝手に呼んでも、いいか?」
戸惑いながらも、少女は小さく頷いた。
「――だったら……そうだな。『リア』って、どうだ?」
しばらくの間、少女は黙っていた。けれどやがて――。
「……リア。……うん、悪くない……かも」
名前を呼ばれることに慣れていないのか、その声はどこかくすぐったそうだった。
こうして、俺とリアの異世界生活が始まった。
これは、おっさん冒険者と名もなき少女が出会い、少しずつ“誰かになる”物語の、ほんの序章にすぎない。