第29話「それでも手を伸ばす者たち」
王都・《風鈴の家》前。
午前九時。街路には人影がなかった。
それは“嵐の前の静けさ”ではない。
“人々が何かを察し、息を潜めている”という、得体の知れぬ重苦しさだった。
その気配の中、リゼは空気の変化に敏感に反応していた。
「……魔導圧、来てる。しかも、複数方向から」
彼女の治癒魔法は、“肉体の損傷”だけでなく、“気配の違和”にも極端に敏感だった。
王都内で軍事行動が始まるとき、微細な圧力の変化が空気に混じる――それが今、確かにあった。
ユウトは頷き、手元の携行式魔導板を起動した。
ゼランから事前に受け取っていた庁の通信傍受プログラムが、薄く文字を浮かべる。
《コードD:施療区域接近》
《対話許可:却下》
《対象制圧後、被験者04号の行方確認》
「来るな……これは、“見せしめ”だ」
ユウトの表情は沈んでいたが、決して怯えてはいなかった。
「奴らは、俺たちが“怒る”か“逃げる”かを見てる。
そうすれば、“秩序を維持する必要な行為だった”って正当化できる」
リアが槍を手に立ち上がる。
「じゃあ、ぶっ飛ばす?」
「……いや。戦うことが目的じゃない」
ユウトはきっぱりと言った。
「俺たちが見せたいのは、“守る力”じゃない。“信じる力”だ。
この場所を、暴力じゃなく、“正しさ”で守る」
リゼが目を見開いた。
「でも、それじゃ通じない。あの人たちは、“命令”で動いてるんだよ」
「それでも、やる」
ユウトは、自分の胸に手を当てた。
あの夜、最初にリゼと出会い、リアと向き合ったとき――
傷ついた人間に必要なのは、“誰かが信じる手”だった。
「俺は……“この手”で、奪わないって決めたんだ。
だから、相手がどう来ようと、俺のやることは一つだ」
◇ ◇ ◇
そして――その時は来た。
王都警備兵と、魔導庁直属の戦術部隊が《風鈴の家》を囲んだのは、ちょうど昼時。
制圧の名目は、「魔導未登録施療行為の違法性」と「被験者の所在調査協力命令違反」。
だが、その実態は“見せしめ”に他ならなかった。
指揮官の青年――名をカーヴェル中尉という男が、スピーカーで叫ぶ。
「ユウト・シノノメ、及び関係者はただちに応答せよ!
魔導庁における法規に則り、査問および身柄確保を執行する!」
リゼが息を呑む。
リアは無言で槍を握りしめる。だが、ユウトは一歩前に出た。
彼の姿を見て、隊列の後方から人々の視線が集まり始める。
近隣の住民たちだ。
彼らは、何も言わない。ただ、無言で《風鈴の家》を見ていた。
その中に、例の少女の父親の姿があった。
ユウトの施療で娘が眠れるようになったという、あの男だ。
彼は前に出た。
「……俺の娘を救ってくれたのは、あの人だ。
なのに、何の罪で“連れていこう”って言うんだ?」
兵士たちは動揺した。
次に、一人、また一人と人々が進み出る。
店の女将、近隣の警備員、役所職員、そして――中層の研究補助官たちまで。
「施療を受けたのは私です」
「ただの話し相手になってくれただけです」
「人間らしくなれたのは、彼の言葉のおかげです」
それは“抵抗”ではなかった。“証言”だった。
中尉が歯噛みする。
「お前たちは……“公務妨害”になるぞ」
それでも、ユウトは穏やかに言った。
「俺がやってきたのは、“薬じゃない”。“魔法”でもない。
ただ、“誰かの痛みに耳を傾けただけ”だ。
……それが罪なら、お前たちは、“何のためにここにいるんだ?”」
中尉の手が、腰の魔導銃に伸びかける。
その時、背後から声が飛んだ。
「中尉、命令中断です!
上層部が“処置の見直し”を通達しました!」
「なに……?」
「“市民の反応を過敏と判断”し、“再調査を要請”とのことです。
現場判断での実力行使は控えろと!」
兵士たちは混乱し、命令の確認に走る。
その隙に、民衆の中から拍手が湧き起こった。
それは祝福ではなかった。
「誰かが誰かの痛みを肯定した」ことに対する、“肯定の連鎖”だった。
◇ ◇ ◇
日が傾き、軍は撤退した。
庁は正式にユウトへの査問延期を発表した。だが、それは“事実上の敗北”だった。
リゼが、少し涙ぐんでいた。
「よかった……誰も、傷つかなくて」
リアがぽつりと呟く。
「ほんと、めんどくさい人だよね、アンタ」
ユウトは小さく笑った。
「それでも……“手を伸ばしたかった”。
誰かが壊れる前に、“俺がそばにいた”って、そう言えるように」