第23話「崩れゆく静穏、そして始まりの兆し」
風が、少しだけ生ぬるくなっていた。
王都の朝。
市場通りにはパンと焼き菓子の香りが漂い、人々は慌ただしくも平穏な日常を織りなしている。
だが、その空気に混じって、ほんのわずかな“違和”が混ざっていたことに、誰も気づいていなかった。
――王都北部・第二区区画、裏通り。
朝方、治安隊の巡回が発見したのは、倒れたまま動かない若い青年だった。
身体に傷はなく、外傷もない。だが、意識は戻らず、肌は異様に冷たい。
「……魔力過剰障害か? いや、それにしては魔素濃度が不自然だ」
治安隊の一人が、眉をひそめる。
「……なんか、“誰かの感情”が焼き付いたみたいな……妙な空気だったな」
そう。
それは“魔導的再現施療”――感情を魔術式として焼き付ける技術の、失敗作だった。
表には出ない。
報告書にも「急性の魔力中毒による昏倒」とだけ記載され、遺族も黙殺される。
だが、確かに――“それ”は王都の空気の底を濁らせはじめていた。
◇ ◇ ◇
一方その頃、リゼは市場で野菜を買いながら、小さな袋を大事そうに抱えていた。
中には、ラベンダーとカモミールの乾燥束。
ハーブティー用ではなく、“眠れぬ子どもたち”のための香り袋を作るためだった。
福祉施設《風鈴の家》では、リアの活動を受けて、リゼも子どもたちと関わる時間を持ち始めていた。
「わっ、リゼさん来た!」
「今日は何するの? お絵かき? お茶? あ、また歌も聴きたい!」
「……えへへ、じゃあ……今日は、“ふわふわの匂い袋”を一緒に作ろうか?」
――笑顔。
その一つひとつが、リゼの“生きている実感”になっていた。
だが、その帰り道。
リゼはすれ違った一人の男の目に、冷たい何かが光るのを見た。
(……誰?)
記憶にはない顔。
だが、直感が告げていた。“普通の通行人ではない”。
リゼが軽く背筋を伸ばし、無言でその場を離れようとしたときだった。
「リゼ・メルディナ。あなたの“施療記録”を、私たちは研究させていただきたいのです」
男の声が、背後から静かに落ちてきた。
冷たく、それでいて礼節を装ったその声に、リゼは一歩立ち止まり――
「ユウトさんを通してください。それが礼儀だと思います」
そう、答えた。
たったそれだけの言葉。
だが、それは“かつてのリゼ”には絶対に言えなかったはずの、自己主張だった。
男は沈黙し――そのまま、立ち去った。
だが、その背中が告げていた。“これは終わりではない”と。
◇ ◇ ◇
夕方。
ユウトのもとに、再び“魔導庁外郭機関”からの接触通知が届いていた。
宛名は「連携施療技術開発部門・中級技官」――
だが、その文面には、かすかに異様な熱が滲んでいた。
『前回のご判断には敬意を表します。
しかし、今後も王都内で施療活動を行う限り、貴殿の技法は法的・技術的枠組みの中に再定義される必要があります。』
つまり、
「協力しないなら、制度側から“締め出す”ぞ」――そういう意味だった。
「……圧をかけてくるか。予想通り、だけど早いな」
ユウトは静かに手紙を燃やした。
燃え尽きる灰の中に、“王都という巨大な器”の冷酷さが、にじんでいた。
◇ ◇ ◇
その夜。
静養院の医務室で、リアはひとり、日誌を書いていた。
《今日も、リゼは元気そうだった。
“自分の居場所を作る”ってこと、前はあんなに怖がっていたのに、今は自然にやっている。》
ペンを止める。
ふと、窓の外を見た。
暗闇の中に、“何か”がいた。
人影ではない。魔物でもない。ただ――“人の気配が消えたもの”。
「……見てる」
リアの瞳が、かすかに揺れた。
それは“奴隷の過去”が呼び覚ました、生き延びるための感覚。
闇に潜むものの気配を、身体が思い出していた。
ユウトが、リゼが、王都で築こうとしているものを――
誰かが、“壊そうとしている”。




