第19話「静かな日々と、影の足音」
王都での生活が始まって三日。
リゼは、静養院での規則正しい日課を淡々とこなしていた。
午前は軽い診療と体調観察。
昼食後には休憩と読書。
午後には、ユウトによる個別の体調調整と“日常スキル”の訓練。洗濯、裁縫、簡単な調理など。
「……包丁って、難しいね」
「そりゃまあ、俺も最初は玉ねぎ切るたびに涙で床が水浸しだった」
ユウトの言葉に、リゼがふっと笑う。
「じゃあ、私も泣いてもいいんだね」
「うん。最初はうまくいかなくて当然だし、泣いた分だけ、あとでうまくなるさ」
調理場の片隅で交わされるやりとりは、医術とは無縁に見えるかもしれない。
だが、リゼの頬に宿る赤み、指先の微細な動き――それらすべてが、“生きている”証拠だった。
◇ ◇ ◇
一方、リアは静養院の近くにある「王都こども福祉施設」を見学していた。
きっかけは、彼女が落とした薬草の袋を拾ってくれた少年との出会いだった。
「……ここ、奴隷出身の子とかも預かってるんです」
少年――ティオは言った。
まだ十にも満たない彼の言葉には、年齢以上の達観があった。
「でも……本当は、みんな“自分が何者なのか”わかんないまま、大きくなっちゃうんだよ」
その言葉に、リアは過去の自分を思い出していた。
あの、名前さえなかった自分。誰のものでもなかった日々。
“おいしい”とか“ありがとう”とか、ただそれだけの言葉を知らなかった自分。
「ねえ、今度ここで、料理……一緒に作ってみない? 簡単なやつ。私、教えてもらったばっかりだけど……」
リアは自然に言っていた。
“してあげる”ではなく、“一緒に”という言葉が、彼女の変化を表していた。
◇ ◇ ◇
その夜。
静養院の裏庭に、ひとつの影が差した。
黒衣の人物が、柵の外で立ち止まり、小さな管状の器具を風にかざしていた。
「……やはり、動き出したか。あの娘の魔力波形、“旧型”とは異なる。
あの男……素人ではない。単なる施療士の範疇では収まらないな」
呟きながら、男は器具を懐にしまい、闇の中へと消えた。
翌朝、静養院の花壇に使われている肥料袋が、一つだけ切り裂かれていた。
職員たちは盗難ではなく“小動物の仕業”と判断したが、ユウトだけは眉をひそめた。
(……これは偶然じゃない。誰かが試している)
まだ大きな害はない。だが“調べられている”という事実そのものが、ユウトを警戒させるに十分だった。
◇ ◇ ◇
午後、医術院本部からの使者が静養院を訪れた。
届けられたのは、正式な書状――
『当院にて、リゼ・メルディナ嬢の施療法に関する公開検証を行いたい』
『併せて、施術者・ユウト殿には、その施療内容を実演にて説明していただきたく』
「……公開検証、ですって?」
リアが顔をしかめる。リゼは少し顔を青ざめさせた。
「きっと、“否定するための場”なんだよね。あの人たち、“確証”より“否定の隙”を探してる」
ユウトは書状を読み終え、静かに言った。
「行くよ。……全部、見せてやる。“一人を助けた方法”が、“世界に通用する”とは言わない。
けど、“誰かひとりに確かに効いた”って事実だけは、絶対に曲げさせない」
ユウトの声は、静かだった。だが、揺るがなかった。
その目の奥には、“社畜として耐え、すべてを失ってなお、自分を捨てなかった者の意志”があった。
そして、リゼはふっと微笑んで、言った。
「じゃあ、私も“証明する”。私の中に“確かに生きている今”を」
王都という巨大な秩序の中で、“一人の少女が、生きることを肯定されるための戦い”が、静かに始まろうとしていた。