第16話「旅路の始まりと、不穏な予感」
――旅立ちの朝は、ひどく静かだった。
メルディナ館の前庭に並ぶ馬車は二台。
一台はリゼ専用の緩衝装備付き療養車両、もう一台は護衛・補給用の随行馬車だ。
王都の紋章を掲げた衛士が数名、馬を抑えながら出発の準備を進めている。
「……本当に行くんだね」
リアがリゼに向けて呟くように言った。
その声には、不安でも躊躇でもない、ただ“実感”が滲んでいた。
「うん。やっと、“行きたい”って気持ちが、怖さに勝ったから」
「……うん、わかる。私も、ユウトに名前をもらって旅に出た朝、こんな気持ちだった」
ふたりは視線を合わせ、そして小さく笑い合った。
違う過去を持つふたりが、今は同じ未来へと歩もうとしている。
一方その頃、ユウトは最後の確認として、馬車に積んだ荷を点検していた。
保存食、薬草セット、焚き火用具、換えの衣服、そして――
王都での滞在先で使う調理道具一式。
すべての道具は、丁寧に包まれ、配置も計算されていた。
「……まるで引っ越しだな」
そう呟いて笑った自分の声が、やけに静かに響いた。
“環境を変える”というのは、それだけで人にとって大きな負荷だ。
ましてやリゼのように、長年ひとところにいた人間にとっては、人生そのものの揺らぎだ。
だからこそ、ユウトは準備を怠らなかった。
食の管理はもちろん、宿舎の室温、湿度、移動中のストレスを最小にするための香草のブレンド。
すべては、“彼女が無理なく立っていられるように”という一点に集約されていた。
◇ ◇ ◇
出発は、午前九時。
衛士の号令と共に馬車が動き出すと、リアは少しだけ窓を開け、外の空気を吸い込んだ。
「……ねえ、ユウト。王都って、どんなところなの?」
「喧騒と利便性の化け物みたいな街さ。静かに生きようとする人間には、少々厳しい」
「……でも、きっと見てみたい。どんなに複雑でも」
リアの目はまっすぐ前を見据えていた。
あのかつて怯えていた少女が、今こうして“新しい世界”を自分の意志で迎え入れている。
ユウトは思った。
この旅は、決して彼女たちを“別人にする”ものじゃない。
けれど――きっと“もう一歩、自分を肯定する”ための旅になる。
馬車が山道に入る頃、風向きが変わった。
高地特有の冷たい風が吹き抜け、木々がざわつく。
「……変な風だな」
御者台に立つ騎士の一人が、空を見上げて呟いた。
「ユウトさん、なにか感じますか……?」
リゼの声が、馬車の中から聞こえる。
「いや……まだ何も“起きてはいない”。でも……“兆し”はあるかもしれない」
旅に“完全な安全”はない。
王都直轄の道ですら、盗賊、野獣、そして――“人の事情”による不穏は常に存在する。
それを感じ取るのは、ユウトが日本で培った“社畜の感覚”とも似ていた。
――言葉にされない空気、踏み込むべきでない沈黙、兆しのない疲労感。それらは確かに“危機”の前触れだった。
◇ ◇ ◇
午後二時。
一行は中継地点の宿場町「クローネ」に到着した。
石造りの低い宿と、古びた広場の周囲には市場が並び、数人の巡回騎士が目を光らせている。
「ここで一泊して、明日また出発。王都まではあと一日半といったところか」
護衛隊長がユウトに説明した。
衛士たちの目にはわずかな警戒が滲んでいる。
「……何かありましたか?」
「昨日の夜、この町の外れで“薬草を狙った襲撃”があったそうだ。
医薬用植物を積んだ運搬隊が襲われて、数人が軽傷。……盗賊の仕業かと思ったが、手口が妙に精密でな」
ユウトの眉がぴくりと動いた。
「薬草を狙った……? それは偶然か……それとも“誰か”が?」
「わからん。だが、今夜はこちらも交代で警戒にあたる」
◇ ◇ ◇
夜。
宿の一室。
ユウトは小さな調理場で湯を沸かしながら、香草を煎じていた。
「この香り、落ち着く……」
リゼがカップを抱えながら、目を細める。
「緊張してる?」
「うん。……でも、それよりも、何かが近づいてきてる気がして、ちょっとだけ胸がざわざわするの」
「それは……“自分の中の本能”だ。無視しなくていい。
でも恐れすぎないで。俺たちは準備してる。“怯えて止まる”ためじゃなく、“進むための盾”を持ってるから」
ユウトの言葉に、リゼは深く頷いた。
外の風がまた、音を連れて窓を揺らす。
その夜――宿場の門近くで、焚き火を囲んでいた衛士の一人が、闇の中に“妙な足音”を聞いたという。
翌朝、町の裏山に続く道沿いで、小さな袋が発見された。中には――未登録の薬草標本。
これは、偶然か、警告か。
それとも、“誰かの意図”が背後にあるのか。
王都へ向かう旅路は、確かに始まった。
けれど、その先には“ただの療養”だけではない、何かが――待っていた。




