第13話「この扉の向こうへ」
その朝、メルディナ家の空は透き通っていた。
薬草の香りを含んだ風が、静かに館の中を流れていく。
客間の窓辺に立つリアは、庭に差し込む陽光を見つめていた。
彼女の指先には、スケッチの線が描かれていく。筆圧は軽く、けれど迷いはない。
「……リア、今日のスープに使うのは?」
「パスティナ草と、ロザリオの花弁。それにセリカの根」
「完璧。リゼ嬢の身体にはちょうどいい組み合わせだ」
ユウトはスープの鍋に火をかけながら、何気ない声でリアに問いかけていた。
それは昨日からの延長でありながら、確かに前進していた。
リアは今、ただの補佐ではなかった。
自分の意思で知識を取り込み、役に立とうとし、行動している。
その姿に、どこかユウト自身の“変わりたかった過去”が重なっていた。
そして――。
「……私、外に出たいの」
その言葉は、リゼ・メルディナが朝食を終えた直後、何の前触れもなく口にしたものだった。
「リゼさん……?」
「今日のスープを飲んだら……なんだか、身体がぽかぽかして。
気づいたら、“この部屋の外の空気を吸ってみたい”って思ったの」
その瞬間、部屋の空気がほんの少し揺れた。
館の誰もが驚いていた。
リゼは長年、自室の外に出ることすら拒否してきた。
日光に弱く、体力が持たず、精神的にも不安定な日々が続いていた彼女が――自ら“外に出たい”と告げたのだ。
「……わかりました。準備します」
最初に動いたのは、リアだった。
「日光をやわらげる軽装のケープがあります。帽子も、首元まで隠れるものが……。薬草園の裏側なら、人の目も少ないですし、負担も少ないはず」
慌てる執事や侍女たちの中で、リアの声はしっかりと響いていた。
その姿に、リゼは微笑んだ。
「……不思議。あなた、私より年下に見えるのに……とっても頼もしい」
「私も、誰かに“外に出たい”って言えるまで、ずっと時間がかかったんです。
でも、勇気って……“持てる人”じゃなくて、“出した人”が偉いと思う」
その言葉に、リゼの目がほんの少し潤んだ。
◇ ◇ ◇
午後――。
リゼは、リアとユウトに挟まれて、ゆっくりと廊下を歩いていた。
足取りは不安定ながらも、一歩ずつ確かに前へと進んでいる。
館の裏庭に出たとき、風が彼女の髪を撫でた。
「……こんなに、空って広かったんだね」
それは、絞り出すような声だった。
身体ではなく、心の内側から震えるように響いていた。
薬草園の隅、木陰のベンチに腰を下ろすと、リゼは静かに目を閉じた。
「風の匂いが……スープの中にあったのと同じ。たぶん、ユウトさんが入れた香草と……」
「リンドレアだな。身体を冷やさずに呼吸を整える効果がある」
「……ありがとう。たったこれだけのことが、夢みたい」
しばらくの沈黙のあと、リアがふと口を開いた。
「私、昔は“名前”もなかったんです」
リゼが目を開く。
「“リア”っていうのは、ユウトがつけてくれた名前。
それまでは、ただの“もの”みたいに扱われてた。
でも、名前を呼ばれたとき、初めて、“生きていいんだ”って思えたんです」
「……リア」
「リゼさんも、外に出たいって言った。きっとそれは、“自分で生きたい”って言ったのと同じだと思う。
だから、私はすごいと思います」
リゼは言葉を返さなかった。
けれど、ゆっくりと手を伸ばして、リアの手に触れた。
その手は震えていた。
だけど、確かに“誰かと繋がる”ことを、恐れていない手だった。
◇ ◇ ◇
夕刻。
館の一角で、ユウトは一枚の封書を受け取っていた。
差出人は――ギルド本部、ラグノル支部長名。
⸻
【至急通達】
ユウト=指定ギルド支援者殿へ
近日中に王都より視察団がラグノル地方を巡回予定。
メルディナ家の支援活動に関心を持った高官より、話を聞きたいとの申し出があり。
滞在中に何らかの正式な要請または協力依頼がある見込み。
準備と心づもりをお願いしたく。
⸻
「……王都、か」
その単語に、遠い記憶がかすめた。
かつての自分が、日々に押し潰されていた東京という都市――その痛みと似た気配を感じる響き。
だが今は違う。俺はひとりじゃない。
隣には、名前を持ち、自分の足で歩き出した少女がいて。
そして、新たに“外の世界”へと目を開いた少女もいる。
彼女たちと共に、“外の空気”を選び取った俺自身がいる。




