第12話「薬草の食卓と、揺れるガラスのこころ」
朝――。
メルディナ家の薬草館は、静かな鳥の声に包まれていた。
高窓から差し込む朝日が、石床と薬棚に淡く反射し、幻想的な光の帯を作る。
どこか聖域のような空間。それがこの館の、朝の顔だった。
「ユウト、今日の支度……もうできてるの?」
「ああ。朝はパンと卵、それに野菜スープ。香草は消化促進のセージとリンドレアを少し。リゼ嬢には低脂肪の方を優先する予定だ」
「すご……なんか、本当に医者みたい」
「食事で人は変わるんだ。俺たちの体も、心も。だからこそ、やれることをやる」
厨房には、必要最低限ながら整った設備が揃っていた。
火かまど、燻製器、乾燥棚、それに薬草と調味料の壺が整然と並ぶ。
ユウトは慣れた手つきでスープをかき混ぜながら、目の前の“戦場”を見つめる。
それは、かつて会社という牢獄にいた彼にとって、初めて“人を癒す戦場”だった。
そして朝食の時間。
ユウトとリアが準備を終え、テーブルに料理を並べたとき、リゼは少し遅れて姿を現した。
「……おはよう」
「おはようございます、リゼさん」
リアが笑顔で挨拶すると、リゼは目を細めて頷いた。
「……うん。おはよう。なんだか、いい匂いがする」
「今日はスープがメインです。香草を使って、胃に負担がかからないようにしました。
……と言っても、まずは一口、味を見てもらえれば」
ユウトの言葉に、リゼは静かにスプーンを取り、ゆっくりとスープを口に運ぶ。
……数秒の沈黙。
「……あったかい、味がする」
「それは、よかった」
「前の料理人は、“健康のために”って言いながら、味を無視してたから……
でもこれ……ちゃんと“誰かが私に食べてほしい”って思った味がする」
リゼの言葉に、リアがわずかに目を見開いた。
それはまるで、かつてリアが“名前をもらった時”と同じような、小さな感情の芽吹きだった。
◇ ◇ ◇
午前中、ユウトは館の書庫で薬草の調合レシピと料理の記録を確認し、リアは庭でスケッチを続けていた。
一方、リゼは自室のテラスで椅子に座りながら、リアが描いている様子を見つめていた。
「……リアさんって、すごく丁寧に描くんだね」
「リゼさん……見てたの?」
「うん。私、最近よく眠れなくて……でも、ああやって集中してる姿を見ると……
なんていうか、自分の中が静かになる気がするの」
「私も……スケッチしてるとき、心が落ち着くよ。
覚えるために描いてるんだけど……でもそれ以上に、“今を感じる”ため、かも」
「“今を感じる”……」
リゼは、その言葉を繰り返した。
それは、自室の窓の外しか知らず、“時間が止まったまま”だった少女にとって、初めて聞く感覚だったのかもしれない。
「リアさんって……不思議な人。
前はきっと、もっと何も言えなかった人だった気がするのに……今はこんなにしっかりしてる」
「……うん。私、変われたの。変わりたかったから」
「変わるって、怖くない?」
「怖かったよ。今もたまに、昔の夢を見る。
でも……それ以上に、“未来にいる自分”が見たいと思ったの。
リゼさんにも、そんな未来があると思うよ」
その言葉に、リゼはほんの少しだけ、笑った。
ガラス細工のような心のどこかに、亀裂ではなく“風の通り道”ができ始めていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
薬草棚の再整備のため、ユウトと館の助手が地下の保管庫に向かっていたとき――
「……ん? なんだ、これ……?」
保管庫の入り口前、土嚢の山が崩れている。
何かの衝撃があったのか、木箱がひっくり返り、床に乾燥ハーブが散乱していた。
「リア、下がってろ。誰かが……」
その瞬間、棚の奥から、ガタリと何かが崩れる音がした。
「誰かいるのか――!?」
警戒しながら進むと、棚の陰から現れたのは――
若い男の冒険者。
軽装で、背中には細剣。手には盗品らしき薬瓶が数本握られていた。
「……チッ、見つかったか」
「お前、何をしている……!」
「こっちは生活が懸かってんだよ。
貴族のガキに薬がいる? だったら金で買えばいいだろ……
ギルドに飼われてるお前らと違ってな、こっちは生きるだけで精一杯なんだよ!」
リアが息を飲むのが、すぐ近くで聞こえた。
かつて、似たような声で罵倒された日々が、彼女の中に蘇ったのかもしれない。
しかし――ユウトは動じなかった。
「わかる。……俺も、こっちに来る前は、そうだったから」
「……あ?」
「苦しくて、逃げ場がなくて、どうしようもなくて――
それでも、“他人を踏んだら負けだ”って、自分に言い聞かせてきた」
静かな声だった。だが、強かった。
その言葉が持つ重みは、暴力よりも、怒号よりも確かだった。
「……っ、チッ……!」
男は罵声を残し、薬瓶を放り出して去っていった。
幸い、誰も怪我はなかった。だが――館には緊張が走った。
◇ ◇ ◇
夜。
再び食卓についたリゼは、静かに口を開いた。
「……あの人、かわいそうだった。
でも、だからって……誰かを傷つけていいわけじゃないよね」
「うん……そうだよね」
リアの答えには、自分の過去と、あの青年の姿が重なっていた。
「誰かに与えられる優しさと、自分から与える優しさは、違う。
私は……きっと、これから“与えられる側”じゃなくて、“与える側”になりたい」
その言葉に、ユウトもまた、頷いた。
暗がりの中、ふたりの少女が、
互いの“過去”と“これから”を、静かに見つめていた。




