第1話「ブラック企業で死んだら、異世界だった件」
朝の五時、空はまだ真っ暗だというのに、オフィスの蛍光灯だけが無情に明るかった。
ガタガタと鳴る空調の音。カタカタと響くキーボードの連打音。
俺はその中で、今にも落ちそうなまぶたを無理やり開きながら、今日も終わらない見積書と睨み合っていた。
「……コーヒー、もう切れてるのか」
休憩室に行けば、ポットすら空。どうやら夜勤組が飲み干したらしい。補充? 誰が? そんな文化、うちの会社にあるわけがない。
「月影さん、例の資料、もう提出されました?」
「いえ、まだで……すみません、あと三十分ほど……」
「五分でお願いします。クライアントの機嫌が悪いみたいなんで」
にこりと笑ってそう言った後輩女子社員の顔が、どうしてかホラーより怖く見えた。
俺がため息をつこうとしたその瞬間――。
視界が、真っ白になった。
次に目を開けたとき、そこは……。
天井が、なかった。というか、空が見えた。真昼のような光が、まぶしい。
「……あれ? 俺、寝てた?」
いや、違う。オフィスの天井は殺風景な蛍光灯に覆われていたし、床は薄汚れたカーペットだった。
でも今、俺の背中には草の感触。風が心地よく吹いていて、小鳥のさえずりまで聞こえる。
……これは、夢か? それとも。
『目覚めましたね。ようやく』
頭の中に、声が響いた。
聞き覚えのない女性の声。静かで、どこか神聖な雰囲気がある。
『あなたは過労死しました。心筋梗塞、即死でした。さすがにブラック企業とはいえ、ここまで追い詰められるとは、我々の側でも想定外でして』
「おい待て、人が死んだのにその言い方!?」
『……失礼しました。ともかく、あなたには特例として、転生のチャンスが与えられました』
どこかで聞いたことがある展開。いわゆる――
「異世界転生ってやつか……」
『はい、的確な理解です。なお、あなたには以下の能力が付与されます』
《付与スキル》
・【再生の祝福】……時間経過で傷と体力が回復。毒・病気・呪いなど一切無効。
・【生活王】……料理、裁縫、錬金術、農業、調合など生活スキルに+300%補正
・【ステータス閲覧】……自身と他者のステータスを確認可能
『……戦闘スキルは一切ありませんが、生きるには十分でしょう?』
「生活スキル極振りじゃねぇか。完全に引退後みたいな人生……」
『あなたの願望に沿った結果です。「戦いたくない」「もう争いたくない」「のんびり暮らしたい」――あなたの魂がそう訴えていました』
否定はできなかった。
もう、あの地獄のような日々には戻りたくない。数字に追われ、人に罵られ、誰からも評価されず、ただ毎日すり減っていくような生活。
もう二度と、そんな思いはしたくなかった。
「……わかった。異世界、やってやるよ。俺なりに」
『それでは、どうぞ――新たなる世界へ』
視界が再び白く染まり、俺の意識は吹き飛んだ。
◇ ◇ ◇
「……おい、大丈夫か、兄ちゃん!」
どこか田舎な訛りのある声が、耳に届いた。
まぶたを開けると、赤いターバンを巻いた中年の男が俺の顔を覗き込んでいた。
背後には、馬車と干し草。――どうやら、街道沿いらしい。
「ここは……?」
「西の街、ラグノルの手前だ。街まではすぐだが、倒れてたぞ。腹でも減ってたのか?」
「……ああ、腹は……減ってるかも」
この世界での第一声がそれかよと、内心でツッコミながら、俺は立ち上がる。
新しい世界。新しい人生。
スキルも魔法も、よくわからないことだらけだけど……。
「ま、なんとかなるか」
そうつぶやいて、俺は異世界での一歩目を踏み出した。