69 葵の説得
69 葵の説得
葵は深く息を吸い込み、デモ隊の前に立った。
周囲は一瞬、静まり返った。
「私は陽乃市で子どもを育てながら、育児支援のプロジェクトに関わっている高瀬葵です」
彼女がそう名乗ると、デモ隊の中から一人の男性が前に出てきた。
「俺たちは、お前たちのやり方に反対している!」
中年の男性だった。強い口調で言い放ち、周囲のデモ隊員も賛同するように頷いた。
「税金を使って育児を支援する? ふざけるな! 子どもを育てるのは親の責任だろう?」
「国の支援がなければ育児もできないのか? そんな親失格だ!」
「自分たちの力でやるべきだろう!」
次々と声が上がる。
その言葉に、葵は動じず、穏やかな口調で答えた。
「確かに、親としての責任はあります。でも……それだけで全ての親が育児を乗り越えられるでしょうか?」
デモ隊の一部が、わずかに戸惑った表情を見せる。
「私はシングルマザーです。夫を事故で亡くし、二人の子どもを育てることになりました」
葵の言葉に、デモ隊の中でざわめきが起こる。
「その時、私は仕事を続けながら、子どもを育てられるかどうか、不安で仕方がありませんでした。でも、陽乃市の支援があったおかげで、私は仕事を辞めずに子どもを育てることができています」
デモ隊の中にいた数名の女性が、じっと彼女の話を聞いていた。
「親の努力は大切です。でも、それだけではどうしようもないこともあります。誰もが同じ環境で子どもを育てられるわけではないからこそ、社会が支える仕組みが必要なのではないでしょうか?」
静かな説得だった。しかし、その言葉は確実にデモ隊の一部の心に届いていた。
「甘えるな!」
さっきの中年の男性が、声を荒げた。
「結局は他人の税金に頼るんだろう? そんなのは親としての責任を放棄しているだけだ!」
その言葉に、葵は一瞬言葉を飲み込んだ。しかし、すぐに目を見開いて言い返した。
「では、あなたに質問させてください。もし、あなたの娘さんが一人で子どもを育てることになったら、どうしますか?」
「……何?」
「もし、彼女が仕事と育児の両立に悩んでいたら、あなたは何と声をかけますか?」
「それは……」
男性は言葉に詰まった。
「彼女に“自分の力で何とかしろ”と言いますか? “親の責任だ”と言って、一人で背負わせますか?」
「……」
「違いますよね? あなたはきっと、“できるだけのサポートをしたい”と思うはずです」
デモ隊の一部が沈黙した。
「社会の支援も、それと同じです。誰かが困った時に支える。そうすることで、子どもを持ちたいと思う人が増え、社会全体が豊かになっていくんです」
葵は一歩、前に進んだ。
「陽乃市の取り組みは、“親の責任を放棄すること”ではありません。親が安心して子どもを育てられるようにするための支えです」
デモ隊の中にいた女性が、小さく呟いた。
「……確かに、それはそうかもしれない……」
少しずつ、彼らの態度が変わっていく。
その時、ホールの入り口から悠人の声が響いた。
「シンポジウムの開始時間が迫っています。よろしければ、皆さんも中に入って私たちの話を聞いてみませんか?」
葵がゆっくりとデモ隊を見渡した。
「あなたたちが私たちに反対する理由は分かります。でも、どうか、私たちが何を考え、何を目指しているのか、一度だけでも耳を傾けてください」
しばらくの沈黙の後——
デモ隊の半数以上が、ゆっくりとプラカードを下ろした。
「……話を聞いてみるか」
「そうね。納得できるか分からないけど……」
葵は小さく息をついた。
反対派の全員を納得させることはできなくても、話を聞いてもらえれば何かが変わるかもしれない。
「ありがとう……ございます」
彼女の言葉は、穏やかに会場の前に響いていた。
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次回:シンポジウム開始! 葵と悠人の発表が、未来を変える?




