**第4章「理想と現実」**では、悠人が陽乃市の住民たちと直接関わることで、この街の光と影をより深く知る展開にしていきます。
第4章 理想と現実
1
陽乃市での生活が始まって、一週間が経った。
悠人は、職場となる「未来創生特区推進室」での業務に慣れつつあったが、それ以上に驚いたのはこの街の住民たちのライフスタイルだった。
通勤ラッシュとは無縁のゆったりとした朝。オフィスでは子どもを連れて働く親の姿。働き方はフレキシブルで、業務が終わるとすぐに家族と過ごす時間を確保する。
都会のオフィス街で激務に追われていた悠人にとって、それはまるで異世界のような光景だった。
「本当にこんな生活が成り立つのか?」
悠人は、まだ完全に納得できずにいた。
この街のシステムは、確かに理想的に見える。しかし、前回の葵の話を聞いて以来、この理想の裏側にある『現実』をもっと知る必要があると感じていた。
そこで悠人は、自ら住民の声を聞くことにした。
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2
ある昼下がり、悠人は市役所を抜け出し、住宅街を歩いていた。
陽乃市の住宅街は、一軒家と中低層のマンションが整然と並び、どこも緑が豊かだった。遊歩道にはベビーカーを押す母親や、子どもと手をつないで歩く父親の姿がある。
「本当に平和な街だな……」
悠人がそう思いながら歩いていると、公園のベンチに座る一人の女性が目に留まった。
彼女は30代前半くらいだろうか。黒髪を無造作にまとめ、疲れた様子でスマートフォンを眺めている。
隣には、まだ2歳くらいの男の子が座っていたが、母親の方を見ようともせず、ひたすらおもちゃの車を動かしていた。
「親子の距離が、妙に遠いな……」
悠人は、ふと前回の葵の言葉を思い出した。
「この街では、育児の負担が軽減される一方で、逆に『育児をしない親』も出てきてしまっているんです」
悠人が考え込んでいると、女性がふと顔を上げた。そして、悠人と目が合うと、驚いたような表情を浮かべた。
「あれ……あなた、深澤さん?」
「え?」
突然名前を呼ばれ、悠人は驚いた。
「私、高瀬葵の友人の吉川玲奈です。前に彼女から話を聞いていました」
「そうでしたか」
悠人は軽く会釈すると、ベンチの端に腰を下ろした。
「お子さんですか?」
「ええ。直哉です」
玲奈はそう言って、隣の男の子の頭を優しく撫でた。
しかし、直哉は母親の手を振り払うように身をよじらせると、またおもちゃに意識を戻した。
「……最近、こうなんです」
玲奈は寂しそうに笑った。
「この子、以前はもっと甘えん坊だったんですけどね」
「何かあったんですか?」
悠人が尋ねると、玲奈はため息をついた。
「私、去年からフルタイムで働いているんですけど、この街は育児支援が完璧すぎて、私がいなくても、この子は普通に生活できちゃうんです」
玲奈は、スマートフォンを悠人に見せた。画面には、育児支援AI「ママリー」のアプリが開かれている。
「食事、睡眠、健康管理、しつけ……ほとんどのことをママリーがやってくれるから、私が仕事で遅くなっても問題ないんです。でも、それが当たり前になりすぎて、気がついたらこの子は私を必要としなくなっていた」
玲奈は、静かに続けた。
「私、楽をしすぎたのかな……」
悠人は、言葉を失った。
——理想のはずの育児支援が、親子の距離を遠ざけている。
これは、悠人が想像していた以上に根深い問題なのかもしれなかった。
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3
その夜、悠人はバーで葵と落ち合った。
「——実際に住民の話を聞きましたよ」
カウンター越しにウイスキーグラスを揺らしながら、悠人は玲奈の話を葵に伝えた。
「やっぱり……玲奈も悩んでいたのね」
葵は、静かにグラスを置いた。
「育児の負担をなくすことは、確かに私たちが目指したこと。でも、育児を親から切り離すことは、決して目的じゃなかったはずなんです」
彼女の表情には、迷いが見えた。
「私も双子を育てていて、忙しいときはママリーに頼ることもある。でも、結局のところ、親が子どもと関わること以上に大切なものはないと思うんです」
「……確かに」
悠人は、グラスの中の氷を見つめながら呟いた。
この街には、未来の育児を支えるための最先端のシステムが整っている。だが、それが人間関係を希薄にする原因になっているとしたら——?
「このままでは、いずれ育児は『親の役割』ではなくなるのかもしれない」
そう考えると、悠人は言いようのない不安を覚えた。
「——なあ、高瀬さん」
悠人は、ふと葵を見つめた。
「俺に何か手伝えることはありますか?」
葵は、一瞬驚いたように目を見開いた。
「……深澤さん、いいんですか?」
「俺はまだ、この街の本当の姿を知らない。でも、少なくともこのままでいいとは思えないんです」
葵は、少しだけ考えた後、ゆっくりと頷いた。
「……実は、私も今、新しい育児支援のプロジェクトを立ち上げようとしているんです」
彼女の瞳には、新たな決意の色が宿っていた。
「もしよかったら、協力してくれませんか?」
悠人は、その申し出を、真剣な表情で受け止めた。
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【第4章 完】
この章では、悠人が陽乃市の「理想と現実」を直接目の当たりにし、育児支援の新たな課題を知る展開を描きました。
次の**第5章「新しい支援のカタチ」**では、悠人と葵が、より良い育児支援のために具体的な行動を起こしていく流れにします。