巻き込まないで下さい!
「アスベル様に近づかないで!」
ヴィヴィことヴィヴィアン・ロイズは放課後、学園の空き教室で三人の女生徒に囲まれ、なおかつそのうちの一人に突き飛ばされて、先程のセリフを吐かれたのだ。
「何をするんですか、おやめ下さい!」
ヴィヴィアンは机に体をぶつけて派手に転んだが、令嬢たちはクスクスと笑いながら嘲りを隠そうともしなかった。
「あら、ごめんあそばせ。でも貴女がいけないのよ。私たちのアスベル様に近づくから。尻軽女のくせに!」
「本当!アスベル様がお可哀想だわ。誰にでも良い顔をする売女のくせに。初心なふりはおやめになって!」
「全くだわ!貴女のせいで、何組の婚約破棄がされたと思ってるの?恥をお知りなさいな」
「アスベル様の麗しいお顔。輝く金髪、初夏の新緑のような明るい緑の瞳。逞しい胸、引き締まった腰、長い脚!」
「品のある物腰、優しげな笑顔、文武両道でいらっしゃるのに、少しも偉ぶったりなさらない」
「誰にでもお優しくて、何といっても将来有望な侯爵令息。正に学園のアイドルの一人ですわ!」
「それなのに、どうして貴女みたいな根暗な方と婚約なさってるのかしら?本当にお可哀想だわ」
「アスベル様だけじゃなくってよ!恋の狩人クロード・デューク様や学園の赤の騎士ウォルフ・カイザー様も惑わせたんですって?」
「何ですって!デューク様まで?許せないわ!」
「赤の騎士様もよ!許せない、許せないわ、キィー!」
「他にもサミュエル・ウィストン様やケイン・グラナダ様も婚約破棄されるって聞いたわ!」
「それにダミアン・スミス様もよ!」
「ああ、気が遠くなりそう……」
「ヴィヴィアン様はいつも本ばっかり読んでらして、お友達もいらっしゃらないと思っていましたが、男漁りに精を出されていらしたのね。その手腕を是非ともご教授いただきたいですわ」
「全くですわ!そんな方、アスベル様にはちっとも相応しくないわ!アスベル様こそ、どうして婚約破棄なさらないのかしら?」
「本当!お二人はちっともお似合いでないのに」
「あら、アスベル様だけじゃなくってよ。どなたともお似合いにはならないわ」
「それもそうですわね。失言致しましたわ」
クスクス、クスクス
意地の悪い嗤いが教室内に響いた。ヴィヴィアンは呆然と三人の女生徒を眺めて呟いた。
(ちょっと待って!男漁りって何?そんなことしたことないわ。静かな学園生活を送ってたはずなのに、どうして?私こそ何が起こってるのか知りたいくらいよ!!)
そう、アスベル・リシュルツ侯爵令息は、ヴィヴィアンの二学年上の婚約者だ。婚約者だから仲良くしてもおかしくない、はず。なのに?
ヴィヴィアンは今置かれている状況が飲み込めずにいた。というか、最近身の回りで起こる出来事に混乱して、何が何だかわからないでいた。
私の名前はヴィヴィアン・ロイズ。
ロイズ伯爵家の一人娘。自分で言うのもなんだけど、柔らかく絡まりやすい絹糸のような金髪はふわふわのウェーブがかかっていてお人形のようだし、夏空を思わせる青い瞳は長いまつ毛に縁取られ、どこか夢みがちに煌めいている。
透き通るような白い肌にうっすらと朱が刺した頰にさくらんぼのような唇。華奢な体つきは儚げで頼りなげに見え、庇護欲をそそる。はっきりいって美少女、だと思う。
おっとりとして大人しい性格であまり目立つこともなく、学園ではたいてい一人で本を読んでいて友達も少ない。
勉強はアスベルと同じで、入学してからは学年上位をキープしている勉強家だが、クラスでも自己アピールすることのない影の薄い存在だった。
そんなヴィヴィアンが悪女と罵られることになったのには訳があった。
♢♢♢♢
それは遡ること数日前の昼食時のこと。
普段ヴィヴィアンはお弁当を持参して、アスベルと二人で庭のベンチで食べているが、その日は食堂に行く約束をしており、迎えに来たアスベルと窓際の席で昼食をとっていた。
すると急に食堂内が騒がしくなり、見れば二年生のカップルが痴話喧嘩を始めたのだ。
「すまないが婚約を破棄したい。俺はもう、自分の気持ちを止めることができない。俺はロイズ嬢を愛してしまったんだ!」
「ケイン様?何を仰ってるかわかりませんわ。いつの間にロイズ伯爵令嬢と親交を深めてらしたの?」
「親交はない。俺の一目惚れで一方的なものだ」
修羅場を演じているはずなのに、男生徒がヴィヴィアンに流し目を送ってくる。
「ねえ、どういうことかな?」
それに気づいたアスベルが、引き攣った笑顔を浮かべてヴィヴィアンを見つめたが、目が笑っていなくて怖い。
「わ、わからないわ。お会いしたこともない人なのに」
ヴィヴィアンは青ざめ狼狽えながら答えた。
その時は婚約者の女生徒が男の頬を叩き、その場を去ってしまったので、その後のことはわからなかった。
男生徒は去る間際にヴィヴィアンを一瞥すると軽く会釈をした。
アスベルは牽制するようにヴィヴィアンの手を握り、甲にキスをしながらその男を睨んだ。
突然のことにヴィヴィアンは頰を赤く染めた。
「まあ!なんですの?急に」
「ヴィヴィが僕のものだと、皆に知らせておこうと思ってね」
ヴィヴィアンは婚約者のセリフに、思わずため息を吐いた。
食堂を出た後、気持ちを切り替えた二人は中庭を散策した。季節は初夏。手入れされた花壇には様々な花が咲き乱れ、蝶が楽しげに花々の間を飛び交っていた。
「図書館で本ばかり読んでないで、たまには散歩もいいだろう。ごらん、緑の美しい季節だよ」
「ええ、本当に綺麗だわ。連れてきてくれてありがとう」
その時、またもや言い争う声が聞こえてきたのだ。
「私と婚約を破棄して下さい」
「サミュエル様?いったいどうしたんですの?急に……」
「私には貴女ではない、心に秘めた女性がいるんだ」
「何を仰ってるかわかりませんわ!」
女性は蒼白になり、両手で顔を覆うと激しく泣き出した。
「それは、どなたですの?」
その言葉に、男生徒はヴィヴィアンを切なげに見つめた。
(え?なあに?まさかあんな遠くから私を見てるの?まさか、また私が絡んでるんじゃないよね?)
またしてもヴィヴィアンは狼狽え、震えながらアスベルを探した。すると青ざめた顔のアスベルが素早く横に来て腰に手を回した。
「いったい今日はなんていう日だ!厄日か?」
アスベルは怒りに震えながらヴィヴィアンを見た。
「ヴィヴィが魅力的なのは知っているが、まさか彼に何かしたのかい?でなければ婚約破棄するほど思い詰めたりしないだろう?」
「いいえ、知らないわ!お願い、信じて!」
「本当に?だったらなんで!あー、心配でヴィヴィから離れられないよ。目を離した隙に、誰かに奪われそうだ。愛してるよ、ヴィヴィ。私を捨てないでおくれ」
アスベルはヴィヴィアンを抱きしめながら呟いた。
「食堂の男は二年のケイン・グラナダ伯爵令息、中庭の男はサミュエル・ウィストン侯爵令息だ。
本当に心当たりはないのかい?」
「もちろんよ!だって、私にはアスベル様がいるのに」
「だったらなぜ?」
その時昼の授業の予鈴が鳴り、二人は慌てて教室に戻った。
そして放課後。帰ろうと馬車止めに向かって歩いていた時、後ろからまたしても婚約破棄の言葉が聞こえてきた。振り返れば一組のカップルが揉めていた。
「フローラ・アガサ、お前とは婚約を破棄をする!俺はもうこの思いに蓋をして、好きでもない人と一緒に過ごすことが出来ない。悪いが俺のことは諦めてくれ」
「ウォルフ様!どうして急にそんなことを仰るの?イヤです、イヤです!私は別れませんわ」
ヴィヴィアンは青ざめた顔で二人を見つめ、次に来るセリフに備えた。今までのパターンだと私の名前が出てくる気がする。
案の定、ウォルフはヴィヴィアンを見ると、駆け寄ってきて足元に跪き、流れる仕草でヴィヴィアンの手の甲にキスを落とした。
「ロイズ嬢、俺はウォルフ・カイザーだ。初めて貴女の声を聞いた時から愛してる。どうか俺の気持ちを受け入れてくれ」
「あの!な、な、何を、お、仰っているの?あ、貴方にこ、こ、声を掛けたことなんて、あ、あ、あったかしら?」
「ああ、貴女は忘れてしまったんですね。あの出会いを」
ウォルフは切なそうにヴィヴィアンを見上げた。その時、いきなり両肩を突き飛ばされて、ヴィヴィアンは尻餅をついた。
「貴女ね!私の婚約者に何をしたの?返してよ!私のウォルフ様を返して!」
「よせ!やめるんだ、フローラ。ロイズ嬢、俺が悪かった。貴女の姿を見つけて思わず言ってしまったんだ。でも愛しているのは本当の気持ちだ。また改めて申し込みに行くから待っていてくれ」
「離してよ、この悪女!人の男をよくも盗ったわね!覚えてらっしゃい!必ず復讐してやるわ」
フローラと呼ばれた女性は、ウォルフに引き摺られるように連れて行かれた。ヴィヴィアンは尻餅をついたまま、呆然とそれを見送った。
「いったい何だったのかしら?」
「大丈夫ですか?災難でしたね」
声と共に手が差し出された。ヴィヴィアンはありがたくその手を取って立ち上がった。ドレスの汚れを払おうと手を離しかけたら、ギュッと強く握られ、腰をかがめたクロードに、素早く手の甲にキスされた。
「あ、あの、すみません……離して下さい」
ヴィヴィアンは頰を赤く染めて狼狽えた。
「ロイズ嬢、初めまして。俺はクロード・デュークと申します。デューク侯爵家の嫡男です。どうぞお見知りおきを」
クロードは上目遣いにヴィヴィアンを見やり、ニコリと微笑んだ。そのままヴィヴィアンの手の感触を楽しむように弄びながら、手を握り続けている。
ヴィヴィアンはますます顔が火照るのを止められず、恥ずかしくて困ってしまった。必死に手を引こうとするが思った以上に力が強く、痛くはないのに手が離せない。
「あ……の、助けていただいてありがとうございます、デューク様。でも、どうか手をお離しになって」
「ロイズ嬢、どうか私の事はクロードとお呼び下さい。馬車置き場まで行かれるのでしたら、私がエスコートしますよ」
クロードは積極的で押しが強く、ヴィヴィアンには上手くあしらえないでいた。するとアスベルが走ってやってきた。
「その役目は婚約者である私のものですよ、デューク。その手を離していただきたい」
「あ、アスベル様!」
アスベルは手刀でクロードの手を叩いた。ヴィヴィアンはクロードが怯んだ隙に手を振り払い、アスベルの側に駆け寄った。アスベルはヴィヴィアンの腰をしっかりと抱えた。
「油断も隙もありませんね。ヴィヴィ、明日からは帰りは私が迎えに行くまで教室で待っていて下さい」
「ええ、わかりましたわ、アスベル様」
「では失礼しますよ。ああ、言い忘れていました。ヴィヴィにちょっかいを出すのはやめて貰えませんか?デューク。貴方は色んな女性と浮名を流す『恋の狩人』と二つ名のある方。初心なヴィヴィでは恋のお相手としては力不足ですよ。どうかそっとしておいて下さい」
「ああ、浮き名だなんて誤解ですよ。私の恋はどれも本気です。私はただ、最愛の人を探していただけですよ。でもとうとう見つけました。ロイズ嬢、貴女です。リシュルドには申し訳ないが、貴殿とは結婚したわけではない。私にもまだチャンスはあるということです」
「何を!」
「私は本気ですよ。どんな手を使っても私の側にいて欲しいと思ってるんですから」
「残念ですが、私は誰にもヴィヴィを渡すつもりはありませんよ。では、失礼」
アスベルはクロードを牽制するようにヴィヴィアンのこめかみにキスをしてから会釈をした。
ヴィヴィアンは真っ赤になりながらも淑女の礼をしようとするが、腰を抱かれたままではうまく出来ず、みっともないことになってしまった。それでもアスベルはヴィヴィアンの腰に回した手を解くことはしなかった。
この騒動は翌日も続いた。
ヴィヴィアンが図書館で本を探している時にまたしても婚約破棄騒動が始まったのだ。
「貴方とは婚約を解消いたしますわ。後ほど男爵家に書類をお送りしますので確認なさって下さいな!」
「な、何故だ」
「私、目覚めたのですわ。心よりお慕いする方が出来たのです。ああ、ヴィヴィアン様、私のお姉様」
「な、おねえさま?」
「ええ、貴方みたいな腑抜けが婚約者だなんてイヤですわ。私のお姉様みたいに凛とした方でないと」
「あら、お待ちになって!ヴィヴィアン様は私の可愛い子猫ちゃんですわ。どなたにも渡しませんことよ」
もう一人増えた。
「あら、マリア・ハミルトン様ではありませんか。貴女もヴィヴィアン様の魅力にハマりましたのね。同士ですわ!」
「そういう貴女こそ婚約破棄だなんて思い切ったことをなさるのね。サラ・レイフォード様」
「ささ、ヴィヴィアン様、男共なんて放っておいて、私たちと友情を深めましょう」
マリアがエスコートするようにヴィヴィアンの手を取り、窓辺の席へと誘った。いったい何が起こっているのかしら?
三人で席に着くと、早速サラが自己紹介をした。ついでマリアも。マリアは三年の中でも才色兼備で有名な令嬢で、男女ともにファンが多くいる人だ。サラは私と同じ一年生だが、家が騎士を多く輩出する子爵家の一員で、女性ながら剣の腕が立ち、凛々しくてとても格好良い。二人共、お姉様として密かに女生徒からの人気も高い。
「ああ、私お礼を言いたかったのですわ、可愛い子猫ちゃん。私たち貴女に救われましたのよ。あの時の貴女のお姿といったら、まるで女神様でしたわ!一目ですっかり骨抜きにされてしまいましたのよ」
マリアはボリュームのある胸の前で両手を組むと、頰を赤く染めてうっとりと夢見るような顔でヴィヴィアンを見つめた。その隣でサラもうっとりとした顔で大きく頷いた。
「ロイズ嬢、いや、ヴィヴィアン嬢と呼ばせて頂きますね。我々は貴女に助けられたんです。覚えておいでですか?ひと月前の雨の放課後、旧校舎であった出来事を。ここに集った者たちは皆、その時貴女に恋をしたんですよ」
いつのまにかクロードが書架に背を預けて立っていた。
「恋の前では皆無力です。ここにいる者は、貴女という花に魅せられた蝶、光に吸い寄せられた羽虫と同じ。恋の炎に焼かれたいと願う者ばかりです。ヴィヴィアン嬢、私は貴女の僕です。どうか私の手をお取り下さい」
クロードはヴィヴィアンに近づくと流れるような仕草で膝をついた。そして掬うようにヴィヴィアンの手を取り、ちゅっと音を立てて手の甲にキスをした。
「あっ、ずるいぞ、デューク。俺にも手にキスをする許可を」「私にも!」「もちろん俺もだ」
「お姉様、私にはハグする許可を!」「あらサラ様大胆な!では私には頰にキスして抱きしめる許可を下さいな、私の可愛い子猫ちゃん」
皆おかしくなってる。
ヴィヴィアンは目の前がクラクラしたが、ここで倒れたらその後どうなるかわからないと思い、必死で意識を繋ぎ止めた。そして無駄な抵抗を試みる。
「あの、申し訳ありませんが、皆様の仰っている意味がわかりませんわ。もしやお人違いではありませんか?」
「貴女を間違えるはずがないでしょう!」
皆が声を揃えて叫んだ。
ここは図書館です。できれば静かにして欲しいです。
ヴィヴィアンを本格的な眩暈が襲った。
♢♢♢♢
ヴィヴィアンはロイズ伯爵家の第一子。六歳年下に弟がいる、ごく普通の令嬢だ。
ただ他の令嬢と違うのは、幼い頃から他の人には見えないものが見える。いわゆる幽霊が。
幼い頃、初めて両親に話した時は主治医を呼ばれ、診察された苦い過去がある。そして虚言癖のある変わった子供だと言われた事で、ヴィヴィアンは自然と何も言わなくなった。
だが婚約者であるアスベルにだけは、幼い頃にバレてしまったのだ。ただアスベルはバカにせず、気味悪がりもせず、そのままのヴィヴィアンを受け入れてくれた。
幼い頃のヴィヴィアンにとって、アスベルは家族より安心して自分をさらけ出せる相手になった。
ヴィヴィアンは、今までに何度も人と間違えて幽霊に話しかけるという失態を繰り返したことで、自分から人に声をかけるのが苦手になった。そのせいで友人も少なく、入学してからは静かな学園生活を送っていた、はずだった。
「ヴィヴィ、ここにいたんだね?なんとなく図書館にいる気がしたが当たりだったね。今日の放課後は私と共に過ごす約束だったろう?迎えに来たよ」
アスベルはヴィヴィアンを取り囲んで跪く令息たちを見て、ギョッとして立ち止まった。
「いったい何があったんだい?」
アスベルは慌ててヴィヴィアンを立ち上がらせて腰を抱くと、厳しい顔で一同を睨んだ。
「ヴィヴィを困らせるのはやめて欲しいですね。ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私はアスベル・リシュルド。リシュルド侯爵家の嫡男で、ここにいるヴィヴィアン・ロイズ嬢のこ、ん、や、く、者です。どうぞお見知り置きを」
婚約者を強調して自己紹介をしたアスベルに、皆一様に顔を顰めて睨んだ。マリアが取り繕うように扇子を開き鷹揚に答えた。
「ええ、知ってましてよ、アスベル様。なんといっても学園のアイドルですもの。お名前で呼ぶのを許して下さいね。こんな形で知り合うなんて思いもしませんでしたわ。それではまた改めて。ヴィヴィアン様、近いうちに我が家へご招待致しますわ。ぜひいらして下さいね!」
「ヴィヴィアン嬢、色良い返事を期待していますよ。私はいつでも、大歓迎で貴女をお迎えしますよ」
「デューク、しつこい男性は嫌われますよ」
「それならリシュルド、嫉妬深い男も嫌われますよ」
「くっ!」
アスベルは会釈もせず、ヴィヴィアンの腰を抱いたまま踵を返して図書館を出た。
「アスベル様、お待ち下さい。皆様にご挨拶がまだ」
「そんなものいりません。さあ、帰りますよ」
アスベルは引き攣った顔で馬車置き場に向け足早に歩いた。
馬車に乗り込むとすぐに、少し怒った口調でヴィヴィアンを問い詰めた。
「ヴィヴィ、ハミルトン嬢、レイフォード嬢とは交流なんてなかったろ?なんで一緒にいたんだ?」
「アスベル様、言葉が乱れてますよ」
「二人の時くらいいいだろ?で、な、ん、で、この間からヴィヴィにちょっかいをかけてくる婚約破棄者が、あの場に勢揃いしてたんだ?しかも皆んな跪いて、まるでプロポーズするみたいに!そういや図書館に行く途中でダミアンとすれ違ったが、泣いてたぞ」
「ええ?サラ様の婚約者様かしら?その、その方でしたら、サラ様に婚約破棄されたんですわ」
「また婚約破棄…?いったいヴィヴィの周りで何が起こってるんだ?」
「あの、それに関して思い当たることがありましたの。デューク様の言葉で合点がいきましたわ」
「ああ、ならヴィヴィを送って行くついでに、君の家で詳しく聞かせてくれるかい?」
「ええ。ではお庭でお茶でも飲みながらお話ししますわ」
♢♢♢♢
ロイズ家に着くと、アスベルはロイズ夫人に挨拶をし、ヴィヴィと庭の四阿に向かった。
ロイズ家の庭も季節の花があちこちで咲き、明るく華やかな雰囲気だ。桜の木陰にお茶の用意がされ、二人きりになると、早速話をするようにとアスベルにせっつかれた。
「実は……アスベル様は、今学園内で交霊会が密かに流行っているのをご存知ですか?学園側は禁止してるんですが、禁止されればやりたくなるみたいですね。ひと月程前のある雨の放課後、旧校舎の図書館で、数組のカップルが交霊会を行ってたんです」
「交霊会を?危ないんじゃないのか?」
「ええ。晴れた日ならまだしも、雨の日の午後はただでさえ憂鬱になりやすく、悪い霊も普段より引き込まれやすいんです。本当はやらない方がいいんですよ、そんな日は」
「それで、その日はなんだか学園内の雰囲気がザワザワしてて、いつもなら数体の霊がその辺をフワフワと漂っているのを見かけるのに、なぜか一体もいなくって。胸騒ぎがして、影が濃くなっている旧校舎に向かったら、新校舎にいなかった霊たちが何かに引き寄せられるように集まってたんです」
「それで?」
「旧校舎に足を踏み入れた途端、重くてまとわりつくような、まるで水の中を歩いているような感覚に囚われたんです。その上たくさんの霊たちの思念…といっても感情の波のようなものですが…それが頭に響いてきて最悪の状態でした。その中を図書館の方に進んだんです。霊もそっちに向かってましたから」
「なんか、怪談みたいだね」
「リアル怪談話ですよ。今思い出しても冷や汗が出ますから。図書館の扉は霊たちが重なり合ってて、ドアノブが見えなくなるくらいでした。中からはラップ音や家具が倒れる音、男女の悲鳴が聞こえてきて、その度に扉に取り憑いてる霊がざわざわと揺れるんです」
「なんだか想像するだけで恐ろしいね」
「見えない人が羨ましいですわ。それで私、正体がバレたくないんで、髪を結びハンカチで顔を覆って、持っていた雨具を頭からスッポリと被った格好でそっと扉を開けたんです」
「部屋の中は真っ暗で、真ん中に置いてあったテーブルの上に蝋燭と文字盤が置かれてましたわ。まさに交霊術の真っ最中だったみたいです」
「文字盤に覆い被さるように霊がいたんですが、形が取れずに霞のようにゆらゆらと揺れてましたの。その部分だけが闇を溶かしたように真っ黒で、文字盤が霞んでよく見えませんでしたわ」
「ものすごく邪悪な感じでした。見ているだけで肌が泡立つようで全身から冷や汗が出るんですの。気を抜くと膝がガクガク震えて……。悪い霊だと思いましたわ。それも今まで遭遇したどの霊よりも桁違いのエネルギーの!」
その時のことを思い出して、ヴィヴィアンは身震いした。
文字盤の上に覆い被さるように浮かんでいた、あれは、悪意の塊だった。邪悪でおぞましい、得体の知れないもの。
あの部屋に集まった霊たちもあれには近づけず、遠巻きに円を描いて漂うだけだった。不用意に近づきすぎた一体が、スウッとあれに取り込まれた。また一体が。また。
取り込むごとに闇が濃くなっていき、その度に霊がざわざわと揺れる。
おぞましい光景だった。あれの昏く虚ろな目が私を捉えた時、瞳の奥で火花が散ったように一瞬輝いた。
来る!と思って身構えたが、文字盤の上から離れることができないようだった。
良かった。一応縛られてはいるのね、と安堵した。
「いやー!怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い」」
「た、助けて!お願いします、誰か!」
「くそっ!何が起きてるんだ?」
「おい、何なんだ、あの黒い塊は!」
「何が見えてる?俺には何も見えない」
「お願い、誰か助けて!いやよ、まだ死にたくない」
「ごめんなさい、許して!死にたくない、死にたくないわ」
「怖い、怖い怖い怖い怖い怖い」
その場にいた一人の女性が叫び声をあげて失神した。それでも皆身動き一つせずにいた。まるで少しでも動くとあれに襲われるとでも思っているみたいだった。皆文字盤から目を逸らせず、ただじっと蹲っている。
パシッ、パシッ!ラップ音が鳴る。
「キャー!怖い怖い怖い怖い怖い、助けてー!」
「何か光ってるものがこっちに来る!いやー」
「何が、誰か助けてくれ!」
あれが震えると書架の一つが浮いた。そして伸び上がって捩れると書架が勢いよく私に向かって飛んできた。慌てて避けると、私の背後で書架同士がぶつかり合う音が聞こえた。
あれが次々と書架を投げつけてくる。その度に避けるが気が抜けない。室内はパニック状態になり、女性の金切声が耳をつんざいた。
「大丈夫ですから、落ち着いて下さいませ」
凛とした声が辺りに響いた。あら、思ったより響いたわ。
皆の動きが止まった。固唾を呑んでこの状況を見守っている。私は努めてにっこりと笑った。
「皆さま、学園内で交霊会が密かに流行っているようですが、面白半分でされるのはお勧めしませんわ。でもせっかくですから続きをいたしましょう」
皆の息を呑む音が聞こえた、気がした。
あれがゆらりと上体を揺らす。
「ねえ、そこの文字盤上の貴方?貴方のお名前を教えて下さいな」
文字盤上のコインがゆっくりと文字をなぞった。
「death」
「死神?」
文字を読み上げた瞬間、黒くぼんやりとしていたあれが、大鎌を背負った死神の姿になった。両手を大きく広げると、ローブが闇と同化した暗さでゆらゆらと揺らめいた。
「あらまあ、死神、ですか。かなりの大物ですね。さて、死神さん。お帰り願いたいのですが」
「give me your soul」
「……ですよねぇ。でもそれ以外でお願いします」
「no」
「やはりダメ、ですか。仕方がないですね。すみません、どなたか死んでもいいと仰る方は」
皆は大慌てで首を横に振った。何度も何度も。
「……そりゃあ、いませんよね。皆さま、これに懲りて、今後、交霊会はおやめ下さいね」
今度は大きく頷いた。何度も何度も、首が取れそうなくらい。
「お願いしますね。では、参ります」
私はゆっくりと死神に向かって歩いた。死神はゆらりと揺れながら、背中の大鎌を手に取り、ゆらゆらと揺れながらそれを構えた。
誰もが身動きもせず、静かにヴィヴィアンの一挙手一投足を見守っている。
「帰っていただくには供物が必要ですね。この会の主催者はどなたかしら?供物はご用意なさってるのかしら?」
「あ、の、鼠を用意してます」
か細い女性の声が静かな闇の中で響いた。
「そう。それはどこに?」
「あ、あそこのテーブルに」
「上手くいけばいいけれど」
ヴィヴィアンは女性の指差す方へ行き、鼠の入った鼠取りの籠を手に持つと、文字盤があるテーブルの上にそれを置いた。そして数歩下がって、死神と対峙した。
「もう一度お願いしますわ。どうぞお帰りくださいな。供物は鼠です。いかが?」
「insufficient(足りない)」
「やはり足りませんか。仕方がないですね。どなたかナイフをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」
「あの、私が…でも何に…」
女性が一人、震える手でナイフを差し出した。
「ありがとうございます」
ヴィヴィアンは結えていた髪を解いて一房手に取ると、一気に切った。そしてそれを籠の横に置いた。
「私の生命力を少し差し上げますわ。では、あちらからお帰りになって!」
ヴィヴィアンは入ってきた時に開いたままにしておいた扉を指した。
死神は一際大きく揺れたかと思うと、手にしていた大鎌を水平に薙ぎ払った。その途端鼠の体が光りだし、次の瞬間、目が開けていられない程の光が部屋中に飛び散った。そして鼠は動きを止め、籠の中でパタンと倒れた。金髪は輝きを失い白く色を変えた。
死神はスーッと開かれた扉をくぐり消えた。その場にいた霊たちも引っ張られるように、次々と扉をくぐって出て行った。
皆放心したようにその場に座り込み、死神が出て行った扉を呆然と眺めていた。
「と、いうことがあったんです」
「そ、そんな危ない所になんで入ったんだ?巻き込まれたらどうするんだ!」
「フフ、心配してくれてありがとうございます。でも私は大丈夫です。なんでかわからないんですが、霊は私に手出しできないみたいなんです」
「いつもそうと限らないだろ。これからは危険なことには首を突っ込まないでくれ!」
「ええ、善処しますわ。それでね、死神が去った後、私も急いでその場を離れたんです。扉を出ようとした時にちょっと振り返ったんですけど、その瞬間パーッと光が差したんですの。雨雲が切れて日が出ただけだったのに、タイミングが良かったんですのね。そのシルエットで女神って言われてると思うんですが、本当に大袈裟で恥ずかしいわ。でも逆光で顔は見えなかったはずなのに、マリア様もサラ様も、なぜ私だってわかったのかしら?」
「それはわからないけれど、どうしてそこから婚約破棄に繋がるんだ?」
「それはわからないわ。でも、その時のメンバーが、婚約破棄してるみたいなんですの」
「はあ、もしかしてと思うけど、あれだな?いや、もしかしなくてもきっとあれだ!『吊橋効果』っていう、あれじゃないか?」
「まああ、『吊橋効果』ですか?そうかもしれないわ。だって、とっても怖かったんですもの。それはもう史上最悪なくらいに。だったら極端に走っても仕方がない、ですよね?」
「仕方がないかもしれないが。とにかく、誰に迫られても勝手に返事をしてはいけないよ。必ず私に相談してくれ。いいね」
「ええ、わかりましたわ」
「愛してるよ、ヴィヴィ。初めて会った時からずっと。誰よりも。だからお願いだ、私から離れないで」
アスベルは思い詰めた様子でヴィヴィアンを見つめた。
♢♢♢♢
そして学園では、ヴィヴィアンを巻き込んでの婚約破棄騒動の噂が、あっという間に駆け巡った。目撃者が多かったため、ヴィヴィアンは言い訳も説明も出来なかった。
そして連日のように、ヴィヴィアンの元には交際を迫る令息がやって来るようになった。
それに伴い彼らの婚約者たちから嫌がらせを受けるようになり、それに便乗したアスベルのファンからの嫌がらせも増えたのだ。
——————そしてこの話の冒頭に戻る。
三人の女生徒に空き教室に呼び出され、アスベルに近づくなと突き飛ばされ、私は悪女?なんて明後日の方向に解釈をしていると、急にラップ音がした。
パシッ!パシッ!
「な、何ですの?何か音がしましたわ!」
廊下側の窓が突然ガラガラッと開いた。だけどそこには誰もいない。
「誰ですの?」
私には学園内を漂っている霊たちが見える。そのうちの一人が面白がって窓を開け、こちらに顔を出したのだ。でも三人には見えなかったようで、物理的に開いた窓を見て青褪めガタガタと震えている。
「あーあ。なんだか学園の霊たちはあれからそわそわと落ち着きがないのよね。それに人も霊も私の周りが騒がしくって、とても疲れちゃうわ」
ヴィヴィアンは呟きながら立ち上がると、制服の汚れをパンパンと手で払った。
「そろそろ失礼してもよろしいかしら?」
女生徒に笑顔を向けて扉の方へ向かう。三人も慌ててヴィヴィアンの後に続いた。
「ちょ、ちょっとお待ちになって!こんな気味の悪い所に置いて行かないで頂戴!」
「そういえば貴女、悪女の他にオカルト令嬢って呼ばれてるんでしたわね。おお、怖い!これは貴女のせいなの?」
「さあ、どうでしょうか?私は何もしておりませんが?」
「ああ、もう!貴女も気味が悪いですわ。先ほど申し上げたこと、お忘れにならないで!よろしいですわね」
女生徒たちはヴィヴィアンの前からバタバタと走り去った。取り残されたヴィヴィアンは廊下に置いてあるベンチに腰掛けて物思いに耽った。
「フウ。全く嫌になっちゃう。大人しく目立たなく過ごすつもりだったのに。何でこんな事に……って元凶はあの交霊会よね。あーあ、なんで首を突っ込んじゃったのかしらね?失敗したわ!でも、なんであんな高位の霊が降りたのかしら?」
「怪しいのはあの文字盤よね」
そう結論づけて顔を上げると、目の前をふわりふわりと霊が流れていた。そう、霊は普段、あの時みたいに集まって同じ方向を向いたりしない。それぞれがそれぞれの次元にいるので、重なることもぶつかることもないはず。それなのにあの時は、同じ次元、同じ空間に、いたわよね。珍しい…というか初めて見たわ。
死神が他の霊達を巻き込んだのかしら?
「まあいいわ。とりあえず、あの時の主催者の方に会って話を聞いてみたいわ」
ヴィヴィアンは立ち上がると足早に教室に戻った。
♢♢♢♢
教室で待っていたアスベルにエスコートされて馬車置き場に向かう。その途中、マリアとサラがヴィヴィアンを待っていた。
「ヴィヴィアン様、ご機嫌よう。手紙は読んで下さいまして?今日の放課後、我が家にご招待申し上げたいと、昨日お誘いの手紙をお渡ししたと思うのですが?」
「あら、そうでしたわ!私ったらすっかり抜けてしまって。申し訳ありませんわ、マリア様」
ヴィヴィアンは眉を下げて謝った。女生徒に絡まれて、うっかり手紙の事を失念してしまっていたのだ。
「アスベル様、申し訳ありませんが、私、今日はサラ様と一緒にマリア様のお屋敷に伺いますわ」
「私も行ってはダメかい?」
マリアは大袈裟に驚き、とんでもないという風に答えた。
「まああ!今日は女子会ですのよ。ご婚約者のアスベル様といえどもご遠慮願いますわ」
「ねぇ!さあさあ、お姉様、参りましょう」
「それではアスベル様、ご機嫌よう!」「ご機嫌よう」
サラとマリアはアスベルに礼をすると、にっこりと頷きあいヴィヴィアンに手を差し出した。
ヴィヴィアンが二人の手を取ると、ヴィヴィアンを真ん中にして、二人と手を繋いで馬車置き場まで歩いた。
「ねえ、ヴィヴィアン様、ヴィヴィとお呼びしてもよろしくって?私のことはマリアと呼んで下さいね。もっともっと仲良くなりたいんですの」
「あ、マリア様ったら狡いです!私も仲良くなりたいのに。お姉様、私のことはサラとお呼び下さいね」
「ふふ、わかりました、マリア。私のことはヴィヴィとお呼び下さい。サラ、私と貴女は同い年なんですよ。お姉様はおかしくないですか?できればヴィヴィと呼んで下さい」
「いいえ、私はお姉様とお呼びしたいんです、お姉様と!」
ハミルトン家に向かう馬車の中で、三人の仲はグッと近くなった。ヴィヴィアンは交霊会の話をして二人を怖がらせたくなかったが、やはり気になり、主催者が誰か教えて欲しいと頼んだ。
「ああ、それでしたらフローラ・アガサ子爵令嬢ですわ。ウォルフ様の婚約者の。私、彼女に誘われて参加しましたのよ。彼女がどうかしまして?」
「私も婚約者が声をかけられたんです。面白そうだと思って参加したんですが、あんな怖い目に遭うなんて思いもしませんでしたわ、本当に」
「そうだったんですね。実はあの時使っていた文字盤をどこで手に入れたのかお聞きしたいんですの」
「でしたら、彼女も今日のお茶会に呼びましょうか?彼女の家とは家族ぐるみのお付き合いで、私とは幼馴染なんですのよ」
「そうして頂けたらありがたいですわ。私一人ではきっとお話しして頂けないと思うので」
ハミルトン家に着くとすぐに手紙を認め、それをフローラに渡して欲しいと執事に頼んだ。そして彼女が来るまでの間、三人でお喋りを楽しみながら、侯爵家の美味しいお茶やお菓子を堪能した。
「マリア、私に何の御用ですの?」
フローラはヴィヴィアンに気がつくと、顔を歪めて憎々しげに睨んだ。そして引き攣った顔をしてマリアとサラを交互に見やった。
「いらっしゃい、フローラ。今日は聞きたいことがあって来てもらったの。急にごめんなさいね」
「いいえ、構いませんわ。それより、どうして?私が一番会いたくないロイズ様がいらっしゃるのかしら?私の婚約者を奪った相手だと、マリアは知ってますよね」
「ええ、知っているわ。でもねフローラ。フローラは気づいていないのかしら?あの交霊会で私たちを助けてくれたのは、ここにいるヴィヴィなのよ」
「そうよ、フローラ様。私もマリア様も、あの時お姉様に魅了されてしまったの。本当に女神も斯くやというくらい素敵だったわよねぇ」
サラは目を輝かせてうっとりとヴィヴィアンを見つめた。
マリア達の話で、フローラは自分が主催した会で死人が出るかもと恐怖したあの時間を思い出した。
そしてあの時、扉を開けて凛と佇む彼女を女神と感じ、感謝の祈りを捧げたいと思ったことも。
でもウォルフ様が別れたいと言うのは彼女のせいで。でもその状況を作ったのは他でもない自分。でもでもでもでもでもでもでもでも。フローラの思考は止まらない。
「フローラ、大丈夫?」
「あ、ああ、マリア様。ええ、大丈夫です。それで、ロイズ嬢は私に何をお聞きになりたいんですの?」
フローラは思考の迷路に迷い込んたが、無理矢理考えるのを止めた。思考と気持ちがチグハグで心がバラバラになりそうだった。ちゃんと整理しなくちゃダメね。
「まずはお茶でもいかが?お座りになって」
マリアの言葉にフローラは素直に頷き、皆でお茶を飲んで一息ついた。
「アガサ様、私がお聞きしたいのは、あの文字盤の
出所です。どこで手に入れられたのですか?」
「旧校舎の図書館です。司書室の棚の上に何気なく置かれていました。私が主催した交霊会はあれが初めてです。主催しようと思ったことはありませんでしたが、あの文字盤を手に取った時に、どうしても使いたくなったんです。それで知人に声をかけて集まって貰いました」
「その、見つけた時にあれに関するメモや資料はありませんでしたか?」
「ええ、特にはなかったと思います」
「ねえ、ヴィヴィ、私の可愛い子猫ちゃん。何か危ない事でも考えているんじゃなくって?」
「いいえ。どうしてあの時、あんな高位の霊が降りたのか不思議なんです。大抵はもっと低級の、例えば動物の霊なんかが降りるはずなんですが。教えて頂きありがとうございます」
「お姉様、危ないことはなさらないでね。もしお姉様に何かあったら、私、死んでしまうわ」
「私もよ、子猫ちゃん。私達を死なせたくなかったら、くれぐれも自重してね」
「はい。マリア、サラ、善処しますね」
そうして、その後は思ったより和やかに、たわいのないお喋りをして、ハミルトン家でのお茶会は幕を閉じた。
♢♢♢♢
翌日は朝から小雨が降っていた。昨日のことを知りたがったアスベルが、朝からヴィヴィアンを迎えに来た。
「昨日は一緒に帰れなくて残念だったよ。それでお茶会は楽しかった?」
「ええ。フローラ・アガサ様もお呼びして、四人でお話をしたわ」
「え?アガサ嬢が?大丈夫だったのかい?」
「ええ。アガサ様はまだ悩まれてると思うけど、マリア様のおかげでとりあえずは大丈夫だったわ。あのね、アガサ様には、文字盤についてお聞きしたかったの。死神が呼び出されたのは文字盤が原因じゃないかって思ったから。あの会の主催者はアガサ様だったのよ」
「そう。それでヴィヴィはその文字盤を探しに行くんだね」
「ええ、そのつもりよ」
「危ないからやめろと言っても行くんだろう?」
「ええ」
アスベルはヴィヴィアンの決意のこもった眼差しを見つめた。そこには普段には見られない頑固な一面が窺えた。
(ヴィヴィは普段はおっとりしているけど、何かを決めたら梃子でも動かないくらい頑なになるんだよね、昔から。)
アスベルはため息を吐いた。
「仕方ないね。じゃあ私も一緒に行くよ。ヴィヴィ、一人で無茶をしないって約束してくれる?」
「ええ、約束するわ」
「じゃあ、今日の放課後、教室に迎えに行くよ」
終業のベルが鳴り、帰り支度をしているとクロードが教室にやって来た。
「やあ、ヴィヴィアン嬢、ご機嫌よう。今日は一段と美しいね。君の隣でずっと見つめていたいよ」
「まあデューク様、恐れ入りますわ」
ヴィヴィアンはポッと頬を染めた。
(さすがデューク様。息を吸うように褒めるなんて、いたたまれないわ。油断してたら真っ赤になってしまう!)
「貴女にはクロードと呼んで欲しいな。カイザーから聞いたが、あの時の文字盤に興味があるんだって?」
「おっ!ヴィヴィアン嬢、まだ教室にいたんだな。デューク、お前、また抜け駆けしたな。俺が教えた情報だろう?俺に譲れよ!」
「まあ!!カイザー様!」
「ヴィヴィアン嬢、旧校舎に行くんだろう?どうか俺に守らせてくれ!」
「まあ、カイザー様。お気持ちはありがたいのですが、アスベル様と参りますので大丈夫ですわ」
「カイザーだなんて他人行儀な!ぜひウォルフと呼んでくれ。それにしてもリシュルドだけじゃあ心配だな。学年で剣術が一番なのは俺だ。俺がついて行こう」
「それでしたら私も学園で5本の指には入りますよ。私がご一緒しましょう」
「いや、俺一人で大丈夫だ。デュークは引っ込んでろ」
「いや、カイザーこそフローラ嬢を大切にされたらいいよ」
「フローラとは婚約破棄をしたんだ」
「まだ正式にはされてないだろう?君がヴィヴィアン嬢の周りをうろつくと、ヴィヴィアン嬢の名誉に傷がつく」
「うっ!それを言われると辛いが、俺は一歩も引かないぞ!」
「あの、お二人ともありがとうございます。ですが、剣が必要なことにはならないと思うので結構ですわ」
なるべく丁寧にお断りしていると、クロードたちとの間に誰かがサッと割り込んだ。その人の影で、ヴィヴィアンは一瞬目の前が暗くなった。
「私の可愛い子猫ちゃんに近づかないでちょうだいな」
「マリア様!」
マリアは扇子をバサッと広げると高らかに笑った。
「オーッホッホッホッホ!貴方たちだけにいい思いはさせられませんわ!ヴィヴィが行く所には私もついて参りますわよ」
「もちろん、私も忘れないでよね!お、ね、え、さ、ま!」
マリアの後ろからピョコッと顔を出したのはサラ。
背が高く、ストレートの銀髪を一つに結び、剣を持たせると男顔負けに強い。キリッとかっこいいはずが、ちょっとかまってちゃんを思わせる甘えんぼキャラに、なってない?
マリアも才色兼備と評判の素敵なお姉様なのに、なぜか発言が百合っぽい姉御キャラ?しかも悪役令嬢のような笑い方。
なんだか、二人のキャラがどんどん崩れていってるような気がするのは、気のせいかしら?
「貴女たち、いつのまに愛称呼びを!お願いです。私もヴィヴィとお呼びする許可を!」
「俺もヴィヴィと呼びたい。いいだろう?」
「貴方がたはダメに決まってるじゃありませんか!私たちは友情を深く強く結んだからいいんですのよ!」
「そうよ、そうよ!私たちとっても仲良しなんだからね」
「何をしているんだい?」
男女四人でわいわいギャーギャーしているところに、慌てて駆け寄って来たのはアスベルだった。駆け寄るなり当たり前のように私の腰を抱いた。
「私のヴィヴィに何か用かい?」
「まだ完全にお前のじゃないだろう」
「あら、そんな言い方は頂けないですわね。ヴィヴィは物ではなくてよ。それに貴方だけのものでもなくってよ!」
「いや、ヴィヴィは私だけのものですよ。ね、ヴィヴィ」
「あの、先程から色々と突っ込みたくて仕方がなかったんですが、とりあえず、私は誰のものでもありませんわ」
「ヴィヴィ!なんてことを言うんだ!」
アスベルは蒼白になり、この世の終わりのような顔をして、腰から手を離すと、片手で両目を覆い天を仰いだ。そして絶望に打ちひしがれた声でブツブツと何かを呟いている。
「そら見なさい!私の言った通りでしょう!」
マリアは鼻高々にツンと顎を上げ、扇子でパタパタと煽いでいる。
「お二人ともおやめ下さいませ。そんなことより、少しでも早く旧校舎に行きたいんですが」
「そうですね。あんなうるさい奴らは放っておいて、さっさと行きましょう。私がエスコートしますよ」
クロードはサッとヴィヴィアンの手を取って歩き出した。
「あ、待てよ。俺がエスコートしようと思ってたんだ!」
「お待ちになって!子猫ちゃん!」
「お姉様、待って下さい!」
皆がそれぞれに慌ててヴィヴィアンの後を追うが、アスベルだけは天を仰いで固まったまま動けずにいた。
小雨が降る中、アスベルを置いてヴィヴィアンはやっと旧校舎へと向かう事が出来てホッとした。
固まっていたアスベルがハッと気づいた時には、一行はすでに旧校舎の玄関の扉を開けて入っていく所だった。
旧校舎の中は薄暗くひんやりとしていて、ひと月前の交霊会を思い出させた。
その中を五人は身を寄せ合って進んだ。図書館の扉の前に着くと、ウォルフが進み出てそっと扉を開けた。
室内は交霊会の時に死神とやり合ったそのままに、書架や椅子、本が散乱した状態だった。ただあの時のような不気味さもなく、忘れられた知識の塔として静かに佇んでいた。
ヴィヴィアンはクロードの手を離すと、スタスタと室内に入っていった。
「ヴィヴィアン、待て!」
ウォルフが慌ててヴィヴィアンの後を追う。他の三人は死神の恐怖を思い出して、入り口付近で立ち尽くしていた。
ウォルフは辺りに目を光らせ、危険がないかを確認している。ヴィヴィアンは気にせず窓際まで行くと、カーテンを次々と開けていった。少しでも明るくなると不気味な雰囲気が薄まり、散らかっただけの図書館になった。
「さて、と。あらまあ、こんなに散らかってたんですね。埃っぽいですし」
「あ、お姉様、大丈夫ですか?」
「ええ、怖いものは何もないわよ」
「ヴィヴィアン、お前は本当に勇気があるなぁ」
ウォルフはヴィヴィアンの手を取ると、感心したように微笑み、そのまま甲にキスをした。
「あ、よくも!カイザー、その手を離せ!」
遅れてやってきたアスベルが、入り口で固まっている三人を押しのけヴィヴィアンの元に駆け寄った。
「全く油断も隙もない!ヴィヴィも私の婚約者だという自覚と、異性に対してもう少し危機感を持ってくれ」
「そうね、善処しますわ」
ヴィヴィアンはにっこりと笑みをこぼすと、アスベルの腕に手を添えて文字盤の置いてあるテーブルに向かった。
アスベルはウォルフにキスされたヴィヴィアンの手を、ハンカチでゴシゴシと拭きながら、まだ言い足りないのかブツブツと呟いている。
「アスベル様、おやめになって。手が痛いです」
「あっ!すまない」
アスベルがパッと手を離したので、ヴィヴィアンはそのままテーブルの上にある文字盤を手に取った。
触った瞬間ピリッと電気が走ったが、不思議と手にしっくりと馴染む気がする。今は邪悪な感じはしないが、その分空っぽで心許ない。
「不思議だわ。ねえ、あなたはどこから来たの?」
問いかけても応えはない。
「司書室はどこかしら?」
ヴィヴィアンの問いに、恐怖から解放されたマリアがサラの手を引っ張ってテーブルにやって来た。それに釣られるようにクロードがマリアの後を追う。
「ヴィヴィ、こちらですよ。一緒に参りましょう」
マリアはヴィヴィアンの手を握り、書架の間を抜けて部屋の奥にある司書室へと向かった。その後をデュークが追い、その後をアスベルとウォルフが言い合いをしながら追いかけた。
貸し出しカウンターの奥に司書室があった。クロードが扉を開けて先に中に入る。室内は薄暗く、空気がヒヤリとして不気味な雰囲気がしたが、見た限りでは何もなく安全に見えた。
「ただの司書室ですね。大丈夫ですからどうぞお入り下さい、美しいレディーたち」
クロードが扉を開けたまま、笑顔で奥へと誘う。
「ありがとうございます、デューク様」
ヴィヴィアンは部屋の一点、司書の机を見据えたまま、一歩中に入った。
「どうしたの?ヴィヴィ。何かあるのか?」
アスベルがヴィヴィアンの視線を辿り、司書の机を見るが、やはり何も見えなかった。他のメンバーにも何も見えなかった。
「ええ、そうですね、取り立てて何も?」
ヴィヴィアンは言葉を続けた。
「それよりここには何もなさそうですね。そろそろ出ましょうか。皆さんも出て下さいな」
皆が出た後、ヴィヴィアンは一点を凝視しながら後ずさって扉から出た。バタンと扉が閉まると、ホッと息を吐いた。
♢♢♢♢
ヴィヴィアンは皆と別れ、アスベルと一緒に一旦リシュルド家の馬車に乗った。だが、走り出してすぐに忘れ物を取りに戻ると言って引き返して貰った。
「やっぱり何かいたんだね?ヴィヴィ」
「ええ。でも早いうちに取りに行きたくて……。アスベル様ごめんなさい。このまま一緒に来て下さいますか?」
「いいに決まってるだろ。灯りが必要だね。用意をするからちょっと待って」
アスベルは馬車に常備している荷物の中からランタンとランプと、マッチを出した。
「一人ずつ持つことにしよう」
二人でもう一度旧校舎に向かった。ランタンとランプに灯を灯して図書館に入り司書室を目指す。
「抜けがけとはいただけないな」
司書室の扉の前にクロードとウォルフが待ち構えていた。
「文字盤を忘れてるぜ、ヴィヴィアン」
「カイザー、私の婚約者を親しげに呼ばないでくれ」
「カイザーが呼び捨てなら、私もヴィヴィアンと呼ばせてもらおう。愛しい名だ。親しくなれたようで嬉しいよ」
クロードも胸に手をあて、慈しむように名を呼んだ。
ヴィヴィアンはクロードの様子にポッと頰を染めた。
(デューク様ったらストレートな仰り方で照れてしまうわ!)
「ダメに極まってるだろう、デューク!ヴィヴィもその反応は何なの?」
「正常な反応だよ。ね、ヴィヴィアン」
クロードが追い討ちをかけるようにヴィヴィアンに向けて微笑んだ。ヴィヴィアンの顔がみるみる赤くなる。
(改めて思うが、さすが恋の狩人の二つ名を持つデューク様!その微笑みは危険です!)
「コホン!」
ヴィヴィアンは一つ咳払いをすると、パタパタと手で扇ぎながら神妙な顔で三人を見た。
「私の名の呼び方はどうでもいいです。お好きに呼んで下さい。デューク様もカイザー様も、来てしまったからには仕方がありません。実は中にあんまり良くなさそうな霊がいるんです」
「やっぱり、そうだと思ったよ」
アスベルの呟きに他の二人も同意したように頷いた。
「たぶん、昔の司書の方だと思うんですが、どうも未練?か何かがあるようなんです。だからお話を聞きたくて戻ったんです」
「あっ!文字盤はどこに?」
「ここにあるぜ、ヴィヴィ!」
弾んだ声で愛称を呼んだウォルフが、サッと文字盤を差し出した。
「あら、ありがとうございます、カイザー様」
「あ、待て!どさくさに紛れて愛称を呼ぶな!」
アスベルの声が図書館の中にこだました。
「すみませんアスベル様、どうでもいいです。今は」
「でもヴィヴィ……」
尚も言い募るアスベルを、ヴィヴィアンはスルーする事にした。
「では、参ります」
ヴィヴィアンの言葉を合図にクロードが扉を開けた。アスベルが先頭で室内に入る。ヴィヴィアンは先程と同じように司書の机から目を離さずに、そっと机に近寄り文字盤とコインを置いた。そして交霊会と同じように黒い靄の中にいる女性に呼びかけた。
「貴女のお名前を教えて下さるかしら?」
コインが文字盤の上を滑るように移動する。ヴィヴィアンは見落とさないようにコインが差す文字を読んでいく。
「amelia」
「アメリア、ですね」
名を呼んだ途端に黒い靄が薄くなり、眼鏡をかけ、髪をきっちり纏めてアップにした、神経質そうな女性が司書机の椅子に腰掛けていた。
「司書の方ですか?」
「yes」
「何か仰りたいことがありますの?」
「yes」
そうしてアメリアの口から語られたのは、この学園で起きた痛ましい出来事、いや事件だった。
十五年前、アメリアが二年生の頃、学園で交霊術が流行った。学園に禁止されても密かに、生徒たちの間で交霊会が行われていた。中には交霊術に傾倒する令嬢もいた。そして悲劇は起きたのだ。
その令嬢が主催する交霊会で死者が出た。平民の女生徒だった。参加者は一様に口を噤み、結局ただの事故として扱われた。
アメリアはその時の参加者の一人で、死んだ平民は彼女の友人だった。あまり乗り気でなかった友人を誘うよう主催者の令嬢に言われ、断りきれずに連れて参加したのだ。
友人の名前はテアといった。そしてその時に使われたのがこの文字盤だった。呼び出されたのは死神、テアは供物にされたのだ。
テアの死は事故として処理されたが、アメリアは自分のしたことが許せなかった。なぜテアを連れて参加してしまったのか、なぜテアは死ななければいけなかったのか。
アメリアは学園を卒業して司書になり、事件があったこの図書室に勤務する事になった。そして図書室に残されていた文字盤を見つけ、調べていくうちに三十年前の悲劇を知った。
約三十年前、交霊術は社交界で大流行していたそうだ。社交界は学園の比でなく、傾倒する者が多く出、より力のある霊を降ろすことに貴族たちは力を注いでいった。
中には交霊術で政治や商売の方向性を決める人も現れ、社会は混迷を極めた。当時の王は危惧して交霊術を禁止にしたが、時すでに遅く、交霊術で命を落とす人も多く出た。
学園でも、交霊会は高位貴族の令嬢によって頻繁に開かれていた。よく交霊会を開いていた令嬢は、あの事故のあった日、両親の文字盤をこっそり持ち出して使ったのだ。だが降りた霊が強すぎた。
文字盤に縛られるのに抵抗し、暴れに暴れたが誰も制御が出来ず、暴走に任せた結果、一人が命を落としたのだ。
だが、その事実は揉み消され、参加者たちも口を噤み、事故として片付けられた。そして月日が経ち、事故があったことも風化していった。
アメリアがそのことを知った時、当時の参加者を探して話を聞こうとしたが、国の重鎮や政治の中枢にいる人がほとんどで、誰も答えてはくれなかった。
そうこうするうちに図書館の入っているこの旧校舎を取り壊す話が持ち上がり、アメリアも取り壊しと共に解雇されることが決まったのだ。
ただ取り壊しは上手く行かなかった。工事に入るたびに何らかの事故が起きては延期になり、ということを繰り返すうちに、死んだ令嬢たちの呪いではないかと実しやかに囁かれるようになった。
学園もその噂を無視できなくなり、一旦工事を中止することにしたが、そのまま現在まで放置されているのだ。
その後アメリアは流行病にかかり死んだが、文字盤のことが気になって、気がつけば図書館から動けなくなってしまったのだという。
机上に置いたランタンの火が、心許なく揺らめいた。かなりの時間が経ったのだろう。ヴィヴィアンは深いため息を吐いて、文字盤から目を離した。
「そろそろ帰らないといけませんね」
ヴィヴィアンの言葉に一同は深い夢から覚めたような気がした。アメリアの話は思った以上に長く複雑で、夢うつつのうちに、まるで自身が体験してきたようだった。
「アメリア、最後に言いたいことはありますか?」
「yes」
そうしてアメリアは、文字盤を処分して欲しいこと。二度と交霊会をしないで欲しいこと。そして、テアに会って謝りたいと話した。
「ええ、お約束しますわ。私が文字盤を処分します。そしてテアもお呼びしますわ」
ヴィヴィアンは司書室の扉を開け、さらに司書室に近い図書館の窓を開けた。外から湿った風が吹き込んだ。
そして静かな声で室内に向かって呼びかけた。
「テア、いらっしゃるのでしょう?テアに会いたい方がいるんですの。どうぞこちらに来て下さいな」
そしてヴィヴィアンは司書室に戻った。
スーッと文字盤の側にもう一体の女生徒の霊が現れた。ヴィヴィアンは彼女に話しかけた。
「テアですね」
コインがyesの文字をなぞった。文字盤の横に立つのは穏やかな表情をした、三つ編み姿の女生徒だった。
アメリアはテアの手を取って涙を流しながら揺らめいている。テアも嬉しそうにゆらゆらと揺れた。
テアはアメリアを恨んですらいなかった。それどころか心配していたのだろう。共に相手を気遣う優しさが二人からは滲み出ていた。二人は学生の時そのままに手を取り、そこから一つに溶けていくように、ゆらゆらと嬉しげに揺れていた。
「良かった。アメリア、テア、どうぞ自由になって下さい」
ヴィヴィアンの言葉に、二人は弾けたように一瞬広がり、手を繋いだまま楽しそうにゆらゆらと揺れた。そうしてゆらゆらと広がったり縮んだりしながら、窓から暗くなった空へと出て行った。
「ふう、疲れた」
ヴィヴィアンは長時間神経を集中させたことで、かなり体力を使ってしまった。霊が司書室から出た瞬間グラリとからだが傾いだ。慌ててクロードがヴィヴィアンを支える。
「ヴィヴィアン、大丈夫ですか?私が馬車までお運びしましょう。さあ、掴まってください」
「いや、俺が運ぶ!俺の方が力があるからな」
「何を言ってるんですか、カイザー。私が運ぶのに決まってるでしょう。デューク、ヴィヴィアンは私の婚約者ですよ。その手を離して下さい」
「仕方がないな、今日は君に譲るよ。では私は文字盤を運ぶとしよう」
「リシュルド、疲れたら俺が代わるから声をかけてくれ」
ウォルフがアスベルに言うが、そんな非力ではないから大丈夫ですよと、ヴィヴィアンをそっと抱き上げた。
ヴィヴィアンはよほど疲れたのか、大人しくアスベルの腕の中で目を瞑っている。
クロードとウォルフは悔しそうにアスベルを見ていたが、クロードが消えかけたランタンを持って足元を照らした。
「ヴィヴィが怪我をしてはいけませんからね」
「あ、お前まで愛称で呼ぶなんてダメだ!」
「ヴィヴィからの許可は先程頂きましたよ」
「くそっ!ヴィヴィの優しさに漬け込みやがって!」
「アスベル、ヴィヴィが起きる。静かにしろ」
ウォルフの言葉に、アスベルは顰めっ面をして黙った。
その日はかなり遅くなったので、そのまま別れてそれぞれの家に帰った。
♢♢♢♢
後日、文字盤を渡すことを理由にクロードから誘いを受けたヴィヴィアンは、アスベルを伴って会いに行った。
「ヴィヴィアン、貴女だけをお誘いしたつもりだったんですがね。いやはや全く無粋な人ですね、リシュルドは」
クロードはやれやれと肩を竦ませて二人を見た。
「無粋とは失礼な。学園で渡せばいいものを休日にわざわざ取りに来させるなんて、気が利かないではありませんか」
「ハハハ、休みの日まで忠犬のようにヴィヴィアンにひっついているとは!よほど私を警戒しているとみえますね。ということは、私にも一縷の望みがありそうですね」
「やめて下さい。そんなものは毛先程もありませんよ」
「デューク様、文字盤を持って来ていただきありがとうございます。いただいてもよろしいですか?」
「ああ、これは失礼しました。こんな所でいつまでもヴィヴィを立たせているなんて!さあ、こちらへ。お茶でも飲みながらあの時のことを教えて頂けませんか?お茶の用意をしてお待ちしていたんですよ」
「それに、今日ヴィヴィが来ることは内緒にしていたはずなのに、なぜか、カイザーも来てるんですよ。野生の勘だとか言ってね。二人きりの甘い時間を過ごすつもりが、とんだ邪魔が入りましたよ。ヴィヴィ、これに懲りず、花のような美しい貴女を愛でる時間を、どうか私に与えて下さいね」
ヴィヴィアンはクロードの言葉に一々赤くなる自分に嫌になるが、反応してしまうのを止める事ができなかった。
「まあ、デューク様!それはお約束出来かねますわ。でも、そうですね。同じ時間を共有したんですから、何があったのかお知りになりたいですよね。私にわかる事ならお答えしますわ」
「はあ、本当はこのまま帰りたいですが、ヴィヴィがそう言うなら仕方ありませんね。誘いをお受けしますよ」
そうしてクロードに案内されて、四人はデューク公爵家の美しい庭の四阿で、お茶会をすることになった。
「素晴らしいお庭ですね。花々が咲き乱れて、花のいい香りがしますね。風も気持ちがいいし、お茶も美味しくて。それにこのクランベリージャムとパンケーキはレシピを教えて欲しいくらいです!」
「やあ、ヴィヴィの美しさには、庭園の花々も霞んでしまいますよ。本当にいつでも側に置いて愛でていたい。それにパンケーキも気に入って貰えて良かった。これは我が家だけのレシピですのでお教えできませんが、ヴィヴィにならいつでもご用意しますよ。食べたくなったら声をかけて下さい」
「まあ、それは残念ですわ。家でも食べられたらと思ったんですが」
「フフ、それなら私の家に嫁いできませんか?いつでも好きな時に食べられますよ」
「デューク、厚かましいぞ!ヴィヴィ、俺の家にもぜひ来てくれ。美味しいものや珍しいものを揃えておくから」
「二人ともやめてくれ。ヴィヴィは私の婚約者だと何度も申し上げているはず。ヴィヴィはどこにも行きませんよ」
掛け合いを楽しんでいるようにしか見えない三人の会話に、ヴィヴィアンはクスリと笑みをこぼした。
「ヴィヴィ、何を笑ってるんですか?」
「フフ、ごめんなさい。三人がとても仲の良い友人同士に見えてしまって」
「やめてくれよ」
三人が一斉に顔を顰めた。
「でも、そうね。そろそろ先日の話をしましょうか?デューク様は何がお知りになりたいの?」
「そうですね。大体のことはあの時の話でわかったんですが、アメリア嬢の話は本当のことなんでしょうか?」
「デュークも旧校舎の話を聞いたことがあるだろう?幽霊が出るって話。本当にあったことじゃないか?」
クロードの質問にウォルフが答えた。それにヴィヴィアンが言葉を続けた。
「そうですね。本当の話だと思います。カイザー様、アガサ様が文字盤を見つけて使いたくなったって仰ってましたが、そもそもどうして旧校舎に行かれたんでしょうか?」
ウォルフは頭を掻きながら答えた。
「あー、あいつは怖いもんが好きなんだよ。それを見つけた時も幽霊に会いに行くっつって、俺を引っ張って旧校舎に行ったんだ。あいつにはあちこち連れられて行ったよ。不本意だが、王都の心霊スポットにはかなり詳しくなっちまった」
「まあ、気をつけて下さいね」
「ああ、もう行くこともないからな」
そう言うとヴィヴィアンに熱い眼差しを送った。アスベルが視線を遮るように二人の間を手で払う。
「ヴィヴィ、この文字盤はもう危険がないと思っていいんですか?」
「ええ。アメリアとの約束通り私が預かりますね」
「じゃあ、あの騒動はこれを貴女に渡して全て終わったとみていいんですね」
「ええ。色々とお気遣い下さりありがとうございました」
「そうか。痛ましい出来事だったな。文字盤をどうするつもりですか?」
「ええ、それは秘密ですわ」
「危険はありませんね」
「ええ。お約束しますわ」
「では最後に」
クロードは立ち上がりヴィヴィアンの側に行くと、さっと手を握り、その甲にキスをした。
「ヴィヴィ、愛しています。リシュルドなんかやめて、私の手を取っていただけませんか?」
「あ、何を!また抜け駆けしやがって!許さん。ヴィヴィ、どうか俺を選んで下さい。一生貴女に尽くし、守ると誓います」
ウォルフが慌てて立ち上がりヴィヴィアンの足元に跪いた。それを見てアスベルは蒼白になった。
「デューク、手を離して下さい。ヴィヴィ、もう行きましょう。こんな不愉快な所には一分一秒でも居たくありません」
アスベルはクロードの手を手刀で叩き、ヴィヴィアンを立ち上がらせて腰を抱いた。テーブルの上にあった文字盤を手に取ると、挨拶もそこそこに門へと向かった。
「あ、アスベル様、ちょっと待って下さいませ。ご挨拶がまだ!デューク様ご馳走様でしたわ。ウォルフ様もご機嫌よう。ちょっ、アスベル様、転んでしまいます!それでは皆様、失礼いたしますわ」
ヴィヴィアンは困ったようにアスベルを見るが、歩く速度も、腰を抱く手も少しも緩まない。ヴィヴィアンは仕方なしに引っ張られながら後ろを振り返り早口でお礼を言った。
テーブルの側で、二人は立ち上がり、笑いながら手を振っている。ヴィヴィアンはため息を吐きながら呟いた。
「どうみても揶揄われてますわよね。アスベル様が!」
馬車に乗り込み、リシュルド家に向かう。
「もう我慢できない!あんな無礼な奴らと付き合うのはやめてくれ!よりによって私の目の前でプロポーズをするなんて!どこまで私を侮辱すれば気が済むんだ!」
「落ち着いて下さいませ。揶揄われているだけですわ」
「愛してるよ、ヴィヴィ。貴女だけが、私をこんな情けない馬鹿な男にしてしまうんだ」
ヴィヴィアンは何度も囁かれている言葉だけれど、アスベルの口から紡がれると嬉しくて、その度に頰が赤く染まり、ドキドキと煩いくらいに心臓が高鳴るのを止められない。
「私もアスベル様をお慕いしていますわ」
「私だけかい?」
「ええ、もちろんです」
アスベルは感極まって目を潤ませ、ヴィヴィアンの手にキスをした。そのまま横に座り、額に、こめかみに、頰にキスを落としていく。
ヴィヴィアンは真っ赤になりながらも、その一つ一つを享受した。
「愛してるよ、ヴィヴィ」
鼻先が触れ合う程の近さで囁くと、最後にそっと唇に触れた。
甘い時間はあっという間に過ぎ、馬車はリシュルド家に着いた。アスベルは遠慮がちに舌打ちしながら馬車を降り、ヴィヴィアンをエスコートして屋敷へと向かった。
ヴィヴィアンが屋敷に足を踏み入れると、暖かい空気が頰を撫でた。
アスベルはテラスのある小部屋にヴィヴィアンを案内し、お茶の用意を頼むために部屋を出て行った。
テラスの扉を開けると、ふわりと花の香りが室内に入ってくる。どこの屋敷の庭園も、色んな花が咲き誇っていて美しい景色が広がっている。
「ああ、気持ちのいい風だわ」
ヴィヴィアンが軽く伸びをすると、テラスのテーブルに置いた文字盤がカタカタと音を立てた。
慌ててコインを置くと、スーッと文字をなぞり始めた。
「ご機嫌よう、オスカー様。どうかなさったの?」
「vivi」
ヴィヴィアンは文字盤のコインに手を乗せている男性を見た。精悍な顔立ちの美丈夫で、目元や鼻筋など、どことなくアスベルに似ている。ヴィヴィアンが婚約の顔合わせで、初めてこの屋敷に来た時からの付き合いだ。
オスカーは初めて会った時から、ヴィヴィアンが屋敷に来ると、誰よりも先に迎えてくれ、屋敷にいる間は危険から守るようにピッタリと寄り添い、常に会えた喜びを示してくれていた。
オスカーという名は屋敷に飾られている肖像画で知った。今から四十年程前に若くして亡くなった、アスベルのご先祖様だ。確か戦争に巻き込まれて亡くなったと聞いた。
「またオスカー殿が来てるのかい?」
アスベルは少し嫌そうな顔をして、ワゴンを押しながら入ってきた。ワゴンにはお茶の用意がされている。ヴィヴィアンも手伝いながら、二人でテーブルにセッティングした。
「ええ。今日は文字盤でお話ししてるのよ」
オスカーはそわそわと落ち着かなく文字盤の周りでゆらゆらと揺らめいている。
ヴィヴィアンはそれぞれのカップにお茶を注ぐと、一口飲んだ。そしてオスカーににっこりと笑いかけた。
「オスカー様とお話ができて嬉しいですわ。もっと早く文字盤を使えば良かったです。ねえ、オスカー様、どんなお話を聞かせて下さるの?」
オスカーが話し始めたのは、驚くことに、この文字盤についてだった。
「この文字盤で交霊すれば、あの死神が召喚される確率が高い。なぜならこの文字盤には、グレースと、あの恐ろしい死神の痕跡が残っているのだから」
オスカーの話では、この文字盤は、オスカーが学園の三年生だった時に開催された交霊会で使われたものだった。
主催者は同学年の王女殿下で、参加者は学園内の高位貴族を中心としたカップルだった。オスカーにも招待状が届き、婚約者のグレースと一緒に参加したのだ。
交霊術を始めようという時に、誰かが死神を呼んでみようと言い出した。今になっては誰が言い出したのかも忘れてしまったが、皆面白がって賛成した。
図書館のカーテンを引いて室内を暗くし、蝋燭に火を灯しこの文字盤を置いた。
テーブルを囲むように皆で手を繋いで輪になり、王女殿下の呼びかけに唱和した。
始めは何事も起きなかったが、何度目かの呼びかけに、文字盤の上に黒い靄が集まりだした。
靄は黒い塊になり、それはだんだんと大きく膨れ上がり、ゆらゆらと文字盤の上で揺らめいた。
名前を聞くと「死神」だと答えた。死神を呼ぶことに成功したんだと、歪んだ喜びがその場を支配した。そして自分達の力を過信した。死神を御すことが出来ると思ったのだ。
王女殿下が質問をし、文字盤のコインが答えをなぞる。それを何度か繰り返して、交霊術を終えようとした時に悲劇が起こった。
王女殿下の「お帰り下さい」の呼びかけに、死神は否と答えた。文字盤の上の黒い塊が羽を広げるように大きく伸び上がり、ゆらゆらと揺れては小さくなる。その度に室内にラップ音が響き、ポルターガイストが起きた。
図書館内は酷い有様だった。女生徒の何人かは悲鳴を上げて倒れ、男生徒も帯電しているようなピリピリとした空気の中で、感電したように身動きが取れなくなった。実際に髪が逆立つものもいた。まるで喜劇を見ているようだった。
そして私も動けなくなったうちの一人だった。
黒い塊が手を伸ばすように、黒い靄が私の方に伸びてきた。もう終わりだと思った。このままここで死んでしまうのだと。その時、私の婚約者のグレースが動いた。
私の前に身を投げ出したのだ。
黒い靄が触れた途端、眩い光が彼女の体から迸った。目が開けていられないくらいの光量だった。皆、時が止まったようにその場に立ち尽くした。
光が収まった後、最初に動いたのは王女殿下だった。
私は、私の足元で倒れている彼女を、ただ呆然と見下ろしていただけだった。王女殿下はグレースの上半身を抱えて座り込んだ。そして泣き出しそうな顔で私を見上げ、息をしていないと言ったのだ。
私は夢であって欲しいと思った。
それからのことは殆ど覚えていない。ただ後悔ばかりの日々だった。私が死ねばよかったのにと何度も思った。
かろうじて学園を卒業したが、グレースのいない人生は味気なかった。生きる意味も見出せなかった。
だがグレースに守られた命を粗末にすることもできず、私はただ生きて動く人形のように過ごした。
早く死んでグレースの元に行くことだけが、私の唯一の希望だった。
交霊術でおかしくなった社会は、王が下した禁止令も守られず悪化の一途を辿った。そして民衆の怒りとそれに上手く乗った第一王子の謀反で、あっけなく終止符が打たれた。
私は学園を卒業後、家を捨てて傭兵として戦いの中に身を置いた。グレースの死から九年後、辺境の地で隣国との小競り合いの最中、私は命を落とした。
グレースに会いたいと願っていたが、死んだ時に私はグレースの元ではなく家に戻って来てしまった。
その時はなぜかはわからなかった。もしかすると、グレースは私の手の届かない所にいるのかもしれないと思った。
それに私は第一子としての責務を果たせなかったことを、未だに辛く感じている。私は死ぬ時にこの家を護りたいと、何よりも強く願ったのだ。
そして年月が過ぎ、ヴィヴィが初めてこの家に来た時、私は、魂が震え歓喜した。ヴィヴィの魂の形や光が、私の愛した者と同じだと感じた。
私は許されたんだ。ヴィヴィがこの家に来てくれたことで、私は魂の安らぎを得た。
私はヴィヴィによって解放されたんだ。
ヴィヴィ、君の魂は慈悲で満たされている
それは理屈とも、感情とも違う
全ての自己を超越した、摂理の中にある
全ての人間が持ち、だが保つことが難しい
魂の気高さ、魂の強さ 魂の持つ輝き
そしてきっと、自身を守る盾となる
君の魂に触れると、愛さずにはいられない。
だから、愛してるよ、ヴィヴィ。
「ちょっと待った!いくら私の先祖だといっても、死んでいるからといっても、最後の言葉はいただけませんね。ヴィヴィは私の婚約者ですよ。そこはお忘れなきようお願いします」
アスベルは文字盤をキッと睨むと、ヴィヴィアンを椅子ごと後ろから抱きしめた。
「アスベル様、落ち着いて下さいませ。オスカー様の好きな方はグレース様ですよ?」
「いや、ヴィヴィに愛してると言ったじゃないか」
「ん?そういえばそうですね。でも、私が好きなのはアスベル様だけですよ」
ヴィヴィアンは穏やかに笑いながらアスベルの腕に手を添えた。
「でもヴィヴィは魅力的だから心配だよ。屋敷に閉じ込めて誰にも見せたくないくらいだ」
「フフ、でも屋敷にはオスカー様がいらっしゃいますよ?」
「あー、本当だ!」
アスベルは額に手を翳して天を仰いだ。
「それにしても、ヴィヴィ、もう、誰にも、何にも、首を突っ込まないでおくれ!約束だよ」
「ええ。巻き込まれないよう善処しますわ!」
おわり