プロローグ:今際の際で願いをカケル
辺りに水滴が落ちる。
まだ昼下がりだと言うのに、周囲は宵闇に覆われようとしていた。
また一つ、誰かの頭に雫が滴り落ちた。
だんだんと礫は、その足を早め、肥大化していく。
驟雨だ。
一時的であろう、激しい雨は、今起きている事が現実であることを示す。
篠突く雨が、止まった時間の堰を切ったように、眼前の残酷が襲いかかった。
人々は密集し、事の重大さを理解し始める。
ふと、横たわったまま自分の腹を見た。
鋭利で、黒く不気味に光る鉄製の物体が刺さっていた。
腹部の感覚はもうない。
右手にも何かが刺さっている。
利き手の感覚も、もうない。
舌が痺れてきた。
……残された時間もあまりないようだ。
ふと、俺の左手を誰かが優しく掴んだ。
その誰かは、必死に俺の名前を叫ぶ。
あれ、俺って誰だっけ?
脳内を巡る血液が枯渇する。
強烈な、記憶を思い返せという言葉が自分の内から聞こえた。
思い返す……。
脳で何かが弾けた。
大事なモノが、失われていく無情を、心の隅で感じ取る。
そして……。
思い出した。
最後の力を振り絞り、伝えられなかった言葉を、紡ぎ出す。
「……ぃ……し…………」
……………………。
だめだ。
最期に伝えたかった言葉、本当はずっと内包していた言葉も、外に出すことは叶わない。
眼前の……『想い人』がさらに泣きじゃくる。
そんなに泣くな、と言いたくても、喉は鳴ってくれない。
瞼を開けることで精一杯だ。
とうとう、俺達が結ばれることは無かった。
相手の感情も知らない。
俺が知っているのは、この、どうしようもない彼女への愛情だけ。
だが……守れてよかった。
少女の向こう側に、倒れ伏している人物を目に止めながら、そう思った。
意識が薄れゆく。
さらに思考が溶けていく。
瞼が終幕を告げ、自然に閉じていく。
これまでの記憶が、走馬灯のように駆け巡った。
泡沫のようで、突けば消えるほど、儚い記憶。
しかし、俺にとっては何よりも綺麗で、大事な石鹸玉だった。
何処と無くやってきた残照が硝子質を輝かし、乱反射した光彩は虹色に瞬いた。
最期に心残りがあるとすれば……。
……あいつは、誰が好きだったんだろうな。
答えを知ることが出来ない問いは空中に霧散した。
瞼が降り、舞台は演題を終える。
俺の人生は、そこで幕を閉じた。