読者は「アホ」になったのか
小説と「web小説」は別物だ。とか、いや本質は変わらない。とか、web小説が低俗なせいで小説界全体が落ちぶれている! とか、いやそれは時代に取り残された老害の意見だ! とか。
まあ色々と、議論は尽きない。結構なことだ。
どっち側の意見であっても、信念を持って「これぞ自身の作品だ」と世に出している人に、私は好意を寄せる。
だから仲良くしている作家の方々にも、それぞれ両極に位置する人がいる。私はそのどちらも好きなので是非、これからも永きに亘り、争いを続けていてほしい。
(これは私の個人的な考え方なので、私に対してのみ採用していただきたいのだが、「作品は世に出した時点で批評の対象となる」。
つまり「私は」私の作品に頂く意見がどんなものであっても、それを嬉々として受け入れる。殴り合いはもっと大好きだ)
さて本題。
2020年の現在、web小説は巨大なコンテンツとして成長を続けているが、出版業界は窮地に立っている。
具体的に、当サイト「小説家になろう」の日本国内に於けるアクセス数は「Facebook」に次ぐ14位という、とんでもない規模になっているのだ。
次点にdmmやpixiv、Instagramなどが続く。それらのサイトよりも、ひとつの「web小説」サイトが上位であるという事実。
(参考……SimilerWebによる順位)
対して、日本国内の出版業界「全体」の売上は1990年代後半から減少の一途を辿り、現在はピークの半分にまで落ち込んでいる。より娯楽としての側面が強い「漫画」も、その例外ではない。
なるほど。この数字を見て「小説という文化が、web小説という『外来種』に侵食され、破壊されようとしている」という見方はできそうだ。実際、そのように考える人もいるだろう。
小説が売れなくなる。市場規模が縮小する。「売れそうなもの」しか出せなくなる。
そこへ、既に十分「読まれた」実績のあるweb小説が食い込んでくる。
そうしてwebから紙媒体へと移った小説の多くは、少なくとも「web小説」という文化がまだ存在しなかった時代の物語と比べて、明らかに異質な要素を持ち合わせている。
さあ、これを黙って見ているうちに、旧来の「小説」は「web小説」に棲処を奪われ、絶滅してしまうのだろうか?
むしろ逆に「みんなで声を上げ行動し、小説を『保護』していけば、小説の衰退は防げる」のだろうか?
ここで私の見解を述べておこう。
「これからも確実に、小説は衰退する。そして、決して絶滅しない」
おそらく「衰退」のほうは、時代の空気感や、厳然たる「数字」をみれば誰の目にも明らかだと思う。
しかし、なぜ衰退が確定的であるのに、絶滅に至る手前のどこかで踏み留まる、と私は考えるのか。
それは「外来種」の隆盛が、「在来種」の生存にとってもプラスの側面を持ち得るから。
web小説サイトの登場によって、誰もがいきなり「小説家デビュー」可能になった。たとえどんなに稚拙な文章でも、ヤマもオチもない物語でも、それをインターネットの海に放流することはできる。
「無料で読むことができ、不特定多数の誰かに評価される」という、図書館所蔵の書籍と同じようなところまでの道筋が、web小説なら一瞬でつくれるのだ。
もちろん自費出版のような費用も要らない。編集者も校正者も必要ない。
年々減少を続ける出版物の発行総数は、年間約75000冊。対して「小説家になろう」の作品数は、運営15年で84万作品。
web小説サイトの出現により、愛好家として「気軽に執筆する」人々の数が激増したのだ。
Youtube動画からメジャーデビューしたシャリース(ジェイク・ザイラス)、ニコニコ動画から日本を代表するミュージシャンになった米津玄師のような人材があっさりと発掘され得る時代は、とっくに小説界隈にも来ている。
これらは「作り手」にとって圧倒的に有利となる事実だ。
公募小説として落選し、20年前なら日の目を見ることがなかったはずの作品も、今すぐ全世界に発信できる。
そして無論、現実にそうなっている。
「しかし、それらは低俗で、稚拙で、どれも似たり寄ったりの、駄作ばかりではないか! そんなものを喜び、高く評価し、作者を祭り上げるような真似をする『読者の質が落ちている』のだ!」
つまり「読者がアホになっている」という意見。
「だからそういう駄作の山に『まともな小説』が埋もれてしまわないよう、対策を講じる必要がある! アホな読者を啓蒙せねばならない!」
こういった声が「どういう感情から生み出されているか」はよく理解できるので、直接の反論はない。是非ともその熱量を筆に込め、名作を書き上げていただきたい。私は応援する。
さて、ではもう少し冷静に考えてみよう。
「もし日本でサッカーを楽しむ人口が100倍になったら、『国内トップレベルのサッカー選手の質』は上がるだろうか? また、サッカー市場は拡大するだろうか?」
今まで他のスポーツや他の趣味に没頭していた「サッカーの天才」が、一斉にサッカーへ押し寄せるのだ。そして、その観戦者も。
これがどういうことか、もうおわかりだろう。
つまり、小説業界も同じ。web小説の登場によって「底辺が拡大」した。それだけのことである。
そりゃ人口が増えたんだから、下手くそだって増えなければおかしい。
世に出るすべてが名作なんてことは有り得ない。我々は神ではないから。膨大な駄作の死屍累々の山頂に、名作は生まれるのだ。
万物は流転する。パピルスの巻物は絶滅したし、タイプライターもワードプロセッサも消えていった。そして今度は、紙の本そのものが廃れつつある。
では「小説」は消えるのか? 手軽で、インスタントで、移動や休憩の時間にサッと読めてしまう「web小説」に飲み込まれ、時間をとって正座してジッと読み耽るような「本物の」小説は、絶滅してしまうのか?
おそらく逆だ。
人々がweb小説を書き、読むことによって、「書き手」の底辺は拡大し、頂点も上がっていく。
もしくは、既に人間の知性の限界にぶつかっており、それ以上は変わらないままになる。
「しかし、文学史に残る名作のほうが、現代の作品などよりずっと優れているではないか!」
確かにそうかも知れない。数百年、いや数千年に及ぶ文学史と、30年に満たないweb小説「以後」の歴史を比べれば、流石に分が悪そうだ。
ではその文学史に残る、100年ちょっと前の話をしよう。
夏目漱石のデビュー作品『吾輩は猫である』が出版された1905年、日本人の識字率は75%に満たなかった。4人に1人は読み書きができなかったのだ。そして当時の人口は、現在の約3分の1。
つまり当時「読み書きができる人」は日本に3000万人しかいなかった。
ちなみに2018年、日本の図書館の登録者数は3379万人。貸出冊数は年間6億5000万冊を超えている。
あなたには今、「読み書きができない日本人」の知り合いが何人いるだろうか?
なぜ現代の人々が愚かに見えるのか。「人の愚かしさが可視化されているから」、ただそれだけの話である。
小説の世界でそれを感じるとするなら、「知識、経験に乏しい者や才能に欠けた者を含む、すべての人が執筆と読書の権利を得た」今の世を、むしろ誇るべきではないか。
結論。
「読者はアホになっていない」
「もし読者がアホだとするなら、人類史の全体に於いて読者はアホである」
もともと「読み手」はどこまでも受け身でしかない。
誰かが書いたものを読み、ある人は黙り、ある人は意見を述べる。その点で「書き手の優位」は揺るがない。
ピッチャーが球を投じない限り、バッターは打席で待つことしかできないからだ。
つまり、もしもあなたが「今の読者はアホだ」と感じているなら、実は「あなたのほうが優れている」可能性がある。
繰り返しになるが、是非とも一度、その怒りの全てを執筆へと向けてみていただきたい。ご活躍を祈念する。




