恋炎の果て
実在の人物は登場しません。また、警察組織についての記述は事実とは異なる場合があります。
【一】
狂っている。常軌を逸している。あの弟もそうだが、いまの自分が一番そうだ。この昏い合致が、鷹宮には痛烈に堪えた。
おそらく軽い処分で済む。隠蔽という手段でもって、問題にもならない可能性がある。十中八九そうなる。よもや関係のない自分が、彼女に会いに行く理由などない。それでもこの足を止められない。風がこの心を浚ってくれればいい。それはほんとうはもう、あの暗い雨にふかく濡れて地面に落ちたままだ。降りつけ、叩きつけられたぶんだけ重く湿ったそれは、持ちあげることもできない。抱えようとしても、触れたそばからぐちゅぐちゅと音を立て水が手を浸食するだけだ。暗い雨のなかで手は濡れるだろう。
「新島は先週退職しましたよ。新島になにかあったんですか?」
新島有紗の上司とおぼしき人間は、鷹宮から受け取った名刺をみて怪訝な表情で尋ねた。
「いいえ、あくまで形式的な質問です。彼女から私のことをなにか聞いてはいませんか」
「はあ、特には」
「……そうですか」
瞬間、憎悪にも似た感情が湧きあがった。新島有紗は、鷹宮をその人生に立ち入らせもしなかった。鷹宮は歯を食いしばった。
「連絡をとりましょうか」
辞めた人間へも親切なことだ、地方公務員とはいえ警察のような権力機構へ市民をやすやすと差し出すとは。鷹宮は内心嘲った。
彼の血走った目を、外の風は冷やせそうにもなかった。新島有紗の勤務先と、新島泰暁の勤務先は地下鉄で二駅しか離れていない。
あの潔癖そうな新島有紗が、新島泰暁を姉弟の枠をこえて愛しているとは到底思えなかった。だが自分も、新島有紗を愛しているなどと言えたものではない。恋ですらないだろう。度を越えた執着――――、それならばあの弟にもきっと負けてはいまい。姉に触れ、拒絶するように瞼を伏せた女を、それでも覗きこんでいたあの弟を包んでいた狂気は、鷹宮をも侵したのだ。
“雨があんたを慰撫してくれたらいい――――あんたにやさしい雨が降りてくればいい。だけどな……”
*
さいわい、綺麗な事故でこちらとしても助かった。加害者は反省していて身元にも問題はないし、薬物やら殺人やら犯罪絡みの事故でもなかった。典型的な交通事故で、通常の手順を踏むだけだ。なんら問題はない。被害者は亡くなってしまったが。不幸な事故だ、それ以上でも以下でもない。被害者について、遺族に事情聴取をしなければならないのが億劫ではあるが、数時間の作業で済むだろう。それでなくても他の捜査やら事務処理などで仕事が山積みである。
「まったく、こうも毎日毎日事故があるってのに、生きてる奴は生きてるもんだな」
たとえば、違反者に対し常に高圧的で、交通違反をする人間の話など聞くに値しないとばかりに、時には違反者を頭ごなしに怒鳴りつけて強引に反則キップをきる執行課の巡査。そのくせ自分は酒気帯びで運転して何事も起らなかったことを仲間内で誇り、同じ警察官でも女とみるやバカにしたり、卑猥な言葉を平気で浴びせる屑のような人間だ。彼らを見逃せというのではない。違反者とはいえ、人間は千差万別だ。次に違反を犯さないよう、重大な事故につながらないよう諭すのが警察官の職務である。
当然、そんな警察官の言動に違反者側からやりすぎだとの苦情が入ることもある。しかしそれだけだ。
他にもまだいる。殺人事件の捜査で、目撃者の証言をとらなかったのにとったことにして捜査を放棄する警察官。そういったことが発覚しても、世間に公表することなく内々の処分で済ませてしまう。署内ひいては警察内部の風紀を正そうと尽力するものなど、ほとんど皆無である。
現に、鷹宮のいまの発言を真正面から糾弾するものはいない。鷹宮の言葉に、ふと顔を向けた数名の署員も苦笑いか無視、せいぜい眉を顰めるといったところだ。場合によっては、上司に聞き咎められることもあるだろうが、平生そんなヘマは踏まないつもりだ。
彼は足をデスクにのせたまま、鑑識科から回ってきた事故現場を写した写真に目を通した。
そして、そうだ。
今回の事故も特段問題はない。しかしなぜか、たんなる“遺族”としてあの姉弟をとらえることに鷹宮は強い抵抗を覚えていた。
血の気の失せた表情だった被害者の娘と、その娘を慈しむように抱きしめていたあの息子、つまりあの姉弟を…………。
慈しむように、とはおかしなことだろうか。家族思い? 状況が状況だったのだから、むしろ自然ではないか。ならば、このじりじりとした苛立ちはなんだ。手術室近くのベンチで、閉じこめるように彼女に腕を回していた弟の姿。顔を背け、弟から遠ざかろうとするかのような姉を厭うわけでもない。どこかいびつな光景を見た気分だった。
ねえさん、と彼女にだけ聞こえるように耳元にささやかれたあの声は、得体の知れぬ感情を鷹宮に運んできた。どうしてか自分は、その場から動けなくなった。ともすれば幻聴だったと思うほどだ。あの弟は、鷹宮が耳にしたその一度を除いて、人前では姉のことを始終“姉貴”と呼んでいた。それがなんだというのか。弟が姉を姉さんと呼んだところで、自分には、なんの関係もない――――。
「こんなこと考えてるから、仕事が減らないんだ」
鷹宮はため息を落とした。
「24」の赤い数字が秒計に光る。23、22、21……減ってゆくカウント、やまない声援、シューズがコートの床を擦る複数の速い音、入り乱れるチームロゴとウェアの色――――――降ってくるボールを取ったらトップスピードで一気に駆けてドリブル、素早いロールターン、ディフェンスを逆方向に振って、床を蹴ってシュート。足を踏みかえて、ディフェンスの横を抜くあの瞬間だけは、笑ってしまうほど快感だった。
好きだった選手は、ドネー・アービングだ。彼の神業たるステップとハンドリング、ディフェンスをものともせず独壇場に持ち込むプレーは堪らない。NBAの選手たちにかかれば、コートの広さなどあってないようなものだ。憧れた舞台は遠かった。でも、コートを駆け抜ける爽快さは、いつも彼だけのものだった。けれどその気持ちは、思い出すたびに苦い味で終わる。
鷹宮は、デスクから足を下ろして自分の手をぼんやりと眺めた。事故現場を訪れることが、慰めを得ることになるのか。胸をえぐり、そこから血を流しているつもりでいるのか。それは良心の呵責に耐えるポーズなのか。
あれは不幸な事故だった。それ以上でもそれ以下でもない。なにもきみが責任を感じて、プロの道を断念することはない、せっかくの才能なんだ。ご両親もきっとそれを望んでいる、そうに違いない……。何百回と聞いた言葉だ。
現場で手を合わせるとき、深い後悔が彼を襲う。あの日の雨の音が押し寄せてくる。
ねがわくば、ここに雨が降りつづけてくれと祈る。空を仰いで、心は雨に濡れてしまいたい。洗われるのか、濯がれるのか、そんなつたない思いで免れたい後悔を、いまだけは覆い尽くしてほしい。
「“罪ですらない”か……」
もっとも死ぬべき人間なら、ここにいる。
あの日、雨が降っていなければ。友人たちからの誘いに乗らなければ。少しのタイミングのズレと行き違いは、鷹宮の両親が享受するはずだった未来を消した。「おまえはなにも悪くない。そんなことは、罪ですらない」とバスケットボール部の顧問は彼に言った。
鷹宮の虚ろな目は、ふたたび現場写真を映した。全面にヒビの入ったフロントガラス、ひしゃげたボンネット、道路のブレーキ痕……。心を動かされるものなどなかった。使命感に駆られて交通捜査課を志したわけではなかった。誰かを断罪したいわけでもなかった。公序がどんなものだったかを忘れてしまいそうな組織のなかにあって、それを忌み嫌いながら、糺そうともしない。なにかを考えること――自分の罪もふくめて――を、やめたかった。
【二】
あと一週間で両親の13回忌を迎えるという日、鷹宮は実家で法要の準備をしていた。とはいえ彼は実家に戻ってからもう10年にはなるし、13回忌法要は限られた親族だけで行うため気楽なものだった。香典も断ってあり、正月の集まりからせいぜいひと月しか経っていないため、会食もしない予定だった。
ふだん掃除しない仏間の埃をとり、庭に面した窓を拭いて空気を入れ換えたところで、「俊樹くん、あいかわらず冷蔵庫のなかになにも入れてないのね。お昼はどうしようか?」とカラカラと笑いながら叔母が声をかけた。
鷹宮は苦笑した。母の妹である叔母は、半年に一度程度この家を訪れる。姉夫婦に線香をあげにくるためでもあるが、彼女にとってもここは実家だった。叔母と鷹宮がかち合うことは少ないが、実家に帰ると彼女は必ず料理をし、姉に供える。鷹宮の寒々しい冷蔵庫事情は心得ているのだが、やはり可笑しいらしい。
今朝までは、ハムと期限切れの卵があったことは面倒なので黙っておいた。
「叔母さん、忙しいでしょう。自分で材料買って作るからいいよ」
今日は食材をなにも用意していない叔母は、鷹宮の暗黙裡の拒絶に複雑な顔をした。だが諦めたようにため息を吐き「あなたがいいなら、それで」と、部屋を出た。
“あの子はあのことがあってから、心を閉ざしてしまって…………。情熱もうしなって…………、よりによって交通課の警察官になるだなんて、あの子をどうしてあげたらいいんだろう”
彼らは痛ましいものをみる目で鷹宮をみる。いまだに。両親が亡くなってから13年目だ。自嘲するしかない。多忙ではあるが、無礼にあたらない程度には親戚の集まりに顔を出している。自暴自棄になどなってやしない。彼なりに出した答えが、警察官になることだった。
けれど、一度入った亀裂あるいは誤解や齟齬は、少なくとも一方が誠意を尽くさないかぎり改まることはないのだろう。しかしこの場合の誠意とはなにをいうのか。「心配しないでいい、自分は大丈夫だ」と示すことだろうか。
…………示しているつもりだ。いや、彼が生きていることが、それを示すことになっているはずだ。きっと、自分から傷口を抉りにいっているように他人には映るのだろう。それについて否定も肯定もない。
「俊樹くん、忘れていたんだけれど、これ。ごめんなさい」
コートとマフラーをもった叔母が引き返してきた。「姉さんの部屋にまとめて放ってあったのよ。ゴミに出すのかと思ったんだけど、どうもそうじゃないようだったから。勝手に見ちゃってごめんね」
鷹宮はおもわず、それと叔母を凝視した。気味が悪かったのか、彼女は鷹宮にそれを手渡すとあとの言葉を捲したてた。「このあいだも言ったけど、叔母さんは13回忌には出席できないから、みなさんによろしくね。近いうちにまた寄りますからね」
夫の手術の日程と重なり、13回忌法要にどうしても融通が利かないとのことを聞いていた。慌ただしく去る叔母になんと返したか、しかしそんなことはどうでもよかった。鷹宮は瞠目していた。こんな――奇異な――符号が。それひとつではおよそ重大な意味をもたないもの同士が、彼の頭のなかで結びあわさった。
掃除のついでだからと、自分の部屋の要らない物も処分しようとして、とりあえず廊下や、母の仕事部屋だった隣の部屋にそれらを置いて回収し忘れていたものだった。それは束になったいくつかの新聞記事で、それぞれ日付はことなるが同じ年の夏のバスケットボール大会のものだった。
――――面影をたどることができる。………どちらの?
若木のような弟の目鼻立ちに、姉を重ねることができるだろう。
“インターハイ準優勝――大健闘の県立北高校――選手らの笑顔華々しく”
小さいが5人写った写真。
そして、叔母が何気なく口にした言葉。
“関東大――インカレきょう初試合”
“新島選手、周囲の笑い誘う「はやく家に帰りたい」”
“ケガが心配された鷹宮選手は出場”
“これ、姉さんの部屋に――――”
姉さん
拒絶するかのように伏せられた瞼、疲れたような崩れと葛藤のみえた横顔――――、弟の胸に抱かれていた姉。同時に、なにかを深く諦めたような、それでも彼女を放そうとしない弟が纏う狂気。
「…………新島有紗、新島泰明」
職務上知り得たその姉弟の名を、鷹宮はつぶやいた。
【三】
“2番”ともシューターとも呼ばれるシューティングガードの選手だった。ポジション柄、3ポイントシュートを狙って決めることが重要だったが、鷹宮は得点を入れるよりも1ON1でディフェンスを抜き去ることのほうが好きだった。少しでも長くボールに触れていたくて、個人プレーのきらいはあった。だが、すぐれたドリブルの技術を駆使して得点に結びつける鷹宮に不満をいだくメンバーはあまりいなかったように思う。いたかもしれない。しかし彼には関係のないことだった。不満なら、妬むなら、その選手の技術を磨くことに腐心すればいいのだ。そして幸か不幸か、鷹宮はあの世界から身を引いた。だれかが鷹宮に悩まれることはもうないはずだ。
写真に写った、はにかんだその男子高校生の初々しさ。その短髪の姿が、新島有紗に重なった。弟より幾分低い背丈は細身で、耳が出るほどの短い髪をしていた。二重瞼に色濃くにじむ疲労と、かさついた唇。全体的に暗い色調の服が、その女をよけいに脆くみせていた。
鷹宮の記憶に、うっすらと新島泰暁が残っていた。地元の県立高校がバスケットボールのインターハイに出場し準優勝したのが10年前で、それは彼が警察学校に入学した年だったからだ。自分のものも含めて、大学生当時からバスケット選手に関する地方新聞の記事をとっていた。ただ、両親が亡くなりプロの道を断念してからは憶えがない。関連のニュースを目にするたび、苦く、忌々しいような思いだった。将来有望な選手というその位置が、近い未来に奇禍に遭おうとは想像すらしていなかった、純粋で世事に疎い自分自身をあらわしているようで、堪らなくなった。若木のような活力のある高校生選手の記事に、自分はなにを思ったのか。いま、このようなタイミングで彼に出会うとは。意志の強そうな眉と、はにかんだ笑顔が、どこかアンバランスに感じられた。新島有紗を抱きしめていた男――悲しみに暮れるでもなく――――。
鷹宮のもとに新島有紗が訪れたのは、その翌日のことだった。
*
「……これで、いいです。相手のかたと、警察のかたのよいようにしてください」
疲れきって投げやりに放たれた言葉は、鷹宮の苛立ちを助長した。せめて弁護士を連れてくるものと予想していたが、新島有紗はひとりで警察署を訪れた。耳が出るほどの短い髪と、伏し目がちな瞼、細い手首と、そして言ってはなんだがこのような状況にそぐわないラフな服装――というより、この間病院でみた同じ格好を彼女はしていた。濃緑のブルゾン、フードが付いた紺色のパーカーに深い青のジーパン、靴は黒のスニーカーを履いていた。
「失礼ですが、弟さんはお越しにならないんですか」
「おとうと…………?」
新島有紗は一瞬、目の前の男はなにを聞いているのだろうという顔をした。怯え、懐疑、警戒といった感情が女の瞳に奔った。
「病院であなたがたの身元を訊いたのは私ですが、覚えていませんか」
なんとも居心地が悪く、劣等感がこぼれ出たような質問だと思った。この卑屈な質問に、だが当の鷹宮がいちばん驚いていた。
「すみません、あの日はあまり記憶がなくて…………」
新島有紗はゆるく目を閉じた。
鷹宮は、さきほど新島有紗の瞳に奔った感情が、生身の彼女を発露させたものだと直感でとらえた。だが、その生身であると感じた彼女は、鷹宮の愚かな質問のために、憔悴した空気のなかに隠されてしまった。
「新島さん、お父さまを亡くされたことは本当にお気の毒です。ですが、お母さまもいらっしゃらないとなると、あなたと弟さんが当事者のようなものなんです。弟さんは今回のことををあなたに全部任されたということですか?」
加害者の処分を決める必要のある聴取だとはいえ、鷹宮の発言が越権行為であるということは承知していた。だが事故当日、病院でみた姉弟の姿が異様に目に焼きついていた。生前の被害者の経歴を話し、加害者の証言にもとづいて作成した供述調書を確認する目の前の彼女の姿は、ここにいないその弟を如実に思い起こさせた。
異様な熱が、目の底を炎で炙った。
「できれば裁判もしたくありません。弟もきっと……。でもそういうわけにはいかないじゃないですか。だから、サインします」
新島有紗は、持ってきていたリュックサックから印鑑を取り出した。鷹宮は眉をひそめた。――――違和感。
TPOにそぐわないといえばそうかもしれないが、どこか噛み合わない服装。彼女という人間を無理矢理型に嵌め込んだような。
「悲しくは――――、悔しくはないんですか、お父さんが亡くなったこと」
――――薄氷を踏む。踏んで、亀裂がたちまち広がっていくのを、鷹宮はなすすべもなく見つめている思いだった。
新島有紗はゆっくりと鷹宮をみた。少し笑ったのだろうか。色濃くにじむ疲労。なにか、果てのないものを見透すような眼差しだった。
「わたしが失うものなんて、なにもありませんよ」
“あんたにやさしい雨が降りてくればいい――――――”
【四】
新島有紗は今しがた会見した鷹宮警察官の厳しい顔つきを思い返していた。使うつもりで用意していた印鑑の出番は、とうとうなかった。
“弟さんとよく話し合ってください。できればお二人で来てほしいものです……一週間後にまたお待ちしています”
意外であったし、気が重くもあった。関心を払われることはできれば避けたかったのに。自分たち姉弟がまだ若いからだろうか。心もとなくみえたのかもしれない。それでいて、有紗は心にわずかなざらつきを覚えた。鷹宮警察官のあの射るような眼差しは、迷乱するなにかを感じさせた。――――些細なことだろう。暗く望ましくない方向へ思いが引きずられているだけだろう……。
事故の一報を受けたとき、そして父の容体を病院で聞かされたとき、ひとつの懸念が去り、同時に、暗澹として現実離れした世界に、ついに絡めとられたようだった。いや、ようやくと言えるのか。
日常のなかで、静かに倫理を外れた姉弟。自分はまだ、倫理の糸をつかんでいるはずだった。けれどその糸は切れてしまいそうだ。自分から手放してしまいそうだ。弟の瞳にみえる深い思慕をふり切ることができない。……疲れた。
彼が、彼女に想いを告げたことはない。だが彼女はあきらかに彼の執着を纏って生きてきた。笑い方がそっくりと言われる顔――弟が彼女の笑い方を真似るから。「姉さん」と、ふたりきりのときだけに使われる呼称。姉に合わせたような彼の生き方。どこからそれが始まったのか、もうわからない。
父がむかし言っていた。“ほんとうはふたり合わせて有明になるように、泰暁の暁の漢字は明るいって字にするつもりだったんだよ。でも小さい弟がはじめて姉をみて笑った顔が、なんでだか暁って字のほうが相応しいように思えたんだ。だから、泰暁のあきは暁”
有紗は重苦しさに足を止めた。新島有紗、新島泰暁。二人の名前でひとつの言葉になる。有明――――両親が亡くなってしまったいま、だれも知ることのない弟の名の由来。
「――――泰暁――――」
有紗は悲しさに目を閉じた。
*
――――朝に夕に。想うのはひとりだけ。
ボールを軽く回して、上に放って片手でキャッチ。
肩の力を抜いて、足を大きく開く。重心を限界まで低く入れて、ドリブルする。左右に細かく動かしボールをワンバウンド、股の間に巻き込むようにくぐらせて、前へ進む。ワンバウンドさせて、ボールを巻き込んで、前へ。ワンバウンドさせて、巻き込んで、前へ。
ゴールからだいたいの位置を決めて、彼は立った。軽く助走をつけ、ボールをつく。二回。素早くインサイドレッグ、ワンバウンドさせて、1歩2歩と踏み込んでジャンプ、シュート。
ボールがゴールに吸い込まれるときの音、これがなによりも彼は好きだった。もう一度助走をつけてワンバウンド、インサイドレッグ、1、2歩と踏んでシュートする。
「ははっ、決まった」
リングから落ちたボールが土のうえを這ってきたのを拾い、タン、タンとゆっくり大きくバウンドさせた。スリーポイントラインを決めて、シュートを放つ。シュッという耳になじんだ爽快な音がその場に響いた。
彼がボールに触れたのは、久しぶりのことだった。大学一年の春を最後にバスケをやめて、それからは友人と遊ぶときにする程度だった。大学に入ってひと月後にあった新入生歓迎会の席で、彼は先輩部員を殴った。卑猥な言葉で姉を侮辱されたからだ。こんな環境にはいられないと思った。姉が、男たちの下種な欲望に一時にでも利用されることは耐えられそうもなかった。姉への想いを薄々自覚してはいた。おそらく、高校の頃よりもっと前から。姉だけは特別だった。人前では絶対に彼女を「姉さん」とは呼ばなかった。想いをいよいよ認めたのが、人を殴ったときだった。もうずっとずっと前から、姉は、新島有紗は、新島泰暁にとってただひとりのひとだった。
倫理的にまずい、そう思うよりはやく泰暁のなかに厳然として存在するのは姉だった。心は彼女に侵され、想いは彼女のもとへ走る。
姉は彼の気持ちに気づいている。そう確信を得たのは、歓迎会で殴り合いのケンカをしてから数日後だった。唇を切って顔を腫らせて帰宅した泰暁は、その理由とバスケット部を辞めてきたことを姉に告げた。「姉さんを侮辱したからだ」と。
あのとき、決定的な境界を自分は破ってしまったのだ。二歳上の聡い姉は、弟が自覚のないまま抱いていた想いを悟ったに違いなかった。
姉は明るい色の服を着なくなった。髪を伸ばさなくなり、耳が出るくらい短い髪型が定着した。装飾的なものをいっさい削ぎ落とし、そして実家を去った。道徳的規範を弟に示したのだと思った。それは明確な一線であった。得心した部分もあった。姉は、高校と大学は女子高へ入っていた。もともと姉と同じ高校・大学へ通う考えはなかったが、そのことに落胆しなかったといえば嘘になる。弟の想いの片鱗を、姉はしかとみていたのだ。
けれどどんな姉も、泰暁のなかでは姉だった。新島有紗という人間だった。泰暁は、彼女にだけは誠実でありたかった。ひとりの人間として新島有紗の傍にいたかった。
ゴール脇でとまったボールを泰暁はぼんやりと眺めていた。今もこうして、姉を待っている。
「俺には、きみしかいない。ただ、有紗だけだ…………」
「……………泰暁」
泰暁が求めてやまないひとの声がした。泰暁は、姉そっくりだといわれる笑顔を姉に向けた。
それは灯というほどやさしくはない、業火というほどにつよくはない。遠火のように不確かではない、それは炎であった。陰影をつけて切々と揺らめく姉への炎であった。
【五】
「あそこのバスケ場、まぁた鍵が開いてたんだな。誰か立ち入ってたぞ。まあOBかもしんねぇけど」
「警察署のすぐ近くなんだから、そう変な輩も来ないでしょう。夜中に溜まってるのもみたことないし。あまり無用心なようなら、生活課を通して高校に注意してもらえばいいんじゃないですか」
新島有紗が渡した名刺を見るともなしに見ていると、昼休みを終えた同僚が話しながら部屋へ入ってきた。
「北高のあそこか?」
鷹宮の問いかけに同僚二人はふり向き、頷いた。
「なんかボールまで忘れてたみたいでしたよ。誰かそのボール使って遊んでたんですけど、ドリブルすっげぇ巧くてビビりました」
「俺も詳しくねぇけど、あれプロでもいけんじゃねぇ? あー、でもそのあと知り合いらしき奴が来て、あれ以上みれなかったのが惜しい」
「遠目だったけど、結構美人な感じでしたね?」
「そういや鷹宮のところに聴取に来てた女もモデルみたいな顔してたな」
「おい、遺族をそんなふうに言うんじゃない」
軽口を叩く同僚を鷹宮は睨めつけた。
「へーへー、おまえは堅いんだか不真面目なんだかわかんねぇよ」
「あのバスケ場の鍵は俺も注意して見ておく」
自分から話しかけたが、鷹宮は会話を切り上げた。県立北高校の校舎から少し離れたところに、フェンスで囲われたバスケット場があった。とはいえ、コートのラインはなく土の上にバスケットゴールが二つ立つだけのごく簡易的なものだった。バスケットでは強豪のうちに入る北高校には、専用の練習場がもうひとつある。話にのぼった場所が頻繁に使われることはなかった。ただ、稀というわけでもないので、コートの鍵を施錠し忘れるか、あるいは部員がわざとかけずに放っておくかして開いていることがあるらしい。明らかに関係者以外の人間が入り込むことがある。警察署の近くという場所柄からか、事件があったためしはなく、手間を増やすことはこちらとしても避けたいので、害はないと判断して関与していなかった。
「北高……」
そうつぶやいたときには、鷹宮は署を飛び出していた。同僚が話していた人物は、新島姉弟で間違いないだろう。弟は署の近くにいたのか。なぜ姉と同行しなかったのか。疑問はあれど、衝動のままに足を動かしていた。
そこに行ってどうするのか、会ったとしてなにを言いたいのかもわからないのに。
署庁舎を挟むようにして、北高校の校舎とバスケットコートはあった。バスケットコートは、大通りからは見えない位置にある、地元の人間しか知らないような場所だった。コートを囲むフェンスが見えてきたとき、ボールをつく音が聞こえてきた。
現れた人物とその様子に、新島泰暁は怪訝な顔をした。制服姿の警官が息を切らせて彼を見ているのだ、無理もないだろう。自分の滑稽なありさまに、知らず失笑が洩れた。鷹宮を観察していたらしい新島泰暁が「もしかして、あのときの刑事さん?」と訊いた。
「ええ、病院で少しお話ししたものです」
ああ、と新島泰暁はぞんざいに頷いた。あのとき――――、新島姉弟の父親の事故の捜査が粗方終わり、加害者の車に轢かれた被害者の容体が思わしくないと署から鷹宮へ連絡が入り、現場から病院へ駆けつけたとき。手術室近くのベンチで、新島有紗を抱きしめていた男。
「今日はスーツじゃないんですね」
新島泰暁は意味ありげに鷹宮をみて、手にしていたバスケットボールを弾ませた。あのときは、捜査服から着替えたのだと言いかけて、生々しくなりそうなやりとりに口をつぐんだ。
「――なにか用ですか。姉なら少し前に帰りましたよ」
「お姉さんはなにか言っていましたか」
「聞きましたよ。今後のこと、俺たち姉弟でちゃんと話し合えって言ったんでしょう? わざわざアドバイスしてくれて、ありがとうございます」
「アドバイスって、きみな……。お父さんは轢かれて亡くなったんだぞ。そんな言い方はやめるんだ」
姉の新島有紗の投げやりな様子といい、この弟のぞんざいな態度といい、鷹宮には承服しかねた。新島泰暁は、またボールを地面についた。
「もっと取り乱して、あんたたちに縋りついたら、なにか変わるんですかね」
「……どういう意味だ?」
彼は二度ボールをついて、バックボードに放った。綺麗な放物線をえがいて、ボールはリングに吸いこまれた。
「スリーポイントシュート」新島泰暁はちいさく笑った。
「おい」
「悲しいですよ。親が死んだことは。ただあまり実感が湧かないだけで。姉も……、悲しんでますよ」
姉、という言葉を口にしたとき、新島泰暁の瞳はわずかに揺れた。地面に転がったバスケットボールをみて、彼はとても静かに言った。
「姉貴が決めたならそれが俺の意見ですよ」
ザアッという早春の冷たい風が二人の男のうえに吹いた。
*
新聞記事の写真にあった、若木のように伸びやかではにかんだ笑顔の少年は、その面影を残した輪郭を凛々しいものにさせていた。ユニフォームを着て仲間と写る男子高校生――姉に似た二重瞼の線。
「……どうするのも最終的にはきみたち遺族の自由だが、供述調書くらいは確認しに来てもよかったんじゃないのか。……せめてお父さんが亡くなったときの状況くらい知っておくべきだろう…………遺族なら」
遺族ならという言葉を、顫えずに言えただろうか。鷹宮は口を手で覆っていた。
――――動揺しているのか、この遺族をまえにして。
「鷹宮さん、だっけ? こだわりますね。警察って仕事柄そうなんですか? それとも、理由は別のところにあるんですかね」
鷹宮はギクリとした。
風がまた吹いた。あの日の――――雨の音のようだ――――視界は黒いアスファルトに覆われる。雨粒が跳ね返る部分が白くみえる。暗い雨のなかで手が濡れていた。
あの日の朝、夜に雨が降るという天気予報を気にすることもなく傘を持たずに家を出た。夕方、両親は互いの出先でばったり会ったらしく食事をして帰ることになった。それが鷹宮の通う大学の近くで、俊樹もどうだと誘われた。行くつもりで返事をしたものの、試合を間近にひかえ練習があった。そのうえ、他のバスケ部員の誕生日会と重なっていてどうしてもと請われ、そちらに先に顔を出してから向かうと電話で話した。雨は降りだしていた。
練習が長引き、その影響で退席が思いの外遅くなってしまった。間に合いそうもないから先に帰っていてくれと連絡したが、雨脚がはげしくなっていたので、両親は傘を持たない彼を車で駅まで迎えにいくと言った。別にいいのに、濡れて帰っても――――そう答えて、それが最後だった。
視界が悪いなか、両親の乗った車はセンターラインをはみ出してきた対向車を避けようとして運悪くスリップ、速度をゆるめることのないまま道路脇の電柱に激突――――凄まじい救急車のサイレンと交通事故があったらしいことを駅の改札口で耳にした鷹宮は、虫の知らせとばかりにその方向へ走った。
救急車や警察車両のランプが明滅するなか、視界はまぶしいはずであるのに、思い出す景色はいつも黒いアスファルトに叩きつける雨だった。
鷹宮警察官の顔がみるみる蒼白になっていくのを、新島泰暁は不審げな面持ちでみていた。
「…………鷹宮サン、あんた警察官に向いてないんじゃないですか?」
彼は皮肉げに言った。
「なんだ。俺はてっきり……有紗を追いかけてきたものだと」
速くなっていく動悸と滲んできた冷や汗とで冷静さを欠いていた鷹宮は、新島泰暁の鋭い指摘にふたたび息を呑んだ。
「どうして…………」
新島泰暁は鷹宮を嘲笑した。
「図星だったのか。……そこまで勘は鋭くないはずだけど、走ってここに来たあんたをみてまずそう思ったんだよ。そうか……、あんたは気づいてなかったんだな」
「なんのことだ」
「あの日、病院であんたと話したとき。自分がどんな顔で有紗をみてたか知ってるか。俺は、よくわかるよ。俺にはわかる。有紗を――――、姉を、好きだから」
【六】
…………好き?
弟が、姉を。性愛の対象として?
“「好き」とはどういう意味だ?”
“そのまんまの意味だよ”
どうやって勤務を終え、帰ってきたのかも定かでなく、気がつけば新島有紗の渡した名刺を手に、鷹宮はベッドに身を投げていた。
「Rコーポレーション、営業担当……」
彼女は営業なのか。新島有紗の潔癖そうな印象から、鷹宮は意外の感に打たれた。それはざっと調べた限り中堅の医療機器メーカーで、新島姉弟の住む家から電車で30分ほどの距離だった。
“きみの姉さんはそのことを知っているのか? きみたちは血の繋がった姉弟なんだろう?”
“れっきとした俺の実の姉ですよ、新島有紗は”
“まさか、きみらは…………”
“鷹宮さん、あんたが想像してるようなことはないよ。有紗は、弟の気持ちを知ってる。でも俺がなにも言わないから、あのひともなにも言わない”
“…………実の姉だろ? 正気か?”
“あんた、自分の顔を鏡でみて言ったらどうです? 俺よりも下種な表情してると思いますよ”
“実の姉を…………、どうして、どうやって――――”
“そんなの俺が訊きてぇよ”
“――――――”
“でも……、これは俺だけの気持ちだ。あんたには関係ないよ”
鷹宮は病院で目にした新島有紗のようすを思い返した。葛藤の滲む疲れた横顔……なぜ。
「なんでっ……、そんな弟のそばにいるんだよ……!」
鷹宮は呻いた。
バスケットコートのなかを駆け、軽々とジャンプしシュートを放っていた新島泰暁の姿――かつての自分に重なる――。
なぜ、なぜ離れないのだ。彼女も弟を、新島泰暁を好きなのか、姉弟の枠を越えて? そんなはずはない。そんなことは許されない。そんなことは――――許したくない…………。
なにか果てのないものを見透すような眼差し、それはどれほど手を伸ばそうともけっして鷹宮には届かない廉潔ななにか。
きみはなにを見ているんだ。なにを思っているんだ。
たった二回会っただけで、職業上の権限をつかって、自分のしていることは倫理を逸脱している。新島有紗へのこの執着はなんだろう。
弟に縛られているなら、その妄執の鎖を断ち切れ。そんな世界は棄てろ。
かつて知覚したことのない炎々とした情欲が新島有紗へ向かうのを感じた。愛ではないその炎で、あの女を嘗め尽くしてしまいたい…………。鷹宮は瞼を閉ざした。
*
新島有紗は父親の部屋で、寝転んでぼんやりと天井を眺めていた。部屋は生前父が使っていたときのままでほとんど掃除もしていない。もとより整頓されていたし、物を動かしたりもあまりしたくはなかった。折りたたみの文机のうえに、最後に家族四人で干潟へ旅行したときの写真が飾られていた。
狭い和室に、掛け時計の硬い音が響く。
鈍重な思考は、彼女を追懐の海に沈める。
あれは、彼女が中学三年、弟は中学一年生のとき――、県の夏季大会の決勝戦に出場する泰暁を応援に行った。父は前日から風邪気味だったので、有紗ひとりで向かった。遅れて会場へ到着した彼女は、今まさに弟が試合の最中なことも忘れて弟にメールを打った。“南側2階C列に座ってる”
怪我をした三年生の代わりに彼が急遽出場することになったらしく、やや落ち着かないようすではあったが順調に試合はすすんだ。彼女は弟が何年バスケットに勤しもうとも、それにまったく明るくなかったが、弟が生き生きと動き回るさまは彼女を和ませた。
そして試合最終の第4ピリオドが終わったが、両者同点のため、どちらかが多く得点するまで試合続行となった。
相手チームの選手がファウルとなり、弟がフリースローを打つことになった。決まればそのまま勝つという場面だったかに思う。
審判からボールを受け取って5秒以内にシュートをしなければならない――そのときに、弟は、姉をみつけて笑った。姉がどこにいるのか知らないはずの弟が。
昨年亡くなった母が、“あなたたち、笑い方がそっくりね”とよく言っていたその表情で。
初夏の日差しに、緑が溶けこんだような。爽やかな風がそこに広がるような。
ふいに感じた痛み、優越、歯がゆさ、そして淡い苦しさ。
なにかが遠くで壊れるような音。ネットに吸いこまれたボールと、歓声……。
「……泰暁」
有紗は寝返りをうって身体を丸めた。
なあに、姉さんという弟の声がした気がした。あのときは、ごめんねと有紗は零した。
……あのとき?
――うん。泰暁が高三のとき。県大会の決勝戦のとき。
……姉さん、やっぱりあの日試合観にきてたんだね。夢か幻じゃないかって思ってた。
――行ったよ、もちろん。でもね……。
――知ってる。俺がコートから姉さんを見つけたから……、見つけてしまったから、あのまま帰ったんだよね。
……うん。泰暁がわたしをみて笑って、それじゃいけないと思ったの。泰暁は、なんにも気がついてなかったから、もうどうかして離れなきゃいけないって。
――俺、超能力でもあんのかな。なんでだか、姉さんのいるところはわかるんだ。
――笑いごとじゃないよ。
――うん、ごめん。でも、探さずにはいられなかったんだ。探して、その先にあなたがいたから……。
……泰暁が、すごくしあわせそうな顔で笑うから。わたし、苦しくなって……。
……うん。
――世界に、わたしと泰暁だけしかいないみたいに感じて、わたしはそれが嬉しくて、あなたがわたしを想ってくれていることがうれしかった……。
――うん。
……置いていって、ごめんね。
泰暁が高校三年で県大会決勝戦に出場したとき、有紗も会場にいた。試合は白熱し、そして、彼はまた姉をみつけた。会場のどこに座っているか伝えもしていなかったのに。
泰暁は有紗をみつけた。みつけて、彼女を見つめて、笑った。中学一年生のあの試合のときのように。いいやもっと、彼の想いを瞳にのせて。
泣きたくなるようなまぶしさだった。弟の笑顔も、彼の有紗への想いも。本人がまだ気づきもしていないだろうに。
有紗はその場から駆け出した。ふり返ったとき、歓声が会場を包むなかで、弟が途方に暮れたような顔でコートに佇んでいた。
まるで、彼ひとりだけが世界から取り残されたように。
…………事故で亡くなる少しまえにもね、お父さんに訊かれたことがあったんだ。“泰暁が、有紗になにか言っていないか”って……。
お父さん……なにか気づいてたのかな。でももう、それは終わったんだよね。ほんと言うとね、ホッとしたんだ。わたし、ひどいよねぇ……。お父さん亡くなっちゃったのに。
泰暁、ごめんね……。
…………いいよ、自覚がなかった俺が悪かったんだ。……姉さん。姉さんがしたいように生きてよ。俺の気持ちは変えられないんだ。だからぜんぶ、あなたが望むようにしてくれていいから。
*
寝入ってしまった姉の身体に、泰暁は毛布をかけてやった。
姉の手をゆるく握って、彼は言った。
「姉さんにだけは誠実でいたかったんだ。でも、ちゃんと話したことはなかったよね。あなたは永い間、ずっと独りだったよね。ぜんぶ自分ひとりで決めて、だれにも相談せずに今日だって……」
姉の疲労の滲む目の下を、泰暁は指の背でそっと撫でた。
今朝、泰暁が起きたときには姉は身支度を終えていて、父の事故の事情聴取に行ってくると簡潔に告げた。一緒に行こうかと尋ねたものの、姉の空気はそれを拒否していた。警察署の場所は彼の卒業した県立高校のすぐ側だった。
泰暁が高校一年と二年のとき、姉は文化祭に来てくれたが、高校三年のときは来なかった。バスケの県大会決勝戦をさかいに、彼女は泰暁からなるべく遠ざかっていた。今日も、北高校の近くを彼と通ることに、姉のなかで折り合いがつかなかったのだろう。
それでも、泰暁は姉が心配で警察署の近くまで行き彼女を待っていた。鍵のかかっていないバスケットコートでボールをみつけ、遊ぶようにしている弟を目にして、姉へ笑顔を向けた弟をみて、彼女はなにを思ったのだろう。
用があって急ぐからと言いおいた物寂しげな瞳。
「……姉さん。俺は姉さんを苦しめたね。姉さんが俺を置いていったんじゃない。姉さんがずっと独りだったんだよ」
父の事故を知り、いよいよ危ないと医師から聞かされたときの姉の表情を、泰暁は衝撃をもって受けとめていた。
青ざめた肌、著しい当惑、そして――安堵……。
姉弟の秘密にも満たない秘密、泰暁ばかりが負うはずの業の露見を、姉は父から守ったのだ。その安堵ではなかったか。父が泰暁の想いについてなにも知らなかったとは思わないが、聡い姉が、父の憂色を――それを抱いていたとしたら――悟らないはずはなかった。
高校受験をひかえていた姉は、第一志望だった県立高校をやめて女子高を受験した。進路を変更したと聞いたのは、泰暁が中学一年の秋だった。進学した大学も女子大で、二年間入寮の制約がある寮へ入った。一旦は実家へ戻ってきたものの、泰暁の大学一年のときのバスケ部員との喧嘩を境目に一人暮らしをはじめた。就職後も実家には帰らなかった。
だがおよそ5年勤めた会社が合わなかったのか、私生活でなにかあったのか、姉は半年前に転職し実家へ戻ってきた。
思慕したひとは、憧憬そのものだった。
耳が出るほどの短い髪も、二重瞼も、装飾を削ぎ落とした暗い色の服装も、彼女の纏う廉潔な影も。
“おかえり”と言ったとき、“ただいま、泰暁”と応えた爽涼で、親愛のこもった笑顔も。
泰暁はちいさく嘲笑した。
「あの鷹宮っていう警察官……、あなたのことを気にしてたよ。なんもわかってねぇくせに」
父の訃報を聞いて青ざめながらも安堵の息を吐いた姉を、愕然としてみつめていた男。猥りがましく渇望するかのようだった。あの男は、姉が恐れているものを知らない。そして、自分も――――、
「俺は、この炎のゆく先を知らない……。果てがあるなら、それを見てみたい」
触れることが叶わないひと。姉へむかう切々とした炎。火影として落ちる、深い諦め。
――――倫理の果てに。この炎は昇華するのか。
【七】
両親の13回忌をつつがなく終え、鷹宮は玄関先で出席した親戚を見送っていた。じゃあ、次は17回忌だね。命日には墓参りするよ、また連絡すると挨拶をして彼らは帰っていった。
断ったのだが、叔母は父の兄をつうじて結局香典を届けた。鷹宮のややうんざりしたような呆れたような思いが顔に出たのか、最後までその場に残っていた父方の伯父は、苦笑まじりに諭した。
“この家は叔母さんにとっても実家だろう。お姉さんとの思い出がきっとたくさんあるんだよ。最後までご両親の結婚に反対していた叔母さんが、きみのお母さんがここに住むならってことでやっと納得したんだから”
両親を比較的はやく亡くしていた母姉妹にとって、この家を手放すことはでき兼ねたのだろう。当時この家に住んでいたのは鷹宮の母で、叔母は独立して暮らしていた。
“姉妹の絆じゃないか? その当時たった二人しか家族がいなかったのもあって、よけいに思い入れがあるんだよ、きっと”
“……きょうだいって、そんなに特別なものなんですか”
“まあ、血の繋がりはだれにも切れないからねぇ。それと叔母さんがまだこだわるのは―――”
鷹宮の脳裏に浮かぶのは、一組の男女の影だった。新島有紗と、新島泰暁。
兄弟姉妹のいない鷹宮に、それがどのようなものかわかるすべはなかったが、新島姉弟の異様さは際立っていた。
明日は、新島有紗がふたたび事情聴取にくる日だった。彼女に生々しい欲望を抱いたことが、鷹宮は急激に後ろめたくなった。不快な情動をふり切るようにして、彼は家を出た。
*
花屋で誂えてもらった簡素な花束を、その場所にそっと供えた。
欅並木がはさむ、片側2車線の大通りの交差点。鷹宮の立つ交差点のうしろ――西側は、市営公園の入り口がみえ、クスノキやシラカシの常緑樹が繁り、ツゲの低い生垣が青々と沿道を飾っていた。ときおりツグミの高い鳴き声が響き、木漏れ日がさす平穏な光景に鷹宮は皮肉を思った。
交通事故自体は頻繁に起こるが、死亡事故は年間で数えるほどである。ただ、交通課に配属されてからの七年間で、現場で手を合わせた数は二十を超えていた。こうしていることを、だれにも話したことはない。
罪滅ぼしではないつもりだった。だが目を閉じて事故現場で手を合わせるとき、いつも身勝手な無念さに苛まれる。両親の無念に思いを馳せてのことではない。過ちを、忘れたい。忘れさせてほしい。あの日以来、暗い雨にふかく濡れて、どうにもならない心を濯いでほしい。
“血の繋がりはだれにも切れないからねぇ。それと、叔母さんがまだこだわってるのは、俊樹くんがバスケットをやめてしまったことだよ。でも息子が今や立派な警察官になって、二人とも喜んでいるはずだよ……”
――――ああ。また、雨の音だ……。
いまこの瞬間、世界中が雨で覆われればいい。だれのうえにも降りそそいで、後悔も、怒りも、雨のもとに鎮まれば――――
「――――鷹宮さん……?」
傍にひとが立つ気配がした。鷹宮は笑い出したくなった。声を聞くまでもなく、それが新島有紗であると目を閉じていてもわかったからだった。
「――新島さん」
「……お仕事ですか?」
鷹宮はゆっくりと立ち上がり、口を濁した。「いえ、そういうわけでは……」
「新島さんは、これから外出ですか」
愚にもつかないとはこのことだろう。鷹宮警察官との突然の遭遇に、新島有紗は驚きと警戒した表情を解いていない。
「いえ、わたしは別に……」
不意に理不尽きわまる感情が彼を突きあげた。
――こんなところで死ぬ奴が悪い――――。
――どうせ周りをよく見ていなかったんだ。
――いっそのこと幸せだろう、長い時間苦しむよりは。
「――――――」
一瞬、前後左右の感覚が消えた。耳をふさいでもだれかの声が浸透してくる。
“きみのせいじゃない。諦めることはないじゃないか”
――迎えなんかいらないと言ったのに。
…………雨だ。雨が降っていたから。
――バスケはやめる。……なんのために?
だれも悪くない。俺のせいじゃない。
なんでやめなければいけなかったんだ。
もうバスケに関わりたくない。
“罪ですらない”
やめたくなんてなかった。両親が勝手に死んだんだ、俺は悪くない。
死ぬほうが悪い。
「鷹宮さん……!」
鷹宮の肩を揺さぶる新島有紗の声で、我に返った。
「大丈夫ですか? 顔色が……。急にしゃがみ込まれたのでどうされたのかと……」
「平気です……申し訳ない」
荒い息を吐いて鷹宮は答えた。それより用事があるのではないかと、この状況を利用して尋ねた男の狡猾さを、新島有紗が理解していたかどうか。
「いえ……。事故の現場を見にきただけなんです。鷹宮さん、まだ顔色が悪いですよ。どこかで少し休まれたほうがいいんじゃないですか?」
そう覗きこんできた新島有紗との距離に、鷹宮は純粋に驚いた。
「じゃあ……、ちょっと付き合ってもらえますか」
鷹宮は、二人のうしろ側にある公園を顎で示した。
【八】
チチチ……と、尾を引くツグミの高い鳴き声がふたりの頭上から降っていた。冬には落葉する欅とちがって、公園は常緑樹が多く繁っていた。日向と日陰がまばらに地面に落ちている。
「のどかですね……」
どこか感嘆をふくんだ声音で、新島有紗はそばにあるシラカシを見上げた。あいかわらず地味で淡泊な服装ではあったが、彼女の髪も睫毛も、陽の光をしっとりとあびていた。
「大変なことが自分の身に起こっても、自然は変わらないんですね。不思議だし、すこし悲しいです」
「その気持ちはわかります。わたしも両親を交通事故でなくしたので」
彼女は息を呑んだらしかった。歩いていた足をとめて「……すみません」と謝った。
「新島さん、座りませんか」鷹宮は遊歩道脇のベンチを指差した。
「今日あそこに行ったのは捜査じゃありません、もちろん。あなたを驚かせてすみません」
鷹宮が謝ると、新島有紗は恥じるように目を逸らせた。
「いいえ……。それに、花をありがとうございました。お供えをしてくださる方がいるなんて思っていませんでしたから」
先週会ったときと比べて、疲労の色は少し彼女の顔から退却していた。
「警察官になってから、亡くなった方がいればその現場に行って手を合わせているんです。遺族には会わないように気をつけていました」
今回にかんしてはそれは嘘だった。新島有紗に会えることを期待したし、話ができないかとも思っていた。
彼女の瞳は、鷹宮に対しての警戒をいまだ解いていないことを物語っていたが、鷹宮の胸にはそれでも蠢く炎があった。むしろその警戒こそが生身の彼女の発露であり、警戒のその膜に手を浸してみたい――潔癖さが垣間みえる目元に触れて、彼の心を見透してほしい――憐れで滑稽な鷹宮の相反する情動を統御してほしくもあった。
「鷹宮さん……雨がお嫌いなんですか?」
「え――――?」
「よく聞き取れなかったんですけど、さっき“雨のせいだ”って言われたように聞こえたんです。声をかけるまえにあなたを見かけたとき、なんだか苦しそうでした」
「そうでしたか……」
チチチと鳴いてツグミが二人の座るベンチ脇にとまった。人慣れしているのか、首を傾けて人間ふたりの様子を見ていた。
「両親が亡くなったのは雨の日でした。あのときの自分の惰性が、俺は許せないんだと思います」
新島有紗は、やや茫漠としたような朧気な眼差しを彼女の足先に落としていた。そのどこかバランスを欠いたような姿態。
悔しいですよと彼女はつぶやいた。
「この間、鷹宮さんがおっしゃったように、父が亡くなって悔しいし、悲しく思います」
「新島さん――」
チチッと小さく鳴いたツグミがベンチを飛びおりて、ピョンピョンと跳ねて地面を嘴でつついた。新島有紗は少し目元を和ませた。
「でもまだ実感があまりなくて――」
「弟さんも同じことを言っていましたよ」
彼女は目にみえて肩を強ばらせた。
「弟に会ったんですか……? いつ……?」
「新島さんが――あなたが警察署に来られた日ですが」
鷹宮は、新島泰暁のこちらを嘲笑った挑戦的な態度を思い返した。新島有紗は、しずかな戸惑いを瞳へのせた。
「泰暁は、なにか言っていましたか」
泰暁、と彼女が弟の名を口にしたことに、喉がひりつくような痛みが鷹宮に走った。
新島有紗と初めてまともに口を利いたときの――――薄氷を踏むような――踏んで、亀裂がたちまち広がっていくのをなすすべもなく、息をつめて見ているだけの感覚が甦った。
けれど訊かずにはおれなかった。同時に鷹宮は利を図った。新島有紗の関心を彼に引くことができないだろうかと。
「それは俺からも訊きたいことなんです。……新島さん、弟さんはあなたになにか言ったことはありませんか」
新島有紗はあきらかに顫えた。鷹宮の目に狡猾な光が宿った。
「なにか、とは」
「弟さんはあなたに特別の感情を寄せているようにみえます。あなたが、そのことに悩んでいるのではないかと思ったんですよ」
「特別の感情?」
「お父さんのこともあって、弟さんがあなたに傾倒しすぎているということはありませんか。俺は――」
「泰暁がわたしに依存しているという意味でしょうか」
「もっと言えば執着というようなことです」
「あの子が小学生のときにわたしたちは母を亡くしました。姉弟ふたりで寄り添って……、鷹宮さんもご両親を亡くされたのなら、だれかに頼りたい気持ちがあったとして、それは自然なことなんじゃないんですか」
「それはそう思います。でも行き過ぎてはいませんか」
「……わたしたちがそう見えたということでしょうか」
「……そうです」
新島有紗は鷹宮に対してもはや警戒をあらわにしていたが、薄氷を背にしつつもその寸前で踏みとどまっていた。ここを崩せば彼女は氷に足をつけざるを得まい――鷹宮は焦れた。
「新島さん」
「…………」
きみたち姉弟は危うい、と鷹宮が口を開きかけたとき、新島有紗が静かに言った。
「……鷹宮さん、わたしの質問に答えてください。泰暁はわたしに、わたしたちに関してなにか言っていましたか」
その瞳のなかに、緊張した、けれども厳しく、どこか決意を思わせる凛々しさを見て取った鷹宮は、図らずも圧倒された。なにとも知れない果てを見透す深く遠い眼差し。急くような思いで鷹宮は新島有紗の両肩を掴んだ。彼女は驚きに硬直した。
「だったら言うが。あの弟は姉であるきみを好きだと言っていたよ。きみはそれを知ってるのか? きみはあの弟をどう思っているんだ」
新島有紗は大きく目を見開いていたが、やがてふるえる声で告げた。
「放してください。……それに、わたしたちの関係がどうであろうとあなたに関係がありますか」
「――ないな。ない。でもきみは辛そうだった。初めて病院できみを見た日、きみはあいつの腕に抱かれて――――」
「そんな言い方はやめてくださいっ!!」新島有紗は大声で叫んだ。
「だからそう見えたってことだよ!!」鷹宮も声を張りあげた。
「そう見えたんだよ。聴取のときも思ったが、きみたちはこれからどうやって生きていくつもりだ? きみは、自分の人生を歩むことなくずっとあの弟の傍にいるのか? 二人で話したときもそうだったが、あいつは異様だよ。まるできみしかこの世界に存在していないみたいなことを言う。そんな人間のそばで正気を保てるか? 実の弟に愛されて、きみは嬉しいのかっ!?」
彼女は鷹宮の腕を振り払って立ち上がった。つり上がった眉と紅潮した頬に、鷹宮ははじめて新島有紗に生命力をみた。
「……鷹宮さん。ご両親を亡くされたとき、どんな気持ちでしたか?」
「は? どうって――――」
「さっき言ってましたよね、自分の惰性が許せないって。自分で自分を許せないって、どんな気持ちですか」
「それは――――」
「言葉にできませんよね。わたしも同じです。あの子への思いなんて、言葉にできません」
鷹宮は二の句が継げなかった。彼女の、新島有紗のあまりの潔癖さと頑なさに呆然とした。
「明日……また警察署に伺います。できれば父の遺品を引き取らせてください」
そう簡潔に告げて去った新島有紗に、鷹宮はしばらく動けなかった。そして不意に笑いがこみ上げてきた。
「く……っ。ははっ、はははっ…………ははははっ」
新島有紗の関心を引こうとした自分の滑稽さと、してやられてような痛快さ。さすがはあの弟に慕われるだけある。彼女の警戒と防御は天性の勘の成せる業かもしれない。あの弟が傍にいるのだ。あの弟の傍にあの女はいるのだ。鷹宮が棄てた世界に軽々と触れている新島泰暁の傍に。
スリーポイントシュートを放って笑っていた新島泰暁を思い浮かべながら、鷹宮は自分の手をみつめた。
――――思い出は、いつも苦い味で終わる。コートを駆ける爽快さなど、とうに失った。
鷹宮はベンチに頽れて笑いつづけた。いつの間にか、愛らしいツグミは姿を消していた。
【九】
迂闊だった。自分がはじめにもった懸念は正しかった。
父親の遺品が入った紙袋を畳に乱暴に放って、新島有紗はズルズルと座りこんだ。
鷹宮警察官と公園で話したあとすぐ、彼女は警察署へ向かい理由をなんとか繕って父の遺品を引き取ってきた。
もうあのひとには会えない……。
鷹宮警察官の獰猛な眼差しを思い出して、有紗はちいさく顫えた。
「泰暁……」
――姉さんがしたいように生きてよ。俺の気持ちは変えられないんだ。だからぜんぶ、あなたが望むようにしてくれていいから。
あれは、あの言葉は夢ではなかったのか。
予想はしていたはずなのに、赤の他人から弟の想いを聞かされた衝撃は、いまだ彼女を揺さぶっていた。
知っていた。弟の気持ちなど、とうに知っていた。けれど、知ってどう向き合えというのだ? 弟はなにも言わない。言うはずもないだろう。そんな秘密にもならない秘密をどう明かせというのだ。
有紗は頭を抱えた。と、乱暴に放った紙袋から一冊のパンフレットが飛び出しているのが目に入った。大手旅行代理店のロゴと「九州・有明海」の文字とがあった。
有紗は反射的に、文机の上にある写真をみた。母が亡くなるまえ、有紗が中学二年、泰暁が小学六年のとき家族四人でめぐった福岡・佐賀・長崎・熊本に囲まれた干潟の海。写真は、熊本県の御輿来海岸の夕景を背に撮ったものだった。引き潮と夕陽が重なってみることができる日は、一年のうちでわずか十日ほどだという。その僥倖にめぐりあえた日だった。浅い海に広がる幻想的な砂紋。海が夕陽を映し、あたたかくしっとりとした色に染まる一面の景色。
“ふたり合わせて有明になるように――――”父の言葉だ。新島有紗、新島泰暁――二人の名前でひとつの言葉になる――有明。
有紗は息を呑んだ。父がこのパンフレットを持っていた意味を、ほぼ直感的に理解した。家族三人で、また有明海を旅行するつもりでいたのではないかと。そしてその意味は、その意味するところは――――。
彼女は切羽詰まったようすで携帯電話を取り上げた。喉がカラカラに乾くような心地だった。彼は出張中だったがすぐに電話に出た。弟の声には驚きが混じっていた。『姉さん?』
――自分と弟は、こんなふうに通話をしたことがあっただろうか。彼にずっと距離を置いてきた自分は、彼に話しもしなかった。
「泰暁、泰暁は、自分の名前の由来を知ってる?」
息が苦しくなって、有紗はまた写真をみつめた。
『……名前の由来?』
呆けたような返事と、街の喧騒が聞こえてくる。
「お母さんが亡くなるまえ、みんなで旅行したの憶えてる? 九州の――」
『有明海だろ? 憶えてるけど、突然どうしたんだ?』
「夕陽を背に四人で写真を撮ったのも?」
『うん、憶えてる。……姉さん?』
有紗はあふれた涙をとめることができなかった。
「泰暁……っ、ごめんね泰暁」
視界が滲んでゆき、写真の夕陽が霞んだ。
『――――』
「ごめん……ごめんね。あなたは弟なのに、わたしはなんにも知ろうとしていなかった。あなたを置いていったのに、あなたに向き合おうとしなかった。泰暁がわたしを想ってくれていること、ほんとうはうれしかった。でもこれ以上なにができるの? これ以上先へなんか進めない。お父さんも亡くなって、もう失うものなんかないって思ってた。でも、泰暁と離れて生きていくことなんて――――」
彼女は悟った。弟がずっと同じ場所から姉をみていたことに。彼女が離れていっても、帰ってくる場所はいつも変わらなかったことに。
とまどった空気、それでも弟の体温を傍に感じるようだった。
『……姉さん、泣いてるの? なにかあった?』
有紗は込みあげてくる嗚咽を必死に抑えた。
「鷹宮さんが……、鷹宮さんにさっき偶然会ったの。正気で泰暁の傍にいられるのかって聞いてきたよ。どうやってこれから生きていくつもりだって。わたし達は、とても普通じゃないように見えたって。わたしはろくに切り返せなくて――――」
パタパタと涙が畳へ落ちた。影のように暗い、現実離れした世界へ絡めとられてしまいたいのか、掴んでいたと安心していた倫理の糸を自ら手放してしまっていたのか、有紗にはもうわからなかった。緑と日差しが溶けこんだような弟の笑顔がずっと彼女の心にあったことだけは事実だった。
弟は穏やかでとても優しい声で、彼女へ応えた。
『――――姉さん。俺は自分の気持ちを後悔したことなんてないよ。あなたが、有紗が俺の姉でよかった。姉さんの弟に生まれてきてよかった』
有紗は言葉を失った。
『俺は卑怯なのを自覚してる。でももう隠すのはやめるよ……姉さん』
「泰暁――――」
『有紗。俺は有紗みたいに笑ってきただろう? 有紗と同じように笑えばもっとあなたに近くなれるんじゃないかって真似してたんだ。ずっとそうして笑ってきた』
きみしかいない。俺には、ただ有紗だけだった。と弟は言った。
『“これ以上先”なんてなくていいよ。俺は姉さんを苦しめてきた。だから姉さんのしたいように生きてよ。あなたが離れても、俺のことを嫌っても、消えろと言われても、あなたが誰かを愛しても、あなたは誰のものにもならない。俺はそのことを忘れないから。姉さんは、姉さんだから』
有紗は泣き伏した。
【十】
姉が転職先に落ち着いてから三ヶ月ほどすると、泰暁は姉の勤務先から地下鉄で二駅しか離れていない製薬会社に転職した。姉はまた自分のもとを去るかもしれないと予期しつつも。転職のことを告げると、姉は「お祝いしようか」と言ってくれた。医療機器メーカーへ転職した姉に倣うかのような弟の転職へふれない彼女の心中は量れない。陰のみえる親愛のこもった笑顔。
彼女は豪勢なケータリングを手配してくれ、その中に入っていたチラシをみて弟に問うた。「もうバスケはしないの?」
ケータリングの会社があるプロバスケットボールチームのスポンサーであるらしく、チームのPR業務や企画から営業まで一手に担っているという宣伝だった。「しないよ」と彼は答えた。
「嫌いになったわけじゃないけど、プロになりたかったのでもないし」
姉が自らバスケットのことに水をむけるのは珍しかった。「そっか」と彼女はつぶやいた。手を動かしながらうつむいた姉の横顔はみえなかった。
「行きも帰りも一緒にならなさそうだね」と姉が言った。
「そうだな。不規則だろうしなぁ」
「製薬会社ってキツそう」
「薬の情報を山ほど仕入れて姉さんに流すよ」
「スパイみたいな言い方しないで」
「ははっ、ごめん姉さん。そろそろ父さんが帰ってくるし準備急ごう」
「泰暁のお祝いなのに、変なの」
「俺がしたいからいいんだよ」
自分と似た面立ちの涼しい笑顔をむけた姉へ、切々として立ちのぼる炎。彼女だけは特別で、彼女に近づきたくて、彼女に追随するように生きてきた。
“姉へは誠実でありたい”など、笑止千万な言い訳だった。今ならわかる。姉へ彼の想いを打ち明けて、姉の裁可を仰ぐことをこそすべきだったのだ。泣きながら電話してきた孤独な姉へ縋るのではなく。
「……確かめに行かないといけないか」
鷹宮警察官から弟の気持ちを知らされたと、電話のなかでほのめかした姉の苦しそうな声が泰暁の耳に木霊した。
*
なかば放心していた鷹宮に、同僚が気安く声をかけた。「早く片付いてよかったな。それに比べて俺の案件のややこしさといったら泣きてぇな。言い分が食い違うってのがほんと厄介だよな。毎度毎度いやになるぜ」
鷹宮は「ああ」とだけ返して席を立った。先日事故現場で顔を合わせた新島有紗は翌日は姿をみせず、あのあと父親の遺品を引き取りに警察署まで来たらしい。邂逅の翌日は翌日で弟の新島泰暁から連絡があり、今日は都合が悪くなったと告げられた。四日後に新島泰暁がそちらに伺うこと、供述調書にサインをすること、遺族から量刑に関する希望はないということを彼は強く主張し、電話は切られた。
そして今日、約束通り新島泰暁が署を訪れ、鷹宮が読み上げる供述調書になんの異議も唱えずあっさりとサインをし、帰っていった。これで新島姉弟との縁は切れた。
部屋から出るさい、新島泰暁が鷹宮にじっと目を据えて訊いてきた。“鷹宮さん、あんた姉貴が好きか?”
鷹宮はたじろいで“そんなわけはない”と返した。
“じゃあこれで、俺たち姉弟との関わりは切れると思っていいんだな”
“いうほどの関わりなんかない”
“その言葉を絶対に忘れるな”と新島泰暁は凄んだ。警戒と若干の敵意、それに諦めのまじった複雑な光が彼の瞳にはあった。新島有紗のそれよりももっと濃い、重く暗い光が。
――暗い――雨の――音が―――。
「鷹宮さん?」と訝しげな新島泰暁の声がした。鷹宮は顔半分を片手で覆っていたことに気づいた。
「雨が……」とつぶやいたらしい。雨? と新島泰暁が片眉をあげて聞き返すのをどこか遠くで拾っていた。弟の双眸を姉のそれと勘違いしたのか。「雨のせいで両親は死んだんだ。きみには言ったよな?」
新島泰暁は虚を突かれたような顔をしていたが、焦点が定まらない鷹宮の二の腕を強く掴んで支えた。
「おい」
「ずっと雨が降っていればいい。罪が罪でなくなるなら」
「――――」
「きみの弟はバスケができていていいな。俺は棄てたくなんてなかったよ。勝手に死んだほうが悪いんじゃないか。自分のせいだろ、ぜんぶ」
新島泰暁は鷹宮にれっきとした敵意を向けた。怒りの焔が静かに燃える。
「意味はわからないが……、いまそれを俺に言っていいと思ってるのか。やっぱりあんた警察官に向いてねぇよ」
ドンッと部屋の外の壁に鷹宮を押しやって新島泰暁は冷然と言い放った。
「二度と姉に関わるな」
鷹宮は壁に背をあずけて髪を掻きあげながら、「誓った覚えはない」と新島泰暁の遠くなってゆく背へつぶやいた。
【十一】
心は、胸にあるものだとばかり思っていた。心の所在を真剣に考えたことなどなかった。けれどほんとうはもう、暗い雨に濡れたあの日から、ずっと足元に落ちたままだ。降りつけ、叩きつけられたぶんだけ重く湿った心は、持ちあげることができない。抱えようとしても、触れたそばからぐちゅぐちゅと音を立て水が手を浸食するだけだ。暗い滴が指を伝っていただろう。
21歳からこの12年間、バスケットにかかわるものを排除して生きてきた。NBAの試合をテレビで観ることも、スポーツニュースをチェックすることも、ボールに触れることも。忘れられるわけはなかったのに。罪ですらない自分の罪、後悔とふかい祈り、なぜ自分が向き合わなくてはいけないのかという身勝手な怒り、総て――すべて、だれにも触れられることもなく救われることもなく転がったままだ。
願ったではないか。心は降る雨に濡れてしまいたいと。打ちつけられ透水し、もとの形もわからないほどに濁り破れた。悲しむことはない。願いは届いたではないか。拒絶されたと憤ることもない。はじめからだれにも立ち入らせはしなかったのだから。昏い忍び笑いが洩れた。
冬のさいごの名残りとばかりに冷たい風が鷹宮の顔に吹きつけた。とうとう、二回行われた公判のいずれにも新島姉弟は姿を現さなかった。これで関わりはなくなるはずだと新島泰暁は言った。
度を越した新島有紗への執着を、鷹宮は認めるほかになかった。この一週間、名刺に記載された彼女の携帯電話へ、彼らの自宅へ、姉弟の勤務先へ、鷹宮はつながりを求めた。姉は会社を辞め、弟は出張中という返答をもらった。本当かどうか知れたものではなかった。だが彼らの自宅に明かりがついていることはなかったし、新島泰暁が職場へ出退勤しているようすもうかがえなかった。万策は尽きたのだろう、もとより踏み入るべき道ではない。たとえあの姉弟がひとの道を外れていたとしても。
捜査と偽って出てきた署庁舎をぼんやりとみつめた。鷹宮のこの行動が組織へ露見したとしても、暗々裡に処理されるだろう。公序など存在しないかのような組織だ。そして彼自身それを忌み嫌いつつも糺すことはない。失笑したとき、その音は聞こえた。
*
試合終盤、一本のシュートで勝負が決まるというクラッチタイム。画面を食い入るように観ていた。相手陣地のスリーポイントラインからバカみたいなロングシュートを放って命中、試合終了。これが逆転劇であったなら会場の盛り上がりは尋常一様ではなくなる。観客は総立ちになり、風船を放り投げあたりにまき散らす。もはや祭りの騒ぎで、選手はヒーローとなる。人間業とは思えないNBAの選手たちの圧巻のパフォーマンスは、感動を超越して喜劇とさえいえた。
リングと自分を結ぶ一本の道が、あの頃の鷹宮にははっきりと見えていた。そこへボールを届けつづけるだけだと、疑いもなく信じていた。まっすぐで純粋な思い。それはそのまま鷹宮のみつめる先でドリブルをしてシュートを投げた彼に重なった。新聞記事の写真にあった意志の強そうな眉と、はにかんだ笑顔。新島有紗もおなじように笑うのだろうか。
「……待ってたよ、鷹宮さん。あんたを」
リングへ入らずバックボードへ当たったボールを残念そうにみやって、新島泰暁はふり返った。
「なんでここにいる」
「それは俺が言わなきゃいけないことか? あんたがここ一週間なにをしてたか自覚はあるだろ」
憐れみと蔑みの表情で新島泰暁は応えた。バスケットコートの端に、キャリーバッグとそこに掛けられた背広を認めた。「出張していたのはほんとうだったのか」
新島泰暁は、堪えきれないという具合に哄笑した。
「なっさけねぇなあ。天下の警察官がそのザマかよ。その顔、鏡でみたほうがいいぜ」
鷹宮は思わず顔の下半分を手で覆った。
「……きみの姉さんはどこにいるんだ」
「あんたに関係ないだろ」
「教えてくれ、頼む」
こんな懇願が口から出てくるとは、鷹宮は信じがたい思いだった。
「それを知ってどうするつもりだ? もう姉には関わるなと言ったよな」
「だったらなんできみはここにいるんだ」
「あんたが引かないつもりなら、どこかで決着をつける必要があるだろ。俺の会社にも姉の会社にも行って家の近くまでうろつかれたんじゃ気が休まらないからな」
ポツリと頬を叩くものがあった。みれば、陰鬱な空がその憂いをいまにも吐き出そうとしていた。新島泰暁は空を仰いだ。姉から少し聞いたんだけどと彼は前置きした。
「鷹宮さんさあ、雨にいやな思い出でもあんの?」
その訊き方に鷹宮は一瞬、侮辱されるものと身構えたが、新島泰暁の表情は存外凪いでいた。しかし鷹宮の答えには含み笑いをした。
「きみには関係ない」
「あんたは俺のことも姉のことも調べたよな? この間言ってただろ、きみの弟はバスケができていていいなって」
「……ああ」
だが鷹宮は、そのことに関しては偶然知ったのだという事実を述べなかった。
「俺もバスケは辞めたんだよ」
彼にはしばしその意味するところがとれなかった。新島泰暁のふたたびの笑顔は、素直な青年らしさを帯びた。
「あんたほんとうに警察官に向いてないよ。どっか抜けてるよ」
「どうして……」
「なんで辞めたかって? 姉さんを侮辱されたからだよ」
それはまたしても鷹宮には少なからぬ痛撃だった。新島泰暁が新島有紗を人前で「姉さん」と形容したのは、鷹宮がそれを聞いたのは、彼らが初めて邂逅した日だけであったからだ。あの日の空間と記憶に残響していたその言葉が、かたちを伴って彼のまえに現れた。
「鷹宮さん、あんたがなんでバスケを辞めたのかの詳しいいきさつは知らないけど、自分の心とはきちんと向き合っておいたほうがいいんじゃないか。俺に言われるなんて屈辱だろうけどさ」
新島泰暁はやや茫漠としたような視線を遠くへ投げた。その眼差しに新島有紗との血の繋がりを意識せざるを得ない。
「あんたがなにを失ったなんて知らないが、それは他人と比べられるものじゃないだろう」
「きみに俺のなにがわかる」
鷹宮は気色ばんだ。すると新島泰暁は「その言葉、そっくり返す!」と声をあげながら、いきなりバスケットゴールの下まで走り出した。そして鷹宮の立つ位置までボールを投げて寄越した。
「あんたと勝負してみたいんだけど」と、無邪気にもみえる相好で彼は言った。
【十二】
「三本勝負、先に二本シュートを打ったほうが勝ち」と一方的に新島泰暁は告げた。
手にしたボールの重みに、鷹宮は抵抗を忘れた。惹かれるようにして、コートへボールをつく。ボールが地面へ跳ね返る音と、掌へボールが反発するざらついた感触に血が騒ぐようだった。
「ラインがない」とボールに見入ったまま鷹宮はつぶやいた。「ここがスリーポイントラインで」と場所を指し示し、再度新島泰暁が一方的に告げた。
気がつくと鷹宮はリングへ正対していた。
*
右へ踏み込もうにも左へ踏み込もうにもディフェンスが鷹宮に正対し容易に突破できない。が、一瞬の隙を突き右からアタックをかけてドリブルしたまま右肩を外に回してロールターン、ディフェンスとの間に風が起こったのがわかった。回転して踏み出した右足がもうディフェンスを抜いていて、腰を低く落として大きく手を広げている相手が滑稽なほどだった。そのままゴールまで駆けてシュートを放つ。
ディフェンスが感心したようなため息をついた。「……うまいな」
その余裕ともみえる態度が鷹宮の癪に障った。
ボールをついていた前傾姿勢からスッと足を引き胸を起こし、シュートするとみせかけ右手につき替えてそのまま走り込んでレイアップシュート。リングへ入ったボールは新島泰暁に奪われた。
彼は右足でインサイドレッグ、左足でインサイドレッグをくり返し、ついにスライドステップしてディフェンスを欺いたオフェンスは左から強引にボールを運んでいく。右腕で鷹宮を抑え逆側の手でドリブルし、並走していた鷹宮の正面から腰をひねって間をつくり一気にリング下へ突入した。「クソッ」と鷹宮は毒づいた。二の腕で汗をぬぐった新島泰暁は気が抜けたように笑った。
「あんた柄悪いな」
「どうとでも言え」と吐き捨てボールをリングから落ちたボールを左手で受けた。スリーポイントラインまで下がり、タン、タン、タン、タンと相手が焦れるくらいの時間をかけてボールをつき続ける。
右足を素早く引くと同時に軽く跳ねて上体を倒す、相手が身体を反らす、そこから一気に攻める……とみせてジャンプシュート。力強い動きでボールはリングへ呑まれた。
呆気ないほどの決着だった。
*
「……ひさびさに動いたから疲れた」と、息を切りながら新島泰暁がコートへ座りこんだ。ゆるやかな雨が降りだしていた。「傘を持ってこなかった」
新島泰暁は掌を空へむけて雨を受けとった。彼はしばらくそのままぼんやりとしていた。それからおもむろに「雨が嫌いなら――」と口を開いた。
「べつに嫌いじゃない」と鷹宮は言下に答えた。
「そういう表情は警察官らしいな」と新島泰暁は皮肉げに笑った。その眼差しだけはなぜか透きとおっていて。そこにだれが、だれを、なにを連想したのか。
「……だったら、雨があんたを慰撫してくれたらいい。鷹宮さん、あんたにやさしい雨が降りてくればいい。俺はそれを願う。だけどその傷は――、心に傷があるならって話だけど。その傷は、あのひとでは、俺の姉さんでは埋まらないよ。あのひとは、癒しだとかそういう存在じゃないんだ。あんたには俺のこの気持ちはわからないだろうよ。でも、一生だれとも分かち合うことのない気持ちなんだよ。俺だけが知ってる。あんたには、きっと生涯理解できない」
とても大切なものをしまい込むように、新島泰暁は掌をとじた。鷹宮には、いや、第三者からは侵しがたい姉弟に共通する陰を、彼は感じとった。苛立ちが沸々とわく。
「さっきの勝負への負け惜しみか」
「違う……そんなんじゃない。どうするのか決めんのは姉さんだ」
「きみは選択肢ですらないな」
「そんなことは充分わかってる……。あんたは冷たいな鷹宮さん」
「きみに俺のなにがわかる」
「さっきも言ったけど、その言葉、そっくり返すぜ。あんたは当事者の気持ちなんて顧みない。どこかで他人を笑ってんだ。“おまえのせいだ”ってな」
「…………」
「あんたはバスケを辞めたくなかったんだろ。勝手に死んだほうが悪い、ぜんぶ自分のせいだって言ってたよな。それが自分以外の他人への本心なんじゃないのかよ。そんな冷たい人間がなんで警察官なんかやってんのか知らねえけど」
「――新島有紗はどこにいるんだ」
新島泰暁は鷹宮を憐れんだ。
「……鷹宮さん、知ってるか? だれも誰かを手に入れることなんてできないんだよ」
「質問に答えろ」
新島泰暁は立ちあがった。
「これが答えだよ。たとえ姉が俺を受け入れてくれたとしても、あんたを好きになったとしても、あのひとは誰のものにもならないんだ。そういう生き方をあんたはできるのか、鷹宮さん」
「…………“そういう生き方”?」
「孤独な人間をずっと愛していくってことだよ。姉が俺を、弟として以上に愛してくれたとしても、俺は独りだよ。俺の人生を生きていけるのは俺しかいない。そういう孤独な存在として新島有紗を愛せるか? そういうふうにあのひとを見られるか?」
新島泰明の澄んだ眼差し――そこに映るふかい諦め――それは、倫理の果てを見透すような儚く孤独な光だった。ただひとりの人間に焦がれ、もて余し溢れきった想いの奔流に鷹宮は圧倒された。
「きみは……、きみは姉さんを物理的な意味で手に入れたいとは思わないのか」
「物理的な意味?」
はっ、と泰暁は嘲笑った。
「血より濃いもんなんてないだろ」
「そしてそれを思ってんのはあんただろ。自分のせいだろ、ぜんぶ。自分からあのひとに惹かれたんじゃねえのかよ」
惹かれた、そんな生易しいものではなかった。彼女の領域を侵して踏みにじりたい衝動――まとう繊細そうで潔癖そうな膜を破壊してしまいたい物狂おしいまでの欲。男の、いや自分の情動はその程度の防御で制されるものではない。児戯に等しいそのような守りなど、いつでも壊してしまえる。それを新島有紗に理解させたかった。彼女の両肩をつかみ、言い聞かせるように身体を揺さぶって気づかせたかった。
わかっているのか、そんなものは男の、俺の力でどうにでもなる。女ひとり屈服させる程度、たやすいのだと。
ほとんど憎悪といってよかった。気づけ、気づいてその身を差し出せ。俺に隷属して、ずっとこちらだけを見ていろ。きみの世界は広くなんかない。いや、広い。弟の傍になんかいるな。ふり向いて、きみに差し出すこの手に気づいてくれ。弟から離れてくれ。俺を見なくても、きみのうしろには――――いいや、その弟の隣以外の場所なら別の世界が広がっていると気づいてくれ。
きみを犯し尽くして、俺の心も壊して、一緒に果ててくれたら。
「…………俺はきみとは正反対だな」
浅ましく凶暴で理不尽きわまる思いは、吐息という熱に溶けた。
「なら、あんたに有紗は愛せないよ」
「きみの許可がいるのか」
新島泰暁は自身の言を否定するように首をふった。そしてその方向をみて、泣き笑うように顔を綻ばせた。
「言っただろ? 決めるのは姉さんだよ。俺もあんたもただ裁可を待つしかない。そうだろ――――、なあ、姉さん」
なぜかそれを、ひとつの灯火のようだと思った。どこか果てのない、永遠につづく海に浮かぶひとつの灯のようであると。ふたつのものは分かちがたくそこに在る。
新島有紗が、弟の傍に立った。雨は降り落ちていた。
答えは出た? と弟は問うた。その瞳に映るもの。
「……泰暁。泰暁の、名前の由来を知っている?」と姉は言った。それは応えであるかもしれなかった。そして彼女は、笑ったのかもしれなかった。
*
鷹宮の髪に肩に背に、雨は降り落ちる。いっそ身体ごと心ごと、炎で焼き尽くされてしまえばいい。地に落ちたままの湿った重い残骸を消し去る業火であればいい。
けれど雨は鷹宮を慰撫するかのようだ。
だれも動かなかった。雨はただゆるやかに降り落ちる。
この炎のゆく先を知らない――果てがあるなら、それを見てみたいとだれかが言った。
炎の行くつく果てを宥めるように。ひとたびの休息を施すように。
雨は、降り落ちた。