木乃伊・8
「えっと……本当に? 本当にこれ、もらってくれるの?」
柊にとってどんなに大切なものだったとしても、ただそれだけの、なんの価値もない硝子片だ。
「なんだよ、返さないぞ」
ほんの少し、木乃伊の頬に赤みが差したように見えた。
柊にとってその硝子片が、たった一人の寂しさの中から見つけた小さな拠り所だったのだということを、木乃伊が理解してくれたような気がして、柊は嬉しかった。そして自分自身も木乃伊にとっての緑色の硝子のような存在になれればいいのにと、知らずに願っていた。
昨日柊が木乃伊のそばまで運んでいた椅子は、夜のうちに窓辺に移動させられてしまっていたので、柊は木乃伊に「ちょっと待っててね」と一声かけ、椅子をまた彼のそばまで移動させる。
結城の家の二階は、全体的に重厚な家具でまとめ上げられており、柊が運んだ椅子も、ゴシック様式のハイバックチェアーで、かなりの重量がある。柊がえっちらおっちらと時間をかけて運ぶのを、木乃伊はただ黙って見守っていた。
椅子を運び終え、柊がその上に腰を下ろすのを見計らったかのように、木乃伊は「おまえ、いい匂いがするな」と言った。
「え? 僕?」
柊は思わず自分の腕の匂いを鼻を鳴らしてかいでみた。
自分ではわからないけれど、昨夜使った桜の入浴剤の匂いがするのかも知れない。
「君、この匂い、好き?」
木乃伊の瞳がパチリと閉じる。
きっとこれは肯定。
「これね、桜の入浴剤なんだよ。僕の今のお気に入り」
柊は入浴剤が好きだった。そのことを知った父は、家を空けるたびに様々な種類を買ってきてくれる。ありがたいのだが、柊一人では使い切れないのではないかと思うほどのコレクションとなっている。
ただ柊にも好みはある。あまりきつい匂いのものは好みではない。つんと尖った匂いも少々苦手である。風呂から上がれば香りが消えてしまうような、ふわりと優しいものを好んでいるのだが、それでも残り香があるのかも知れない。
「風呂……」
木乃伊の声に落胆の色が交じる。
「あ……」
包帯だらけの木乃伊はきっとお風呂に入れないのだ。悪いことを言ってしまったのではと、柊は少し慌ててしまった。
「あの、君もきっとすぐに元気になるよ。包帯が取れたら……そうだ、そのときには僕の桜の入浴剤をあげる。ね?」
ふっと、木乃伊の瞳が和らぐ。
あ、笑った。
柊の思い込みなのかもしれないが、たった一日一緒にいただけなのに、無表情に見えた木乃伊の表情を、柊はずいぶんと読み取ることができるようになっていた。
――ぼっちゃん、彼のことは、あれこれ詮索なさらないでくださいね。
鏑木から言われた言葉が蘇る。
それでも柊は、どうしても知りたかった。彼の、名を。
「ねえ、君、なんていう名前なの?」
尋ねたとたんに、木乃伊は口をつぐんだ。何かを考えるように柊から視線を外して、天井をぼんやりと見上げている。
別に悪いことを聞いたわけではないと思うので、柊はじっと返事を待った。これまでだって、木乃伊の妙な間合いにはずいぶんと困惑させられてきたのだ。だいぶ慣れたというものだ。
長い沈黙の後、ようやく柊へと顔を向けた木乃伊は目を細め「おまえは?」と逆に柊に質問してきた。
突然の質問返しに、柊は慌てた。
「え? 僕? 僕の名前だよね? 結城柊だよ」
と答えてから、あれ? 名前はもうすでに教えたのではなかったかな? と思い出す。
「ちょっと! 僕、名前もう教えたよね? 忘れちゃったの?」
少し頬を膨らませてみせたが、もしかしたら、木乃伊は頭を強く打ってしまったのではないかと心配になってくる。このことを、ドクターは知っているのだろうか。今まで会話をしていて、おかしいとは感じなかったけれど、記憶とか、頭の中身とかに、何らかの障害が出ているのではないだろうか。そんな思いが頭の中をぐるぐると回った。
と、柊の顔を見上げていた木乃伊がふっとため息のような息を漏らした。それに続いて「くっ……くくくくくっ……」という声が聞こえ始める。
笑っているのだ。木乃伊が、声を上げて。
笑うとどこか痛むのか、顔をしかめながら、それでも笑っている。
「も、もしかして、からかったの!? もう! 知らないからね。僕、君の事心配したんだよ。頭打っちゃったのかもって……わかったよ。もう僕、君のことは木乃伊って呼ぶからね!」
木乃伊は掠れ声を震わせて笑いながら、小さな声で
「悪かった……柊」
と謝ってくれた。けれどもその顔は、まだ笑っている。そして
「……ハライタイ……」
と涙を流した。
自業自得だよと少し怒って見せながら、けれども初めて木乃伊が声を上げて笑ってくれたことが嬉しくて、きっと柊も笑顔になっていたに違いなかった。




