晦日月・4
和眞が男の前を通り過ぎ、数歩歩けば、吹き抜けの階段だ。会場内の人々の前に、その姿を晒すことになる。
一人進もうとする和眞の外套を、侑眞の手が握っていた。
「どうした?」
「兄さん……ご武運を」
薄っすらと笑みを浮かべようとしているが、いくらか侑眞の顔色は蒼かった。
「別に、ただこの先の階段を降りていくだけの話だ。なにも心配するようなことはない。挨拶だけしたら、すぐに戻る」
「ご、ごめん。僕はここまでだからね!」
護は両手を胸の前ではためかせた。
「大丈夫ですよ。君のことは、僕がちゃんと目立たないところからホールに戻して差し上げます」
また言い合いを始めそうな二人に頷きかけて、和眞は踵を返した。
踊り場に向け、前を見つめて、一歩ずつ、ゆっくりと歩いていく。
次第に音楽が小さくなり、それに比例するように人々の視線が二階の和眞に向かった。
会場に等間隔に並ぶ太い大理石の柱。柱を囲むように設えられたクリスタルのシャンデリア。
会場の要所要所には、スクリーンが置かれているはずで、一人で歩く和眞を映し出していることだろう。
踊り場で、羽織っていた外套を払いながら、体の向きを変える。
音楽が、止まった。
和眞の目の前には、セピア色の人々の群れが見える。誰もが動きを止め、そして好気に満ちた目で、和眞を見上げている。
と、群衆の中で、くっきりとした黒を、和眞は見つけた。その漆黒の塊は、人々の間を縫うようにしながら、それでもまっすぐに和眞を目指して進んでくる。
結城柊だ。
階段の登り口にたどり着くと、柊は被っていた無機質な仮面を外した。
しばらく黙って和眞を見つめているた柊は、今度は長く尾を引く裾を靡かせながら、階段を登り始める。
「失礼します」
階段を登りきり和眞の隣に並び立つ。
和眞は驚きを隠せなかった。
くすり、と柊が唇をほころばせる。
その笑顔に我に返った和眞は、口元を手で覆い、だらしなく開いていたであろう口元を引き締めた。
翠色の硝子片。
和眞に残された、色。
あの硝子片に込められた柊の思いとそれを受け取ったときの自分自身の思いが、自分に色を感じさせるのだろう。素人考えではあるが、和眞自身はあの硝子片についてそう解釈している。
人は変わる。
昨日までたっぷりの愛情を注いでくれていた人物が、今日は刃を向けてくる。そんな事が普通にありえるのだと、和眞は知っている。
それでも。その後どう変化しようとも、失われてしまおうとも、その時その瞬間に抱いた思いは、確かに存在していたはずだ。
結城柊が小さな硝子の欠片に託した思い。それを受け取った和眞の思い。
一瞬の、永遠。
それだけでいい。それ以上のことは望まない。それが和眞の信条でもある。
あの硝子片をくれた柊という人間にも、自分は何も期待などしていない。そう思っていた。
自分の婚約者兼監視者として結城柊が選ばれたと知ったときにも、多少の驚きはあったものの、期待していたわけではない。逆に知り合いだなんて馴れ馴れしくされたりしたら、面倒だとすら思っていたはずなのだ。
だが、尚英学園の遊歩道で柊の姿を目にした時、和眞は自分自身の間違いに気がついた。
はっきりとした色を持ち、艷やかな声で語る結城柊という人物は、和眞の世界の中でただ一人、自分と同じ『ニンゲン』だった。いや、自分自身のことだってぼんやりと感じるのだから、結城柊だけが、和眞にとって現実味を持って感じられる、唯一のものなのかも知れない。
自分にとって、特別だったのは、あの硝子片ではなく、結城柊その人だったのだ。
自分がそれほど特定の人物に対して期待を残していたとは、和眞にとっても大きな衝撃だった。
それと同時に、結城柊という人物は、恐れとなった。
いつか柊も「セピア色」の世界の住人に、成り下がってしまうのではないか。
根拠のない不安が和眞を襲う。
しかし柊の方では、和眞がかつて結城邸に運び込まれた傷だらけの少年だとは思ってもいないらしく、いつまでも取り澄まし、使用人としての域を出てこようとはしない。
それでいて和眞を案じ、どうにかしようと尽くし、親身になって世話を焼いてくれる。けっして上辺だけではないと和眞にさえ感じ取れるほどに。
それから一月、二月と日々を重ねたが、柊という存在は、和眞の中で決して色褪せることはなかった。




