晦日月・3
「ちょっと……全部聞こえてますけど? 僕で悪かったね! こっちも、こんなにあっさり入れ替わりがうまくいくなんて思ってなかったんだよ? 僕が一番弓削君と背格好が似てたんだから、しょうがないでしょう?」
「あー、はいはい」
「ちょっと君、それどういう態度!?」
「もう、うるさいなあ」
年下の侑眞にあしらわれ、護は自分を落ち着かせようとしたのだろう、大きく肩で深呼吸した。
少し間をおいて
「でも……婚約発表って……どんなことするの?」
と、心配そうな声で侑眞に尋ねる。
「入れ替わった後のこととか、何も考えてないでしょう?」
侑眞の呆れたような視線に声をつまらせる護に、和眞は
「気にすることはない」
と、助け舟を出した。
和眞にとっては、人々の集まるフロアに、昴を伴って登場するか、一人で登場するかの差でしか無い。
会場最奥に鎮座する五綵家の面々に「婚約者に逃げられまして」と、詫びを入れればいいだけの話だ。そうすれば、あっという間に噂は広がる。
どうせこれまでも、鷹司和眞といえば、出来損ないの代名詞みたいなものだった。
中学時代の家出に金の力を使っての高校入学、アルファでありながら校内では最下位を争う不出来な息子として、上流社会では認知されている。
二年に進学してからは、柊が間断なく和眞の尻を叩き続けるせいで、成績が幾分上向いているが、周囲を感心させるほどのものではない。
優秀な弟が社交界デビューすれば、鷹司和眞は廃嫡されるのではないか、とまで言われている。
それを阻止するために結城柊が目付役として選ばれたのだろうが、未だその効果は現れていない。
「僕、結城さんがここに残ってくださると思ってました。たとえ綺族ではなくても、飛ぶ鳥を落とす勢いの結城家のご子息となれば、兄さんの立場を多少は挽回できると思ったのに……」
「あのねえ、だから、結城君と弓削君じゃあ、体格が違いすぎるでしょう? 入れ替われないじゃないか」
「京極家の面々なんて、兄さんとアイツをとっ捕まえて、この部屋に押し込んだところで作戦終了くらいに思ってますから、柊さんがここに残ったって、全然問題なかったんですよ」
「そんなの、僕らにわかるわけないでしょ? 僕らがどれだけ考えたて作戦を立てたと思ってるの?」
「うるさいなあ……」
「ちょっと君! さっきから、うるさいってねえ、どういうわけ?」
「あのね、僕は君じゃありません。鷹司侑眞です」
不毛な言い合いの種は、幾らでもあるらしい。和眞は半ば感心し、半ば呆れながら二人を眺めていた。
侑眞の言う通り、昴が京極邸から脱するのは、そう難しいことではないだろう。
逃げ出したのが和眞だったというのなら少しは対応が違うかも知れないが、昴が逃げ出したところで、京極は本腰を入れて追いかけたりはしないはずである。
使い終わった駒に、そこまでの労力を割く京極ではない。
昴が気をつけなければいけないのは、京極のバックにいる等々力の制裁だ。
「駄目ですね。このままだとすると……いくら考えても、今回は京極の勝ち」
侑眞のため息交じりの声が聞こえた。
「ちょっと君、勝ち負けの問題じゃないでしょ!? あのままだったら京極の思い通りじゃない? 弓削君が逃げただけでも、良かったって、普通は思うもんじゃないの?」
「そんな事はわかってるんです。まあ、まだ一縷の望みはあるかと思ってるんですけど……」
「だったらさあ」
和眞はそれまで腰を下ろしていたソファから立ち上がると、窓際へ寄った。これ以上二人の会話に耳を傾けることに、意味はないと判断したのだ。
開け放たれた窓から流れ込む舞踏会のさざめきと楽の音は、和眞の心の静寂を、余計に際立たせた。
和眞はここ数年間、この静けさの中で生きている。
こういう表現が合っているのかどうかはわからないのだが、ある時を境に、怒りも、喜びも、悲しみも、熱も冷も、そして音や色までも、和眞は実感することがなくなった。
だから、今の今まで目前で繰り広げられた逃走劇も、護と侑眞の言い合いも、和眞の感情を波立たせはしなかった。
世界が遠い。
そんなふうに感じる。
セピア色のフィルム越しに、景色を眺めているような感覚。
単なる気分の問題ではない。
実際和眞の目に、世界はそんなふうに見えるのだ。
色を認識できないわけではない。赤い色も、青い色も、水色だとか桃色といった中間色も、きちんと見分けることはできる。しかし常に界は色褪せ、ざらついたセピア色を帯びているように見えてしまう。
音に関しても、似たようなものだ。全てが遠く、薄紙一枚隔てた向こう側の世界の音を聞いているような感覚。
そんな中で、和眞は生きてきた。
……しかし。
和眞は無意識に、耳朶のピアスに手を触れた。
色褪せたこの世界の中で、この耳元の翠だけが、和眞にとって瑞々しく輝いて見えた。廃墟の中でたった一つ見つけた希望のように。
鏡に写った自分の耳に光る翠を目にすると、自分はまだこちらの世界に留まっているのだと、思うことができる。
だから、もともとは小さな硝子片だったものを、割れないような加工を施して、身につけることのできるピアスにしたのだ。
硝子は脆く、加工は思った以上に難しかったらしい。加工業者にはあまりいい顔をされなかったうえに、料金も高かった。
和眞も、この硝子片自体に不思議な力があるのだなどと、思っていたわけではない。
理由があるとすれば自分なのだろうと、考えている。
『これ、僕のとっても大切な宝物だったんだけど、君、もらってくれるかい?』
おずおずと差し出された好意を思い出す。
嬉しくなかったわけではない。だがそれは、彼が大切なものを自分に差し出してくれたからだ。
あの頃の自分は、まだ世界に色を感じていた。
全身傷だらけで、死ぬ一歩手前のような状態だったけれども、心までは死んでいなかった。
「和眞様」
部屋の外から声がかかり、和眞の意識は過去から現在へと戻ってきた。開いた扉の向こうに黒服の男が立っている。
「そろそろ、よろしいでしょうか?」
和眞は無言で立ち上がった。
ソファの背に掛けてあった黒と朱殷の袖のない外套を取り上げる。
茶番劇の主役という大役が、和眞を待ち受けているのだった。
京極家の住居エリアを抜け、空中回廊を渡り、舞踏会会場へと向かう。
和眞の後ろに付き従うのは弟の侑眞と、和眞と揃いの外套に身を包んだ護だ。
和眞の前には黒服の男がいるが、特に和眞を監視しているというわけではなようで、入れ替わった護を気にする様子はない。
和眞を会場への出入り口まで案内することが、この男の仕事なのだろう。
会場の少し手前まで来ると、壁際に寄り、男は一礼した。




