協力者・5
「逃げられないから。この部屋から、俺は逃げられないんだよ……」
うつむいた昴の表情は見えなかったが、強く握りしめられた両の手が細かく震えている。
はっとして、柊は周囲を見回した。
視線だけで、違和感を探る。監視カメラや盗聴器が仕掛けられている可能性は薄いと考えていたのだが、昴の反応を見れば、その可能性は大いに考えられる。
自分の屋敷内に、ここまで手の内にすべてを握りながらそこまでするか? という思いもある。
もしそうならば、これまでの苦労はそこで幕となる。和眞と昴は婚約。柊は父からの依頼を成し遂げることができずに、結城に帰らなければならない。
どくん、どくんという鼓動と共に、自分自身が揺れているような感覚に襲われた時、和眞の声が聞こえた。
「いや、昴。多分逃げられるよ」
和眞はソファの背もたれに体をのけぞらせて、背後の昴を仰ぎ見ている。
「でも和眞!」
昴は和眞を見つめた後、部屋の右手奥をゆっくりと振り返った。
その奥には続きの部屋があるようで、アール開口の小さな出入り口があり、たっぷりとひだの寄ったカーテンが、タッセルでゆったりとまとめられている。
この部屋の中にいる、和眞以外の全員の眼が、その出入り口の向こうへ一斉に向かった。
見渡せる範囲内に、誰の姿もなかったから、柊たちはこの部屋にいるのは和眞と昴だけだと思いこんでいた。
部屋に入った時点で誰かがいれば、佐奈に人払いをして貰う予定だったのだが、視線の届く範囲内に誰もいなかったことで、安堵してしまっていたのだ。
しかし、この部屋の中に、あの、続き部屋の向こうに、見張りが立っていたとしたら?
「構わないだろう? 侑眞?」
和眞はじっと前を見据えながら、見えない誰かに向かって話しかけた。
侑眞。
それは最近、柊の脳内データベースに加わったばかりの名前だ。
忘れようもない。和眞の父である鷹司克巳と、後妻として鷹司家に入った美也子との間に生まれた、鷹司家の次男だ。
奥へと続くアーチの開口から、レースを手の甲で押し上げるようにして姿を表したのは、どことなく和眞と似た面立ちの、小柄な少年だった。身長は、おそらく和眞の肩にも届かないだろう。
似ているといっても、決して瓜二つというわけではない。一番違うのは目元だろうか。目尻が下がり気味の和眞に対し、侑眞は、ぱっちりと大きな眼に、女性も羨むようなきれいな二重のアーモンドアイだ。瞳の色も、和眞よりは濃く、くるくるとよく動き回る。とても魅力的な瞳だと思うのだが、侑眞はそれを隠すような四角いフレームの眼鏡を掛けていた。
「君、誰!?」
護が鋭く尋ねる。
「僕? 僕は和眞の父親の、叔父の兄の孫だよ」
「え? まご? え? 父の兄……?」
侑眞の返答に、護は指で空中に何やら図形のようなものを描きながら、ぶつぶつと呟いていた。
「落ち着けよ、護。要するに、和眞の兄弟。まあ弟ってことだろ?」
怜生が肩をすくめる。
「まあ。あなたが……?」
佐奈はいち早く平静を取り戻し、侑眞に微笑みかけた。
「はじめまして、侑眞様。春野佐奈と申します」
佐奈を一瞥した侑眞は、作法の見本のようなお辞儀を返した。
「はじめまして。春野家の佐奈様ですね。お噂通り、可愛らしくていらっしゃる!」
可愛らしくていらっしゃる。
柊はそんな場合ではないというのに、思わず侑眞の台詞を脳内でなぞってしまった。
侑眞こそ、どこからどう見ても可愛らしい子どもにみえる。
そんな侑眞が大人らしい言葉を使うことが、どうにもちぐはぐに感じた。
挨拶を終えた佐奈と侑眞は笑顔だったが、ぶつかり合う視線は、ただならぬ圧を周囲に発散している。
佐奈が前に出てくれたおかげで、柊は密かに侑眞を観察することができた。
侑眞は半袖の白いシャツに青鈍色のパンツ姿という小綺麗な服装だが、どう見てもパーティー用という服装ではない。
仮面を用意しているわけでもないようだし、ましてや仮装でもない。
これから着替えるつもりなのか、それとも今日は、舞踏会には出席しないつもりなのか。
人魚姫や、吸血鬼の仮装をした柊や和眞たちの中で、あっさりとした服装は、逆に異質だった。
この少年がどう出るか。柊は体の奥に、緊張感を膨らませていく。
佐奈とにこやかに挨拶を交わす少年に悪意が潜んでいるようには見えない。しかし、侑眞の思惑はわからない。
いつでも動けるよな心構えはしておかなくてはいけない。
そんな柊の気持ちを知ってか知らずか、侑眞は佐奈の背後にいる柊を見つけると、笑みを深くした。




