万里香・5
「そんな……」
これで、ゲームセット、というわけなのだろうか。
「そんなの、承服できません……」
負けなんて、まだ私は認めてません。
柊の手の中で、白い紙が音を立てた。思わず握りしめ、皺の寄ったそれそのまま引きちぎる。
「こんな、紙切れ一枚で……!」
投げつけた紙片は、柊の気持ちなんてまるでお構い無しで、ひらひらと舞いながら床に落ちていく。
ピンポーン。
ドアチャイムの音がして、そういえば今日も佐奈が来るのだったと思い出した。
ドアの開いた音に、柊は飛び上がる。
和眞が鍵をかけずに出ていってしまったのだろう。
「ちょっと二人ともぉ? 鍵開いてたよぉ。不用心じゃない? 明日から、夏休みだねえ! 今日までよろしくねえ?」
間延びした声が、柊を現実に引き戻す。
寝間着のままの自分自身。床に散乱するちぎれた紙片。和眞のいない部屋。
どう考えても、取り繕いようがない。
それからの騒動は、柊にとっては一世一代の醜態であり、思い返したくもないひとときだった。
今まで見たこともない柊の乱れた様子に大騒ぎする佐奈は、柊をさらにやるせない気持ちにさせたが、それすら、あのときの柊には、どこか他人事のような感覚だった。佐奈の声が、耳の上を滑っていく。
「……和眞くんは?」
初めて柊の心に届いた言葉がそれだった。
「和眞様は、いません」
鼻の奥がツンとして、涙が出るのではないかと思ったが、実際に柊の目から水滴が流れ落ちることはなかった。
「いません」
もう一度、呆然と答える。
「いないって、どういうこと? 柊くん」
そういいながら、佐奈は部屋の隅々を覗き込んでいる。
床に散らばる紙くずに目を留め「ええ……っと」と、戸惑ったように呟いた。
「えっと……ほら! 私力になるわ。大丈夫よ。解決する! いい? 私はこう見えてもそこそこ力も影響力もあるのよ? 子役時代に培った人脈もあれば、最悪友華ちゃんもいるしね? なに? もしかして和眞くんが浮気したとか……」
そう言って、佐奈は柊に悪いと思ったのか変な音を立てて息を呑み、口元に手を当てる。
「浮気……なんでしょうか?」
その気もない相手にあれ程に甘く優しく接することができるものなのか。そうだとしたら、鷹司和眞という男の心は、鋼か何かで出来ているに違いない。
「さ……っさあ? そこまでは私にもわからないけど、もし、もしも浮気なんかしてたんだったら、お仕置きしてやるわ! もう、私の持っているコネクションを全部使ってぎゃふんといわせてやるわよ!」
そう言ってファイティングポーズを作る佐奈に、ようやく柊の唇から笑みを乗せた呼気が漏れた。
「さあ!」
佐奈はダイニングの椅子に深く腰を掛け、ゆっくりと大きな動作で足を組んでみせた。
その瞬間、可愛らしく無邪気だった少女が、頼もしく自信に満ちた女性へと変化する。
これこそ、柊がはじめて目の辺りにする、女優としての佐奈なのかもしれない。
「私に全部話して頂戴」
「……はい」
どうしてこの時、なんの警戒心も抱かずに素直に佐奈にすべてを吐露してしまったのか。冷静になってみれば、不思議でならない。
しかしこの時、気がつけば柊は、ことのあらましを佐奈に語って聞かせていたのだった。
「ムカつくわ。」
全てを聞いた佐奈の台詞だ。
「つまり昴くんは、京極の命令で和眞くんに近づいたわけね? だけど、鳴海先生を好きになって、彼の子どもを妊娠。ここまでOKかしら?」
柊は悄然と頷いた。
「ほんっとムカつく! 私、京極関係のコマーシャルにも出たことがあるのよ!」
そう言いつつ、佐奈は頭をかきむしった。
「佐奈さん。ヘアスタイルが乱れます」
柊の指摘に慌ててツインテールの結び目を直す佐奈は、いつもの愛らしい少女だ。
やはりこれが、本来の佐奈なのだろうか。
「まあ、いいわ。そんな場合じゃないもの。で? 昴くんが等々力……つまり京極に見つかり、姿を消して、和眞くんに助けを求めた……」
佐奈は一言一言、確かめるようにゆっくりとつぶやく。
「和眞くんは昴くんを匿った。大丈夫だと言ったのに、今朝になったらいなくなっていたと……」
和眞がいなくなっていた。その言葉が柊の心を締め付ける。
「わからないんです。何故、昨夜私のもとに、戻ってきたのか。どうせ、姿を消すなら……何故?」
「調べましょう!」
佐奈が柊の手を取った。
「鳴海先生と、陣内くんは、味方になってくれそうじゃない? 私はもちろん、柊くんの味方よ! 風紀の副委員長さんは、どうかなぁ? とにかく、できることをしましょう!」
柊を見つめながらうなずく佐奈の瞳は、綺羅綺羅と輝いている。
何やら少しばかり、思っていた方向とは違う方に話が転がりだしているような気もするのだが、ここは、少しでも味方になってもらえる人間がいたほうがいいのかもしれない。もちろん信頼に足る人物に限るわけだが、陣内怜生と貝瀬護はすでに内情を知っているわけだし、佐奈に関しては、もう自分自身の直感を頼る他にない。
結城から外に出て半年。柊にわかったことと言えば、自分がいかに小さいかということだ。
一人で考えても、出口のない迷路に迷い込んでしまうばかりで、何一つ解決することなんてできやしない。
「そうと決まれば、柊くん、ぐずぐずしている暇はないわ。さっさと制服になって頂戴」
「うわっ!」
そこではじめて柊は、自分自身が起き抜けのままであることに気がついたのだった。




