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運命の隷属  作者: 観月
第二章 運命は密やかに立つ
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万里香・3

 柊が意識を取り戻したのに気がつくと、和眞はいそいそと、風呂の用意をしてくれた。


 いつもなら、あれこれと世話を焼くのは柊の方なのだ。


「私が用意します」


 と、ベットから起き上がろうとする柊を和眞は押し止める。


「もう少し横になってろよ」


 和眞の消えた浴室からは、水音に混じって軽い鼻歌が聞こえてくる。


 やけに上機嫌で、それが返って不自然なのだが、激しく抱かれた身体は重たくて、シーツの上に沈没してしまう。


 風呂場の戸を閉めたのだろうか、水音が遠くなる。


 ふっと見やると、肌の上には和眞の残した鬱血の跡が散っている。それを見つめながら、うつらうつらと夢の中へと落ちていってしまいそうになる。ぱっくりと開いた無意識への入り口。暗くて、生暖かくて、居心地のいい世界。


 けれど、どこかから、優しい匂いが漂ってきて、柊は目を開けた。


「いい。匂い」

「土産だ」


 下着一枚の和眞が、濡れた手を腰に当てて、ベットサイドに立っていた。


「お土産? ですか? この匂いが?」

「ほら」


 柊の顔の前にぬうっと突き出された和眞の指先には、十センチ四方ほどの紙袋がぶら下がっている。野ばらのようなほんのりとした薄紅色の小花のイラストが描かれている。


「まりか?」


 袋に書かれた文字を読んだ。


「違う。万里香ばんりこうだ。匂い、かいでみな」


 袋の中身はもう空だったが、和眞が柊の鼻先に開け口を近づけてくる。


 すん、と鼻から息を吸い込んだ途端、どこか懐かしく、ほんのりと甘い香りが広がった。


「これ、入浴剤ですね?」


「そう。花シリーズだとさ。万里香ってのは、もともとは桜の品種の名前だそうだが、桜の中じゃあいい匂いがする品種らしい。それで、万里香」


「そうか……」


 くすりと笑う柊を、和眞が不思議そうな顔で見ている。


「いえ私、実は不思議に思っていたんです。よく、桜の香りって聞くけれど、実は桜ってそんなに匂がしない気がして。そうですか、良い香りの品種があるんですね。薄紅色の、幸せな気分になる香りですね」


「そうだな。だけど本当に万里香がこんな匂いだったかは、誰も知らない」


「え?」


「今はもう失われた品種だ」


 世界の終焉よりも以前から、ノアの箱舟計画は進んでいた。つまり、世界中の動植物と、その遺伝情報を保管し、未来に伝えようという計画だ。


 なんとか平静を取り戻した世界で、復元作業が行われたが、すべての種が復活を遂げたわけではない。いや、むしろ失われてしまったものの方が多い。


 柊の眼裏には、水色の空に薄い桃色の小花が咲き乱れる景色が広がった。枝々を、蜂や蝶が群れ飛んでいったのかもしれない。


 失われてしまった美しい者たち。


 最近、昔をやたらに思い出す。


 子どもの頃、と言っても発情するまでことだから、ほんの数年前のことなのだが。大切にしていた揚羽蝶。もう手元にはない緑の硝子と、集めていた香り。


「和眞様……あなたは一体……」


 誰?


 という言葉を飲み込む。


 尚英学園に編入してからこれまで見たこともないほど上機嫌な和眞に促され、桜の香りに満ちた浴槽に浸かる。


「なんですか……これ」


 という柊の問いかけに、背中から明るい笑い声が返ってきた。


「たまにはいいだろ」


 なぜ、狭い浴槽に二人で入っているのか。


 しかも今日の和眞は柊に徹底的に奉仕する心づもりらしい。身体も頭も隅々まで和眞に洗い上げられて、柊としては身も心も『もうぐったり!』という気分だ。


 和眞は柊の肩に顔をうずめるようにして、背後から抱きしめてくる。


 だから、何なのだこの状況は……。


 頬が熱いのは、風呂に浸かっているせいなのか、背中に感じる和眞の体温のせいなのか。


「和眞様、弓削昴様にはお会いになれたのですか?」


 柊の背後で和眞の身体が小さく揺れた。


「ああ、気付いてたか」


「昴様は、ご無事でいらっしゃるのですか? 鳴海先生も、ご心配していらっしゃいます」


 柊の肩が、すっと軽くなる。


「流石だな。結城柊」


 バスルームに不意に訪れた静寂。柊は平静を装ったが、あまりの静けさに、息の詰まるような気分だった。


 しかしすぐに、和眞の頭が柊の肩にことんと乗った。背後から抱きしめる手に力がこもる。


「大丈夫。安全な場所に匿った」


「匿った……ということは」


「等々力の奴らに見つかった」


「等々力……」


 聞いたことがある。


 等々力組と言えば、かなり大きな反社会的勢力のうちの一つである。


 この時代、大企業や企業グループはたいてい、裏の社会とつながっている。


 表はアルファ、裏はベータ。誰も大きな声では言わないが、そんな暗黙のルールが今の日本には存在していた。


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