身勝手・9
二人の仲が、悪いわけではないのなら、それに越したことはない。
それよりも、今は和眞のことだ。
時間が惜しい。具合の悪いふりをして、この場から去ろうと思っていたのに、保健室になんて連れて行かれては、また余計な時間を取られてしまう。
「あの……。私一人でも大丈夫ですので」
「え……そう?」
「何言ってるんだ。具合が悪いんだろ? 一人でほっぽり出せるか、保健室いくぞ」
せっかく護が納得してくれそうな様子だったのに、怜生はまたもや柊の腕をとって歩き出す。
これは一度保健室によらなければこの場がが収まりそうもないと、柊は腹をくくった。
保健医に、暑さで目眩がした、具合が悪い、とでも言って寮へ帰してもらえばいいだけのことだ。
「わかりました……じゃあ、あの、付添をお願いします」
一手間かかるが、急がば回れという諺もある。保健室によるという手順を踏むことで、午後の授業がおおっぴらにサボタージュできるのなら、結果オーライだ。
そんな計算をはじき出し、柊がうつむいたまま頭を下げると「行かなきゃ、後悔するぜ?」という怜生の声が頭上から聞こえた。
なんのことかと顔を上げた柊の目の前に、にやりと笑う怜生がいる。
「和眞のこと、知りたいんだろ?」
「なにか……知っているんですか?」
怜生は何も言わず、得意げに口の端を持ち上げると、ついてこいよと、手招きをした。
「昴のお腹の中にいた子どもの父親な、あれ、おそらくここの保健医だぜ?」
密やかな口調だった。
「う……!」
と、変な声を出したまま絶句したのは護だ。「うそ」とでも、いいたかったのだろうか。
◇
保健室は、会議室や、放送室といった特別教室に囲まれた、静かな一画にある。職員室や校長室からも近いために、屯して馬鹿騒ぎをするような生徒もいない。
窓から夏の濃い日差しが入り込み、リノリウムのつるりとした床が、光を跳ね返していた。
建物の中は冷房が効いているのだが、校舎外の見回りを終えてきたばかりの三人は、背中にワイシャツを張り付かせている。
「調子悪そうに見えて、丁度いいんじゃないか?」
怜生が柊を見下ろしながら、唇の端を歪めた。
どうやら怜生には仮病を見破られていたらしい。
「え? え?」
といいながら黒目を左右に動かして柊と怜生を見比べる護は、本気で柊の具合を心配してくれていたのだろう。
心苦しいが、説明している暇はない。
「行くぞ。護、お前結城のそっち側を支える……振りをしろ」
最後の指示はほんの小さな囁きになる。
途端に護の眉間に皺が寄ったが、大きく息を吐きだすと「しかたない……僕も、興味が出てきたしね?」と言って、柊の右手を抱えるようにした。
護も、もともと頭の回転は早い。怜生の言葉を聞いて、大体の事情を察したらしい。四の五の説明を求めること無く、この芝居に乗ってくれる。
「先生、すいません、外の見回り中にこいつ、気分が悪くなったみたいで!」
突然怜生が大きな声を上げ、目の前の扉を大きく開いた。
呼吸を整える暇もない。
柊は怜生に引きずられて、あっと思ったときには、保健室の中にいた。
怜生の声と行動に驚いたのは、柊だけではなかったようで、保健室のドアが勢いよく開いたと同時に、バサバサバサッと、紙類が床の上に散らばる音が、三人を出迎えた。
「うわっ!」
白衣にブルーの平紐の名札をぶら下げた校医が、慌てたような声を上げて、こちらを振り返る。
尚英学園には医師免許を持った医師が一人学校医として常駐している。様々な性別の生徒に分け隔てなく当たることが出来るようにという理由で、校医になるためのには『ベータ性あること』という条件があるらしい。
名札に書かれた名前は鳴海英治。つまり彼はベータ男性の医師ということになる。
健康優良な柊は、今まで保健室の世話になったことなどなかった。校医の名前は記憶の片隅で、風化しかかっていたのだが、たしかにそんな名前だったと思い出す。
記憶の中の校医は、銀縁眼鏡にいくぶん眠たげな目をした男だったと思うのだが、今は大きく目を見開いてこちらを見ていた。
「あ、ああ、済まない、びっくりして……!」
床に散らばった書類を慌ててかき集めようとするが、それよりも一瞬早く、怜生が拾い上げた。




