木乃伊・3
◇
空調の音だけが聞こえる部屋で、柊は包帯から覗く木乃伊の肌に触れてみた。
透き通るように白い額をそうっと撫でる。
いたいのいたいのとんでいけ
そんな呪文があることは知っている。柊自身に、この呪文をかけてもらったという記憶はない。
それとも、自分は忘れているだけで、遠い昔こんな優しい呪文を、誰かにかけてもらったことがあるのだろうか。
柊の思い出の中に、母親はいない。
そこではたと、首をかしげる。
この木乃伊には、家族というものがないのだろうか? なぜ、結城家で預かることになったのだろうか。
「内緒だよ」
周囲に人影などなかったが、柊はそっと木乃伊の耳元に口を寄せた。
「僕はね、父さんの本当の子どもじゃないんだ。僕、少し前までは平良柊という名前だったんだ。本当の父さんはいつも忙しくて、ほとんど家にいたことがなくて、それから、母さんのことは覚えていないんだ。死んだんだって、聞かされている。それで僕は……」
柊の口はそれ以上の言葉を紡ぐことができなくなってしまった。
父が忙しかったのは、おそらく仕事のためではなくて遊び歩いていたからだ。けれど「父が遊んでばかりいて」というフレーズを口にすることができなかった。父を非難するような言葉は、言ってはいけなかったから。
食事だって、菓子パンや、栄養補助のためのパウチに入ったゼリーを舐めて生を繋いできた。だが、もらった食事に文句をつけることはできない。感謝を込めて食べなくては、菓子パンすらもらえなくなってしまう。
柊がオメガという特殊な性別であることが判明すると、あの父親は、柊を売ったのだ。
怖い大人たちに囲まれて、まるでモノのようにぞんざいに扱われて……。
もっと小さければ父親に助けを求めたかも知れない。学校へ行っていれば小学六年だった柊は、自分を売り飛ばす張本人が父であることも、父に助けを求めても、事態が更に悪化するだけだということも十二分に理解していた。
柊が結城重盛の養子となれたことは、本当に、信じられないほどの幸運なことだった。
柊を買い取ったあの組織と、重盛がつながっていたのだろう。
大きな企業が裏で非合法な組織と繋がっているなどというのは、今の時代公然の秘密である。表の仕事はアルファ、裏はベータが仕切るという暗黙の了解があるのだ。そういった非合法組織が、アルファにこの世界を牛耳られているというベータの、不満の受け皿となっているのかも知れない。
――だとしても。いったいどういうわけで、重盛は柊という少年の存在を知り、養子にしようとしたのだろうか。
柊自身にそれほどまでの魅力があったとは思えない。あんな家庭で育ち、発育だってよくなかったのだ。金のために子どもを売るようなろくでもない親がいるというだけでも、大きなマイナス要因だったろうに。
単なる同情ではないはずだ。同情から、売られた子どもを買い取っていたのでは、結城家内に大きな児童保護施設ができてしまう。
重盛が少年性愛者だとか、自分の優秀な遺伝子を残すためにオメガと呼ばれる特殊な性別の柊を手に入れたかったなどと言われれば、それなりに納得もいっただろう。しかし驚いたことに、重盛は柊を自分の子どもとして引き取ったのだ。戸籍上も、柊は重盛の子となっている。
理由はわからないが、義父である重盛に対しては感謝しかない。この先、どんなことを重盛から要求されることになったとしても(それが危険なものだったとしても、非合法なものだったとしても)柊にできることなら何でもしたい。そう思えるほど、今の柊は幸せだった。
「絵本を読もうか?」
現実に立ち戻り、宝物の山の中から柊が手にしたのは、あの青いグラデーションに虹色のさかなの描かれた、お気に入りの絵本だ。
子どもっぽいのかも知れないが、柊は美しいイラストのついた絵本を読むことが好きだった。使用人を捕まえて、読んで欲しいとせがむこともある。自分で読むことも好きだが、誰かに読んでもらうとイラストをじっくりと見ることが出来るし、そうしていると、想像の中で「絵」が動き出す。そんな瞬間は、たまらなく胸が躍る。
絵本の表紙を、木乃伊に見せるように持ち上げた。
「ひとりになりたかった さかなのはなし」
タイトルを読み上げ、ページを繰ると、柊自身も、物語の中へと没頭していった。
表紙に描かれている虹色に光る魚が主人公だ。飲み込もうとしたサメだって、その魚の美しさに、食べてしまうのをやめてしまうような美しい魚である。
みんなに愛され、ありとあらゆるプレゼントを送られる虹色の魚。
ところがある日、虹色の魚は一人になりたいと、光の届かぬ海底へと旅立ってしまう。
海底は真っ暗で、誰も虹色の魚のことを「美しい」と褒めそやしたりしない。
魚はそれが嬉しかった。たった一人で、これまでしてみたかったいろんなことをやってみた。
それから虹色の魚は、海底の魔女に会ったり、お友達ができたり、嫌味ばかり言う意地悪な深海魚に出会ったりして、最後には本当の大切な友だちを見つけるお話だった。




