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運命の隷属  作者: 観月
プロローグ
16/62

秋茱萸・4

 ◇


 はじめての予期せぬ発情に翻弄され、柊は一時の深い眠りについていた。


「とりあえず、一番効き目の早い抑制剤を投与しました。副作用が強く出るかもしれませんが、仕方ありません」


 鏑木を振り返ったドクターは、まだ注射器を手にしている。


「副作用?」

「ええ、鏑木さんもご存知でしょう? すこし、ぼんやりするとか、眠気が強くなるとか、その程度の筈ですが、まあ、今はよく眠ったほうがいい」


 使い終わった注射器を手際よく処理し、ドクターは診察用具一式を詰め込んだアタッシュケースの蓋を閉じた。


 眠っている柊を覗き込み、寝返りを打ったために乱れた黒髪を、撫でるようにして梳いてやりながら「で? アフターピルは?」と、振り返らないまま尋ねてくる。


「ああ、もちろんすぐに飲ませました。ただ、あれも万能ではない。もしもの場合は、ドクターにお願いしなくてはいけません」


「そうならないことを願っています」


 鏑木に答えるドクターの声は低く沈んだ。


 発情中のオメガの妊娠率は、きわめて高い。ドクターが手を下すということは、堕胎ということになる。


「まだ発情を迎える予定じゃ、なかったんだ」


「やはりあのアルファの少年ですか」

「ええ。それ以外に考えられますか?」


 体ごと振り返ったドクターは銀色の眼鏡を押し上げながら言った。


「確かに。ですがドクター? アルファと接触したから発情するという例を、私は聞いたことがありませんね」

「稀です。よほど相性の良いもの同士の間でしか起きません。例えば……」


「運命の番」


「そうですね」


 鏑木は、鼻を鳴らした。


 運命の番、という言葉はもちろん聞いたことがある。

 アルファとオメガは惹かれ合うものらしいが、その中にも相性というものがある。特に相性の良いカップルを運命の番などと言うが、鏑木としては半分はおとぎ話のようなものだと思っている。


 アルファが発情中のオメガと性交に及び、その最中に首筋に歯を立てることで番というものは成立してしまうのだ。運命云々は関係ない。


 ドクターも自分で「運命の番」という言葉を持ち出しながら、鏑木につられて小さく笑った。


「本当に運命かどうかはさておき、極めて相性の良い相手というのはいるものです。そういう者同士は、結ばれた後もうまくいくカップルが多いそうですよ。結城の(ゼータ)システムだって、それを利用してアルファからの依頼受け、相性の良い相手を探しているわけですからね。ああ、すいません。話がそれました」


 鏑木は、離れに備え付けられているミニキッチンへ向かい、冷蔵庫の中から冷たいお茶をコップへ注いだ。めったに使われないにもかかわらず、この離れはハウスキーパーの櫻井によって常に整えられている。


 軽く礼を言って冷茶を受け取り、ドクターは話を続けた。


「相性の良い者同士が出会うことで、発情が誘発されるということは、時折見られるんです。とくに柊くんのように、オメガであることが判明した後、まだ発情を迎えていない個体は、そのせいで早まるということが多いですね。逆に、相性の良い個体同士が、定期的に性交渉をすることで、発情の周期は安定していきます。番になれば、他の個体に発情のフェロモンを振りまくこともなくなる。オメガが真に安定した生活を手に入れようとするなら、なるべく早く、自分と相性の良い相手を見つけて、番になることです」


 鏑木は首を振った。


「我々には、踏み込めない範囲だな。だいたい重盛様の意図が読めない。柊ぼっちゃんがいるのに、なぜアルファを屋敷内に入れたのか。あの少年……まあ、あれだけ傷だらけだったんだ、なにか止むに止まれぬ事情があったのかもしれないが、それにしても……。ドクター、彼のサンプルは」


「とりましたよ。僕一人の判断ですけどね」


 ドクターは答えながら、唇に人差し指を軽くあてた。


「わかりました。ここだけの話ということで。そのかわり、結果を教えてもらえますか? そこから彼の名前がわかったりするといいんだが……」


「結城に保管されているデータと照合して見ますけど。どうでしょうか」


 可能性は薄い、ということなのだろう。


「とにかく、明日には重盛様が帰っていらっしゃるそうですから、それまでは動けませんね。というか、鏑木さん、シャツのボタンをきちんと留めていただけませんか? 艶かしくて、いけませんよ」


 ドクターのほんのりとピンク色に染まった頬に気がついて、鏑木は自分自身の服装を見下ろした。


「ああ、すいません」


 黒川にいた頃は、もっと崩れた格好もしていたのだが、この生真面目そうなドクターには目の毒だったらしい。

 結城の屋敷では、タイを締めずに人前に出たことはなかった。そう思いながら、鏑木はシャツの釦を二つばかり留める。


 うっかりしていた。

 それだけ、柊の発情にショックを受けたということかもしれない。


 鏑木は、背筋を伸ばすと、ハウススチュワードとしての鏑木創かぶらぎはじめを、そっとその身に纏った。

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