木乃伊・12
家庭教師を迎えての授業中のことだった。
「柊くん? 具合が悪いのかな?」
そう尋ねられた頃にはもう、柊には自分の状態を落ち着いて考える余裕すらなくなっていた。
急激な体温と呼吸回数の上昇。心拍数の高まり。それらは、自分自身の意志とは関係なく柊を襲う。
「柊くん?」
心配した家庭教師の手が額に触れた時、柊は大きく体を震わせた。
「まさか……柊くん? すいません……誰か! 誰か来てください! いや、ドクターだ。ドクターをっ!」
立ち上がると同時に、何かを倒したのだろうか、やけにけたたましい音が部屋の中に響いた。
続いてドアを開ける音と、家庭教師の叫び声が、崩れ落ちる柊の耳に遠く聞こえる。
「だれか、たす、けて」
椅子から転がり落ち、絨毯の上で柊は自分を抱きしめながら、小さく丸まった。
自分の身体に何がおきているのか、その時の柊には、まるでわからなかった。
柊だけではない。結城の家の誰も――ドクターですら、今日このような事態に陥ることを予期していなかった。
駆けつけてきた鏑木の、いつもきちんと撫でつけられた前髪が、額に落ちかかっている。鏑木がこれほど取り乱す姿を見たのは、はじめてのことだったのだが、それを指摘する余裕も柊にはない。
「ぼっちゃん! 柊ぼっちゃん!」
抱き起こされ、揺さぶられる。
「……鏑木、助けて。熱い。身体が、熱くて、それで……」
柊は鏑木にしがみついていた。
「発情……」
鏑木に続いて駆けつけたドクターの声が聞こえた。
――うそ。
十三で発情するというのは、一般的には早い方であるが、まったくないという年齢ではない。
それでも、柊はドクターの言葉が信じられなかった。
結城グループはさまざまな企業を傘下に収めているが、中核となる「株式会社結城」は、オメガ管理システムを運営している。傘下に連なる企業も、オメガ性に関わる事業を展開している会社がほとんどである。オメガの発情管理プログラム、アルファとのマッチングシステム、発情を抑制するための薬剤等、結城はこれまでおざなりにされていたオメガという性をターゲットにして急成長してきたグループなのだ。
世界的に見ても、結城以上にオメガの発情に関してプロフェッショナルな企業体は無いに違いない。その結城に総力を上げて管理されてきたのが柊である。
「なんですって? ドクター。あなたぼっちゃんのデータはきちんと管理されてるんですよね? 発情の徴候など、まだ一つもなかったじゃないですか!」
耳元で、悲鳴に似た鏑木の声が聞こえる。
「鏑木さん、落ち着いてください。データ管理についてはあなただって承知していたじゃないですか……」
ドクターの言う通りだ。柊の身体については、数名の優秀な人材を取り揃えたグループで管理されていのだ。しかも鏑木自身が、そのメンバーの内のひとりである。
鏑木とドクターが混乱し、言い合いをしている最中にも、柊の意識は混濁していった。
今では鏑木の首に腕を回し、無意識に体を擦り付けながら
「鏑木、たすけて」
と、舌足らずにつぶやいた。
「アルファだ。アルファに引きずられたんだ。おそらく、彼と柊くんの相性がきわめて良いために起きたんです」
「なんてことです」
「それ以外に考えられません。この屋敷で働くもの、出入りする者は、重盛様と柊くん以外、最新の注意を払われ、すべてベータに限定されてきました。これまでは、柊くんにまだ発情の徴候は現れていなかった……」
「わかりました。後で聞きます。ドクター、ハウスキーピングの櫻井さんと重盛様に連絡を頼みます。客人を移動させなくてはいけないでしょう。アルファはベータの発情に触発されて発情します。彼も、あの状態での発情……ヒートには耐えられないでしょうから。重盛様もアルファですから、おそらく帰ってらっしゃることはできないかと……。後のことはあなたと櫻井さんに任せます」
指示を飛ばす鏑木に、柊は抱き上げられていた。
「あなたは?」
ドクターの声が聞こえて、歩き出したはずの鏑木の足が止まった。
「私には、重盛様に与えられた、最優先の仕事があります」
ドクターの返事は、柊には聞こえなかった。
鏑木にどこかに運ばれていく。
「たすけて」
涙を流し、鏑木にしがみつきながら、柊は初めての発情の渦に、飲み込まれていった。




