3.水底の魔女
サラサの語りです。
弟がどうやって水底の魔女に会ったのか……泳ぎが得意だったから、泳いで行ったのかも。でも海底までなんて、殆ど死ぬ覚悟じゃなきゃそんな所には行けないわよね……。
でも私、薄情な事に、弟がまさか、本当に魔女に会いにいくなんて思わなかったの。あの子の事信じてなかった……。
でも、あの子とそんな話をした事なんて忘れてしまうほど、日々は何の変化もなく過ぎていったわ。そして、弟が私の元に来なくなって暫く経ったある日、いきなり私の前に、小さな女の子が現れたの。
それが、水底の魔女だった。
とても力の強い魔女って噂だったから、その姿もきっと魔法で子供に変えてるんだと思ったわ。だって、水底の魔女は、私よりもずっと永く生きているんですもの。
そして、私の前に現れた魔女は、私にこう言ったの。
自由になりたいかって……。
その女の子は水底の魔女と言うだけあって、海の底の様な深い紺色の髪をしていたわ。瞳の色もまた、水底の色をしていたの。
そして、その子が着ているのは、膝が見える位の長さの明るい色をした可愛らしいワンピース。
誰も一目見て、この女の子があの水底の魔女だなんて、思いもよらなかったでしょうね。
その魔女は、少女らしい無邪気な笑みを浮かべると、
『自由になりたいの?』
と訊いてきたの。
そうよと頷けば、水底の魔女は首を傾げて更に訊ねてきたわ。
『何で自由になりたいの?』
その質問には、それは私が自由じゃないからだわ、と答えたわ。
『どうして自由じゃないと思うの?』
また魔女は質問を返してきた。
もしかして、私を自由にする気などないのかもしれない。
そう思ったけれど、半分自棄になって、
『この神殿に囚われて、自由に出歩く事も出来なければ、友人を作る事も出来ない。恋だってしたいし、それに何より、もっと自由に歌を歌いたい』
そう捲くし立てたの。
すると魔女は、パチパチと瞬きをすると、
『それを全部叶えれば、あなたは自由になれるの?』
また無邪気な顔で質問してきたわ。
勿論だと頷きかけて、私はその時漸く弟の事を思い出したの。
そして、水底の魔女を見つめた。
弟は一体如何したのだろう? 水底の魔女に願いを叶えてもらうのだと出て行ったっきり姿を見ない……。
魔女がここに居ると言う事は、弟が魔女にお願いしたのだと分かるわ。
でも、この場にはその弟の姿は何処にもない……。
今度は此方から魔女に質問を投げかけたわ。
『私の弟は? そういえばあの子は如何したの? 無事なの?』
すると魔女は、優しく微笑むと、
『あの小さな騎士さんは、あなたの願いを叶えて欲しいって、私の所まで来たの。その時、もう代価は払ってもらったから、後はあなたの願をを叶えるだけなの』
そう答えたわ。
そんなの、全然私の質問に答えてないじゃない。そう思って私は魔女を睨んだけど、彼女は何処吹く風って感じだった。
『先見の巫女さん。多分この世界ではあなたの望む自由はないと思うの』
そして、初めて魔女が、問答以外の言葉を喋った。
その言葉を聞いて、私は絶望したわ。それは如何したって、自由になるのは無理だって言われたと思ったの。
だけど魔女は、
『この世界だと、何処に逃げても神殿に見つかっちゃうから。それに、先見の力からも逃げられないよ』
『水底の魔女でも出来ないの?』
『皆が言うほど、私は凄い魔女じゃないよ。代償を払わないと、魔法は使えないの』
『代償?』
『あなたの願いの代償は、あの小さな騎士さんが払ってくれたから、ちゃんと願い事は叶えるよ』
『え!? 代償!? それに無理だったんじゃ……』
『うん、この世界では無理。だから他の世界に行こう?』
『えぇ!?』
驚く私を見て、水底の魔女はクスクスと笑っていたわ。それを見ても、私は暫く呆然としていたけど。
だって、他の世界に行くなんて、御伽噺でしか聞いたことないもの。
『如何する? 行く?』
私は躊躇なく頷いていたわ。そしたら魔女が初めて驚いた顔をしたの。
『いいの? 本当に? こことは違う世界だよ?』
『だって、弟がもう代償を払ってくれたんでしょう? それを無駄にする事になっちゃうし、ここに居るよりはましだわ!』
『弟君と会えなくなっちゃうよ?』
『いいの。私と居ると、あの子の自由が無くなっちゃうもの。私と違って、あの子は自由に歩き回れるし、先見の力もないもの。好きな時に好きなだけ音楽を奏でられるわ』
『そう……』
何故だか魔女は、少しだけ悲しそうな顔をしたわ。
その時私は、弟がどんな代償を払ったかなんて知りもしなかった。
私は何気なく訊いたの。
『それで? あの子が払った代償って何なの?』
そしたら、水底の魔女は何も言わずに背中に手を回して、ある物を取り出したの。それを見て、私は驚いたわ。
それは私の弟の楽器だった。横笛だったんだけど……幻楽士には補助する楽器奏者が居てね。幻楽奏助士って呼ばれてるんだけど、現れる映像をより鮮明に細かく現す事が出来るって言うのかしら。
弟は優れた幻楽奏助士だったわ。補助する相手も翻弄しちゃう位の優秀な、ね……。
将来も有望視されててね。まぁ、弟は専ら私の幻楽奏助士になるってきかなかったんだけど……。
そんな弟の大事な楽器を持って現れた魔女に、私は不安を覚えたわ。何でそれを持っているのかって思った。
『あの子から貰った代償……あの子はもう楽器は奏でない。あの子の一番大事なもの……』
私は何も言えなかったわ。自分の浅はかさに嫌気がさした。
願いなんていいから、弟に楽器を返してあげてと言おうとしたんだけど、その前に魔女は私に言ったの。
『もう取り消せないよ。だって、あなたの小さな騎士さんは、もう代償払っちゃったもの。どうしてもあなたを自由にしてくれって言われちゃったもの』
つまり、もう引き返せないんだっていう事。
じゃああの子の自由はどうなっちゃうのって訊いたら、魔女は不思議な笑みを浮かべて、
『自由だよ。だからこれをくれたんだよ。あなたの自由があの子の心を自由にするんだよ』
*****
悲しげに笑って一旦言葉を切り、竪琴を爪弾く。その音はその時の苛立ちと悲しみを表しているようだった。
「あの時の私は、ただ自由になりたいってだけで、どういう事が本当の自由なんて全然分かってなかったの。だから、魔女の言う事も全く理解できてなかった」
「それで? その後どうなったんですか?」
早夜は中途半端な所で話を切られてしまい、続きが気になりソワソワと聞き出した。
その様子に、
「親に物語を強請る子供みたいよ、サヤちゃん」
と苦笑しながら、サラサは話を続けた。
「その後魔女が、呪いを掛けてあげようかって言ってきたの」
「呪い?」
「うん、私が自分を許せなくなってるって分かって、そう言ったみたいなんだけどね」
「でも、その呪いって……」
「私の世界には、ある言葉があるの。その言葉はとても大切にされていて……心の拠り所にもなる言葉なの」
「??」
いきなりしだした話に、早夜は困惑した表情を向ける。
サラサはその視線を受け、フフッと笑い、竪琴を弾き始める。壮大で優美で曲調はゆったりとしていた。
まるで穏やかな海を連想させるその曲を、サラサは穏やかに笑ってこう言った。
「私の世界には、大地という物が殆ど無くてね。その代わり、青い海が何処までも広がっているの。青い、青い世界……この曲は、その海を歌った曲。
その海には名前があるの。私たちの心に深く刻まれた安らぎの言葉……」
この素晴らしい曲を奏でている最中に、声を掛けるのを憚れたが、どうしても気になって早夜は訊ねた。
「その言葉って何ですか?」
「サヤちゃんが最初、私の前に現れた時、その言葉を言ったから凄く驚いたわ」
「え……?」
「その言葉が、この世界にもあると知って嬉しかった。
でも、もしかしてその言葉をムハちゃんがサヤちゃんに言ったのかと思ったら、物凄く腹立たしくなっちゃって……あの時はいきなり怒鳴っちゃってごめんね?」
早夜は訝しんだ。
はて、自分は何か彼女に言っただろうか?
そう思って、ここに来た時の事を思い出す。
自分は確か、目が覚め、最初に見た彼女を見て、そう「ナイール王子」と言ったのだ。彼女の目が、あまりにも彼の色と似通っていたから。
澄んだ泉の様な透き通った水色――。
「っ!!」
早夜はハッとしてサラサを見た。
「……ナイール……?」
するとサラサはフワリと笑って頷いた。
「そう、それが私の世界の海の名前。そして何物にも変えがたい、心を表す言葉……。
ああ、今、幻楽士として曲を奏でられたなら、サヤちゃんにあの海を見せてあげられたのに……。
朝の光の中で輝く海。月明かりの中で星の瞬きを映した穏やかな海。夕焼けに染められた黄昏の海。
何処までも広く果て無く私たちを包み込む、優しさと厳しさを湛えたあの海を……」
早夜はワナワナと身体を震わせた。
どうしてこんな事に気が付かなかったのか。
早夜はサラサの目を見て確信する。
ナイールと同じ瞳の色。
以前彼に、その瞳の色は母親譲りなのかと訊ねた事が思い出される。
だとしたらやはり……。
そう思った早夜は、興奮しきった顔で、サラサに訊ねた。
「サ、サラサさんは、ナイール王子のお母さんですか!?」
この窓も扉も無い室内で、早夜の声がこだまする。
サラサは竪琴を爪弾いていた手を止め、暫し瞬きを繰り返して早夜を見つめていたかと思うと、小刻みに震える手で口を押さえ目を見開かせた。
そして、早夜と同じくらいの大きな声で叫ぶ。
「うっそ、やだ! 私ってば子供居るの!?」
早夜の時と同様、室内にその声がこだますると、暫くは無音が続いた。
「……あれ?」
「うん?」
金縛りにあっていた早夜は、その呪縛から解き放たれ、しかしながら繰り人形の様にカクンと首を傾げると、そんな早夜の前で、鏡の前に立っているかの如く、サラサも同じ様な仕草でカクンと首を傾げるのだった。