10、苦手なもの
早夜は首に指を這わせた。
そこには固い感触。そして見えない魔力の鎖。
早夜にとって、そんな鎖はないにも等しい。よって、この枷からは、早夜自身、それほどの危機感を感じなかった。
そして、自分の姿を見下ろせば、ごわごわとした麻の服。
服としては肌触りは悪いが、それでも早夜は、その服の裾を翻して、軽やかにスキップでもしたい気分。ともすれば、鼻歌も歌ってしまいそうであった。
いや、実際に歌っていたのかもしれない。
前方を歩くナイールが、此方を振り返り、早夜と目が合うと噴き出して笑い出したからだ。
「随分とご機嫌だね」
クスクスと笑うナイールに、早夜は恥ずかしくて何も言えない。
「よっぽど、その格好がお気に召したようだね。それとも、他の異界人に会えるのがそんなに嬉しい?」
そう、早夜は今日、他の異界人。つまりリュウキに会えるのだ。
この前はすれ違いになってしまった。今日こそはという気持ちが大きい。
しかもコソコソする事無く、どうどうと会う事が出来るのだ。気が早って当然であろう。
それに、あの何とも恥ずかしく心許無い格好から開放されて、心からすっきりとしていた。
(いつもはあの格好の上に、フード付きのゆったりとした服だったもんなぁ)
そのせいで、いつも全く落ち着かなかった。
「両方です!」
なので早夜は、ナイールの質問に力を込めてそう答えていた。静かな廊下に、早夜の声は大きく響く。
王宮の廊下にしては、少々薄暗く暗かった。それに、何処か薄汚れていて、手入れがされていない感じだ。人も、誰とも行き会わなかった。
早夜が不思議に思って見回していると、ナイールがそれに気づいて教えてくれる。
「ここは、今はもう使われていない道なんだ。だから、いくら大きな声を出しても大丈夫。さっきみたいに歌ってもね」
「も、もう歌いません!」
真っ赤になって喚くと、ナイールは「そう? 残念だな」と言ってクスリと笑ったのだった。
「あれ? でも、どうしてこんな道を通るんですか?」
早夜が首を傾げると、ナイールは急に笑みを引っ込め、早夜を見つめる。その真剣な眼差しに、思わずドキリとしてしまった。
そんな突然の変化に戸惑っていると、
「あなたを他の者の目に晒したくない。特にあの貴族どもの目には……」
少々表情が硬くなり、ギリッと歯を食いしばる様を見て、早夜は彼に近づき、その腕に手を乗せた。
「あの、ナイール王子……?」
大丈夫ですかと続けようとしたが、気付けば早夜はその腕に閉じ込められていた。
「あ、ああああの!? ナ、ナイール王子!?」
いきなり抱きつかれ、戸惑う早夜。彼の力は思いの他強く、早夜は全く身動きが取れなかった。
(もし、サヤがあのダウシェダのような者の手に渡ったら……またムハンバードに傷つけられたら……)
ナイールはそう思うと、どうしようもない気持ちが湧き上がってくる。
今こうして、自分の腕の中にすっぽりと収まってしまう存在。穢れを知らず、こんなにも綺麗で純粋な存在。
(サヤを今すぐ私だけのものにしたい。閉じ込めて誰の目にも晒す事無く、綺麗なままに……。その漆黒の瞳の中に、私だけを映してもらいたい……)
腰に回した手に、無意識のうちに力を込めていた。腕の中の早夜が、ハァッと苦しそうに息を吐き出すのを聞いて、ナイールは少し力を緩めた。ホッとしたように肩の力を抜く早夜。ナイールはそんな早夜を狂おしい気持ちで見下ろす。
いつの間にか早夜の存在は、こんなにも彼の中で特別なものとなってしまったようだった。
「あ、あの……?」
赤く染まった頬。苦しかったのか、その目には涙が浮かんでいる。
まるで星が散ったようだとナイールは思った。
そして、吸い込まれるようにナイールは早夜に顔を寄せてゆく。
「……サヤ、どうか私だけのものに……」
「え? ……え!?」
早夜は最初、彼が何をしようとしているのか分からなかった。
しかし、ナイールが少し首を傾け、唇を薄く開くのを見て、彼が今しようとしている事が何なのか悟った。彼の唇は、確実に早夜の唇を狙っている。
(え!? なんで? どうして急に!?)
一瞬、またからかわれているのかと思った。
だって、何故いきなりこんな状況になったのか、全く思い当たる節はない。
そうこうしている内に、彼の唇が早夜の唇からあと数センチと迫った。
その時である。
早夜は薄暗い中で、目の端にある物を捉えてしまった。
最初は音であった。カサカサという音。
次に気配……。
そして、早夜がそれを何であるか理解した時、
目の前のナイールの存在も、
今この状況も、
早夜の中から綺麗さっぱりと消え去ってしまったのである。
早夜は胸いっぱいに空気を取り入れ、そしてあらん限りの力で叫んだ。
「い、いやぁぁぁあああ!!」
その叫びに目を白黒とさせるナイール。我に返るが、あまりの事に声も出ない。
それから早夜は、ナイールにしがみ付き、体を強張らせて叫び続けていた。
どうやら、キスしようとした事で叫んでいるのではないと分かった。
よく聞いてみれば、
「いやぁー、あっちいってー!!」
とか、
「ムカデ嫌い~!!」
等と言っている。
「……ムカデ?」
はて、ムカデとは何だろうと、ナイールが壁に目を向けてみれば、細長くて足の多くある虫が、そこに張り付いていた。
それは、早夜の世界のムカデにそっくりであった。そして早夜は、何を隠そうムカデが大の苦手であった。今、壁を這い回るそれは、早夜の知っているムカデよりも足が多く、長く、太かったのである。
その大きさは、早夜の許容範囲を、遥かに超えたものだったのだ。
「何だ、チャムカの子供じゃないか」
ムカデとは何だろうと首を傾げていたナイールは、その正体を知り、何処か拍子抜けしたようにそう呟いていた。
その言葉にピクリと反応する早夜。
(何か今聞いてはいけない事を聞いてしまった気がする……)
早夜は震える声で呟いた。
「チャ…ムカ? こ、ども……?」
顔を引きつらせる早夜を余所に、ナイールはコクリと頷きこう言った。
「そうか。サヤの世界では、チャムカの事をムカデと言うんだね? でも、実に大人しい性格で、逆に臆病な位の生き物だから、そんなに怯えなくても大丈夫だよ」
安心させるように優しく笑って、早夜を抱きしめる。
しかし、早夜の訊きたいのはその事ではなく――
「あ、ああああれで子供?」
「ああ、大人になると、人の胴体くらいの太さになるかな」
「ひっ!!」
思わずナイールの胴体を見てしまう早夜。真っ青になって、体を強張らせた。
すると、ナイールは周りを見回しながら語り出す。
「でも、詳しい生態は、まだよく知られていなくてね。人の手では繁殖させるのは無理だとされているんだ」
「は、はんしょく!?」
「もしそれが出来れば、クラジバールにとっても良い収入源となるのだけれど……」
「しゅ、収入源って……」
何だか物凄く嫌な予感がした。聞いてはいけないと本能が告げている。
そして、その嫌な予感は当たった。
「チャムカは高級食材なんだ」
「………」
早夜は見事に固まった。
「そこに居るのは、まだ食べられないけれど、すり潰して乾燥させれば綺麗な緑色の顔料となるし……。成虫になれば、無駄なところは一切なくて、硬いからは細かくしてスープの素材に使えるし、身は、足と胴体の部分で全然味が違う。肝は普通に調理しても美味しいけれど、乾燥させると万病に効く薬とされていて、万能食材でもあるんだ。
チャムカ一匹で、豪邸が建つほどの高値で売り買いされていてね、それほど貴重な食材なんだ」
「………」
早夜は真っ青になって震えている。
それには気付かず、ナイールは真剣な顔で辺りを探る。
「子供がいるって事は、近くに親もいるかもしれない。それに他にもまだ子供がいるも知れないな……親が一度に産む卵の数は約一万と言われているから……巣があるかもしれないから後で調査して捕獲――……サヤ?」
ナイールの声が遠く離れてゆく。
早夜は意識を深い淵に沈ませていったのだった。
それは、とても懐かしい夢だった。
「わーい、雪だー!」
息を弾ませながら、早夜は白い雪の中を走ってゆく。
真っ赤な、おろしたての長靴。
積もったばかりの真新しい雪。
早夜が踏みしめた傍から、足元でキュッキュッと音がする。
「こら、早夜? ちゃんと手袋をしなさい。しもやけになっちゃうわよ?」
アヤがはしゃぐ早夜を注意した。
「暑いからやー!」
けれども早夜は、そう言ってアヤの忠告を拒んだ。
「もー、後で痛いって泣いても知らないわよ?」
「泣かないもん」
ベッと舌を出して駆けてゆく。
そうしてお寺の中を駆けて行くと、目の前に早夜のよく知る人物が見えた。
「あ、おじぃちゃん先生だ!」
彼はしゃがみこんで、何かを眺めていた。
早夜は息を弾ませながら、彼の傍らにやってくると、
「おじぃちゃん先生? 何してるの?」
「ああ、この倒木……倒れた木を見ていたんですよ」
「倒れた木? 死んじゃってる木?」
「ええ、死んではいますが、その代わりに多くの生き物に生を与えてもいるんですよ。餌になったり、寝床になったり」
早夜は彼に習って、しゃがみ込んでその倒木を眺める。
「寝床? お布団って事?」
「そう、春を待つ生き物が、冬を越す為、この木の中で眠っているんですよ」
早夜はそれを聞きながら、「へぇ」と言って手を伸ばした。
しかしそれは、寸前で皺くちゃな手に止められてしまう。
「駄目ですよ、早夜。彼らは眠っているのですから。それに、この雪の中で起こしてしまったら、寒くて可哀想でしょう?」
「はーい」
早夜は素直に頷くと、老人はニッコリと笑って立ち上がる。
「さて、そろそろ戻りましょうか。アヤさんにお餅でも焼いてもらいましょう」
「おもち? きなこ? おしょうゆ? あんこ?」
「きな粉もお醤油も餡子も、みんな美味しそうですね。アヤさんに頼んで、三つとも作って貰いましょうか?」
その言葉に、早夜は嬉しそうに、ウフフーと笑った。
老人はそんな早夜の頭を撫でると、アヤの居る方へと歩いてゆく。
早夜もまた、その後を追いかけて行こうとしたのだが、ふと立ち止まって、先ほどの倒木を眺めた。前の方を歩くおじぃちゃん先生の背を窺いながら、そっとその倒木に近付き、指の先で、つんと突いてみる。
フニャッと柔らかい感触。
不思議な感触に、早夜はもう一度突こうとして、その気の皮が剥がれそうになっている事に気付いた。
好奇心には抗えず、早夜はその皮をベリッと剥がした。
そして見てしまった光景。
そこには、無数の虫が、折り重なっていた。
早夜が皮を剥がしてしまった事で、虫たちはその明るさに驚き、ザワザワと動き出した。
ゾロリ……。
手に違和感が走った。
見れば、皮の方にも虫がびっしりと張り付いており、その内の一匹が、早夜の手を這っていた。
それはひょろ長く、手足の沢山ある生き物。
そう、それがムカデだったのである。
「ギャーン!!」
劃して早夜は、その場で大声で泣きに泣いた。
木の皮をすぐさま離し、手に這う感触もろとも振り払おうと、ぶんぶんと手を振った。
当然の如く、その泣き声を聞きつけたおじぃちゃん先生とアヤが、慌てて駆けつけたのだが、そこで見た光景に唖然とした。
そこには、泣き叫ぶ早夜と、その周囲一メートルほど、土が綺麗に抉られていた。
あの倒れた木諸共、跡形もなく消え去っていたのだった。
「うーん……ムカデが……ムカデが……」
「サヤ……?」
幼き日の嫌な思い出。
あの感触は一生忘れる事は出来ないだろう。
うなされながら早夜が目を覚ますと、心配そうに此方を見下ろすナイールの顔があった。
「ナイール王子……?」
「良かった。急に倒れてしまうから、心配したよ」
安心して、フッと笑うナイール。
早夜は思い出して、ハッと辺りを見回すと、まだあの薄暗い通路の中に居るのだと知った。如何やら、気を失って、それほど時間は経っていないようである。
まだあのムカデもどきが近くに居るような気がして、早夜は体を強張らせると、ナイールが困ったように笑った。
「まさか、チャムカにこれほど怯える人間が居るとは思わなかったよ。サヤの世界では、それほど恐ろしい生き物なの?」
「い、いいえ、それ程のものでは……」
「しかし、あの怯えようは……」
「そ、それは……ちっちゃい頃のトラウマというか……」
早夜は、今しがた夢にも見た、あの手を這う感触を思い出し、真っ青になって震え出した。
その様子を見て、余程恐ろしい目に会ったのかと思ったナイールは、宥めるように早夜を抱き締め背中を擦った。
「もういい、思い出さなくてもいいから……怖い思いをさせてしまったみたいで、すまなかったね」
そう優しく話しかけられ、一先ず恐怖は去ったのだが、新たな問題が発生した。
その時、早夜は漸く気付いたのだ。自分がナイールに抱きかかえられているという事に。
「あ、あの、あの、もう大丈夫ですから、降ろして下さい」
そう訴えるも、ナイールは一向に早夜を降ろす素振りは見せない。
それどころか、早夜を抱く手に力を込め、強い眼差しで此方を見下ろしてきた。
「あの、ナイール王子……? 重いですよね?」
「もしかしたらまた、チャムカに遭遇するかもしれないよ?」
「う……」
見事にコチンと固まった。
「それに、気になるほど重くはない……と言うか、あなたの何処に、気になるほどの脂肪があるというのかな?」
特に胸を見ながらナイールは言った。その口元は、意地の悪い笑みが浮かんでいる。
からかわれ、早夜の頬がプクリと膨れる。
「何だったら、今日はもう帰ろうか? 他の異界人たちに会わせるのは、また後にだって出来るからね」
「だ、駄目です!」
「サヤ……?」
帰ろうと言われて、咄嗟に叫んでいた早夜。訝しげな顔をするナイールを見て、早夜はハッとしてしまう。
「あ、あの…会いたいんです、私以外の異界人の人に……その、お話とかもしてみたいし……」
「でも、アルフォレシアには、もう一人異界人が居るよね? 魔眼使いのリュウキに……」
(ハッ、そうか! そういえばそういう事になってたんだった……)
しまったと思ったのだけれど、ナイールは直ぐに、
「でもまぁ、リュウキ・オルカは、この世界に来て大分経つし、もうこの世界の人間と言ってもいいかもしれないな……」
「そ、そうですよね! セレンさんと婚約もしてますしね!」
誤魔化すように相槌を打つ早夜。
しかしその時、ナイールがフッと苦笑したのだけれど、早夜は全く気付く事は無かった。
私にも、幼少時に似たような経験が……。
何気なく落ち葉を拾った所、その裏に何かの幼虫がびっしりと……おおぅっ、鳥肌がっ!!
備考:チャムカ。煮てよし焼いてよし! 足はプリプリの蟹の如く、胴体は鶏肉のようにほろほろと解け味は牛肉の様な深みと豚肉の様な甘みがあり、肝はとろりと蕩けるウニの如し。
おいしいよっ!