9.本当の笑顔
「……? 何ですか、これ?」
ナイールが差し出してきた箱を見て、首を傾げる早夜。
一見すると何の変哲もない普通の箱のようだった。
「贈り物だよ」
ナイールはフッと笑ってそう告げる。
早夜はその笑顔を見て「おや?」と思った。何故だか、彼に元気が無い様に思えたのだ。
「どうかしましたか?」
彼の顔を覗き込むようにして訊ねると、ナイールは首を傾け、「何が?」と訊き返してきた。
「いえ、何だか元気が無いように見えたので……」
するとナイールは微苦笑を浮かべ、するりと自分の頬を撫でる。
「参ったな……顔に出てたのか……」
独り言のように呟くと、不意にこう言ってきた。
「サヤは私が、あのムハンバードに似ていると思うかい?」
早夜はゆっくりと瞬きをした後、「えぇ!?」と声をあげる。
あの肉まりの様なムハンバードと、このスマートな体系のナイールを重ねて見るなんて無理だ。
「何でも、昔のムハンバード王と、私はそっくりなのだそうだよ」
「という事は、王様は前は痩せていたんですね?」
「……そうみたいだね」
肩を竦める彼を見て、早夜はうーんと首を捻る。
「じゃあ、ナイール王子が太っちゃったら、今の王様そっくりになっちゃうんですか?」
思わず想像してしまい、ううっと唸った。
するとナイールは眉を顰め憤慨し、目を眇める。
「勝手に想像しないで欲しいな……」
「あうっ、ご、ごめんなさいっ!」
慌てて頭を下げると、誤魔化すように早夜は言った。
「で、でも、やっぱり親子というものは似るものなのでしょうか?」
「……やっぱり?」
「実は私も、私を産んでくれた母にそっくりなんです」
「……サヤの母親?」
「はい、ただ、髪と瞳の色が違うんです。白髪に紅い瞳ですから」
その話を、ナイールは興味深そうに聞いている。
早夜を見据える彼の目は、まるで早夜を通して、見た事の無い彼女の母親を見ようとしているようだった。
「それは変わっているね。サヤの世界では、白い髪の人間から、そんな漆黒の髪の者が生まれるのか……」
「あ、それはその……母は特別と言うか、突然変異と言うか……。とにかく、私の生まれた世界では、皆こんな黒い髪と瞳をしているみたいです」
うん、多分そうだろうと、自分の中で早夜は頷いた。
実際の所は分からなかったが、リジャイの見せてくれた映像の中で、父は黒髪だったしアヤもまた黒髪だった。それに、星見祭の時におじぃちゃん先生が見せてくれた映像の中でも、アヤを捕らえた兵士達は皆黒髪であった。
(そういえば、お母さんはどうなったのかな……)
アヤの安否を思い、早夜は表情を曇らせた。
「しかし、私は以前、サヤの瞳が赤く染まったのを見ているけど、それはどうなの?」
早夜の様子に気付かぬまま、ナイールが訊ねる。
自分の思いにとらわれていた早夜は、ハッとして彼に目を向けた。
ナイールはというと、その早屋の漆黒の瞳を見ながら、あの魔法を使った時に見せた赤い瞳を思い出していた。
何か引き込まれそうな……見つめずに入られない、そんな力を秘めた瞳。
「えっと、それは……母の魔眼を受け継いだというか……」
「魔眼……?」
魔眼と聞いて、アルフォレシアの魔眼使いの事を思い出す。
(確か、その魔眼を使うアルフォレシアのリュウキも、普段の瞳の色は漆黒だという……それにムエイ、彼もまた漆黒の瞳と髪……これも偶然だろうか?)
ナイールはそんな事を思いながら、早夜の話に耳を傾ける。
「母の魔眼は普通の人間であれば、目が合った途端に命を奪ってしまう様な恐ろしいものだったそうです。でもある日、神様がその力を封印してくれたんですよ」
神様というのは、当然の事ながらリジャイの事である。
よく知る人物の事を、まるで御伽噺のように話す自分がなんだか可笑しい。思わずクスリと笑うと、ナイールが目を見開いて信じられないというように早夜を見てくる。
「……神様? サヤの世界では、神の存在は確かなものなのか!?」
「はい。とても人間的で、優しい神様ですよ。でも寂しくて悲しい思いをした人でもあります……」
早夜は遠い目をして、無意識に左手の指に嵌めてある指輪を撫でた。
「それに、その神様は母の育ての親で、つまりは私のおじいさんって事になるんですよ。凄くないですか? あ、でも、おじいさんは止めて欲しいって言われてたんだった」
クスクスと頬を染めながら思い出し笑いをする早夜を前に、ナイールは肩を竦めて首を振った。
「まるで御伽噺だな……俄かには信じられない……それは本当に神なのか?」
「神様って言うのは、人々の心が生んだ偶像でしかないってある人が言っていました。でも確かに救われる人はいるんだから、ちゃんと居るとも言えるそうです。その神様が何者であれ、神様と信じる人が居ればその神様は神様なんです」
「……なんだか、急に宗教的な話になってきたね」
「はい、だってこの話を教えてくれた人はお坊さんでしたから。でも、その神様は私にとって、大切な人の一人です」
「大切な人か……まぁ話を戻せば、私が見たあの紅の瞳は、母親譲りという事なんだね?」
ナイールがそう確認すると、早夜はにっこりと笑い頷いた。
「はい、そうですよ。あ、そういえば、ナイール王子のお母さんってどんな人なんですか?」
何となく気になって訊いてみた。
彼の父であるムハンバードは、こんな綺麗な青い瞳はしていなかった筈である。という事は、母親譲りという事だろうか。
そんな事を思って訊ねたのだが、ナイールは何とも難しい顔をして押し黙ってしまった。
それを見てハッとする。
(もしかして、もう亡くなってるとか……?)
サッと早夜は顔を青ざめさせた。
「ぶ、不躾にこんな事を聞いてすみません! 話したくないなら、話さなくても……」
「……知らない……」
「え……?」
ポツリと呟く彼の声を聞き、早夜は首を傾ける。
すると、ナイールは困ったように笑いながら、此方を見てきた。
「私は、母の事は知らないんだ」
「え!? それってどういう……」
「この国では、王族や貴族の者は皆そうなんだ。生まれて直ぐに母親とは引き離される。
女が男のもとに嫁げば、一生その男のものとなる。そして、他の男が触れる事も、目にする事も許されない。例えそれが、その女から生まれた息子であったとしてもね……」
「そんな……」
悲しげに眉を下げる早夜に、ナイールはフッと笑って静かに言った。
「……私は母を知らない。何処に居るのかも、その顔も名前さえも知らない……」
そこまで聞いた早夜は気付いた。
それは、自分と同じではないだろうか。
リジャイのお陰で、本当の親の顔を知る事が出来たが、それが無ければ自分もまた、彼と同じように、一生知る事など無かったかもしれない。
アヤがずっと自分の母だと信じて疑わず、本当の親の存在さえ分からなかった筈だ。
「サヤは、母親と似て幸せかい?」
ふとナイールに訊ねられ、早夜は素直に頷いた。
「はい。幸せというか、嬉しかったです。繋がり……絆のような気がして……」
「そう、でも私は、あんな男になど似たくは無い……。
サヤはいいね、きっと見た目と同じ位、中身も似ているのだろう……お人好しでお優しくて……。きっと愛されて育ったのだろう? 羨ましい限りだ……」
心底羨む様に、そして恨みがましく、ナイールは早夜に向かってそう言った。
しかしながら、早夜はニッコリとナイールに微笑み掛ける。
「はい、私は愛されて育ちました。私は幸せです」
その揺るぎ無い自信と笑顔に、虚をつかれた様に目を見開くと、顔を逸らした。
彼はまるで自分が、つまらない人間になってしまったような錯覚に襲われたのだ。
そんなナイールを前に、早夜はそっと目を瞑った。
(そう、私は愛されて育った……。私を育ててくれたお母さん。そして、おじぃちゃん先生。会った事は無いけれど、きっと本当の家族も私の事を愛してくれてた……)
だからこそ会いたい。会って自分もそれに答えてあげたい。
あの謎の仮面の男に囚われている家族を思い、早夜はギュッと拳を握った。
「サヤ?」
不意に声を掛けられ、ハッとして顔を上げると、目の前に訝しい顔をするナイールが此方を覗き込んでいる。
早夜は力の入った拳をゆっくりと開くと、ハァと短く息を吐き出し、肩の力を抜いてゆっくりと首を振った。
「いいえ、何でもありません……」
そう言って悲しげに微笑む早夜を見て、ナイールは無性に胸がざわついた。
何故、彼女がこんな顔をするのか。まるで痛みを押し隠すような顔だ。
もしかしたら、自分はとんでもない失言をしてしまったのではないだろうか。
ナイールはそう思って早夜を見た。
早夜は自分が思っているほど、恵まれた生活をしていないのかもしれない。彼女は異界の者。元の世界で彼女がどのような生活を送っていたかなんて、分かる筈もない。
聞いてみようかとも思ったが、何故か言葉が出てこなかった。
その代わり、ナイールは先程も早夜に見せた箱をもう一度差し出す。
「あ、そういえば……何なんですか、この箱?」
「いいから、開けてみて」
促され、早夜は今度こそ、その箱を受け取ると箱の蓋を開いた。
するとそこには銀色の輪っか。
「っ! これは、枷?」
そう、それは奴隷のつける魔力の枷であった。
先ほどナイールは、これを贈り物と言わなかっただろうかと、早夜は不思議に思った。
するとナイールはニヤリと笑って見せ、
「それがあれば、ある程度自由に歩けるけど?」
それを聞いて、早夜はその意味をゆっくりと吟味した後、パッと顔を輝かせた。
「という事は、もうこの貴族の服は着なくてもいいんですね!?」
(やった、普通の服が着れる!)
早夜はまるで、小躍りしそうなほど喜んだ。
ナイールはそんな早夜の様子に、少しばかり噴き出すと、箱の中の枷を手に取った。
「これを目の前にして、そんなに喜ぶのは、サヤ位のものだよ」
「え!? だって、誰だってこんな格好したくありませんよぅ」
「こんな格好か……よほどお気に召さないみたいだね。前にも言ったけど、貴族の女性にとっては正装なんだよ?」
「だ、だって恥ずかしいです……」
顔を赤らめる早夜に向かって、ナイールがその耳に唇を寄せ、ボソリと囁く。
「それは、その胸を見られたくないからかい?」
「っ!!」
一気に頬を膨らませる早夜を、ナイールは可笑しそうに見つめてくる。
先ほどの気持ちの負い目を、少しでも拭うように、ナイールは早夜をからかったようだ。
「か、からかいすぎです!」
真っ赤になって怒る早夜は、持ったままになっていた枷の入っていた箱を、ナイールに投げつけようとする。
それを見てハッとするナイールは、慌てて早夜の手首を握ってそれを阻止した。
「ああっと、危ないなぁ。もう一つ入っているのに」
「え?」
ナイールはクスクスと笑いながら、箱の底に敷いてある布を取り払った。そこは上げ底になっていたようで、開くと美しい首飾りが出てくる。
「私の部屋の中に居る間は、これを付けていて欲しいな……」
ナイールはその首飾りを早夜の首にかけた。
早夜は戸惑い、首に掛けられたそれを手に取り眺める。青く澄んだ輝きを放つ石が付いていた。
「綺麗ですね……。ナイール王子の瞳の色みたい……」
するりと自然に出てきた言葉であった。
早夜はハッとする。
これではまるで、ナイールの瞳を綺麗だと言っている様なもの。
ナイールも一瞬、目を見開くと、直ぐにクスリと笑って早夜の髪を人房手に取った。そして、サラサラと指の中で滑る感触を楽しみながら、艶っぽい眼差しで早夜を見つめると、
「では私は、あなたのこの髪や瞳の様な、漆黒の輝きを放つ、黒曜石の首飾りでも付けようか……」
思わずゾクリとするような色っぽい掠れた声で囁かれ、早夜は真っ赤になって固まってしまう。
(ナ、ナイール王子って、何でこんなに色っぽいんだろう……ううっ、心臓に悪いよぅ……)
ドギマギとしながら、視線を彷徨わせ、「べ、別にそういうつもりで言った訳では……」あわあわと言い訳をしていると、ナイールがさも可笑しそうに笑い出す。
直ぐにからかわれたのだと気付いた早夜。
「てっきり口説かれたのかと思ったよ」
「く、口説いてません!」
真っ赤になって頬を膨らませていると、その膨らんだ頬に、ナイールが突然キスをしてきた。
吃驚して息を吐き出し、元に戻る頬っぺた。ナイールは、そんな早夜をしれっとした顔で見つめると、こう言ってきた。
「やっぱり怒った顔が一番可愛いな……特に膨れた顔は面白くて」
「お、面白い!?」
面白くて可愛いとは、どういう事なのだとまた頬を膨らませる早夜に、ナイールはまた吃驚するような事を言ってきた。
「実はその首飾り、王妃の首飾りでね」
「へ?」
ポカンとして首飾りを見下ろす早夜。そして慌てて首から外すと、ナイールに付き返した。
「そ、そんな大変な物、付けられません!」
しかしナイールは、付き返そうとする早夜の手を止めた。
「貴族の服同様、あなたを守る為だとしても?」
「え? 何でこれが私を守る為になるんですか?」
またからかわれているのだろうかと、疑いの目を向けると、ナイールが暗い目で俯いた。
「……私のものだという証し……」
「え?」
「誰にも手を出させやしない。誰であろうと……。そう、例え王だとしても……」
そこまで呟いたナイールは、突然クックッと笑い出した。
「ナ、ナイール王子?」
恐る恐る声を掛けてみると、彼は顔を上げ、クシャリと自分の髪を書き上げた。そして、天井を見上げ、何処か諦めたように呟く。
「……そうか、こういう所が似ているんだな……」
その目は何処か荒んでいて、口は自嘲気味な笑みが浮かんでいる。
「独占欲と執着心……私はやはり、あの男の血を受け継いでいるんだな……」
それからまた俯くと、苦い顔をして、「嫌だな……」と呟いた。それは本当に嫌そうで、でも逃れられない。そんな諦めの呟き。
早夜はそんな彼に声を掛けられずにいた。そうする事を躊躇う雰囲気が漂っている。
それでも意を決して、早夜は声を掛けた。
「あの、ナイール王子」
すると彼はゆっくりと顔をあげ、早夜の事を見た。こげ茶色の髪の間から見える、あの澄んだ泉の様だった瞳は、今は暗く淀んでいる。
一瞬怯みそうになる早夜であったが、ズイッと身体を乗り出して言った。
「どんなに似ていたとしても、親子として血が繋がっていたとしても、ナイール王子はナイール王子ですよ!」
「……っ!」
「それに、似ているという事は、違うという事です。そうでなければ、同じと言うでしょう?」
ナイールの目が見開かれる。幾分か、光も戻ったようであった。
「人格を作るのは、環境と人と経験だそうです。同じ環境や人に囲まれていれば、似てくるのは当たり前じゃないですか。
それにナイール王子は、王様とは違った経験を積んでいる筈です。だから、ナイール王子が王様の様になるなんてありえません。かといって他の人になる事もあり得ません」
最後にもう一度、力を込めて「だからナイール王子はナイール王子なんです!」と言ったら、いきなり力強く抱き締められた。
そのまま首に唇を押し当てられ、ゾワッとして慌ててナイールを離そうとしたのだが、次の瞬間「ありがとう」と告げられ、早夜は動きを止める。
「あ、あの――」
「私は今、初めてあなたという人を見たような気がする……」
「え? それってどういう――」
どういう意味かと訊こうとしたが、早夜はその続きを言う事が出来なかった。
ナイールは顔を上げ、早夜に微笑みかけていた。
すっかり霞の取れたような瞳を向けてくるナイール。その瞳は、今までも澄んで綺麗ではあったが、何処か冷たい印象を持たせたものであった。
しかし、今はその冷たさはなく温もりが宿っている。
「サヤ、あなたはとても綺麗だ……」
そう囁いてくるナイールから目が離せない。
今まで、何処か人を食ったような笑みを向けてきていた彼が、自然に心からの笑みを向けてきている。
そうすると、歳相応な少年っぽさが前面に出て、早夜もまた、彼の初めての……本当の笑顔を見たのだった。