事の始まり
目の前には、小さい可愛い妹。
身を屈め、その柔らかな頬に口付けを落とす。
途端に上がる、弾ける様な笑い声に、リュウキは顔を綻ばせた。
「父上、オミサヤが笑いました!」
顔を上げると、優しく微笑み、頷く男性。
彼はこの小さなオミサヤを抱き、この幼い兄妹を愛しげに眺めている。
「それはきっと、リュウキ、お前に巡り会えたのが嬉しいからだな」
微笑みながら男性が言った。
彼の名はロウガ。
この国、キサイ国の王にして、この少年の父親でもある。
そしてこの、小さなオミサヤなる赤子もまた、ロウガの子であった。
「じゃあ、私も嬉しいです! オミサヤに巡り会えた事は、私にとっても、何よりも嬉しい事です!」
リュウキは言った。
小さなリュウキの手の中でも、更に小さなその手は、リュウキの指を、力いっぱい握り締める。
「オミサヤ、私はリュウキ。お前の兄だよ。
ああ、早くオミサヤが歩けるようになればいいのに……。そうしたら、この兄が何処へでもお前を連れて行ってあげる。取って置きの場所にも連れて行ってあげるよ。そして、色んな事を教えてあげる。この国の事、この世界の事。
この世界はきっと、お前を愛してくれるよ」
そうして、リュウキが囁きかけている間、眠いのか、オミサヤは小さな手で目を擦り、可愛らしい口で欠伸をした。
「ああ、アヤ。オミサヤが眠いようだ。寝かせてくれるか?」
ロウガは顔を上げ、先程から、微笑ましげに見ていたアヤに向かい言った。
「はい、分かりました」
そう言うと、アヤは王であるロウガから小さなオミサヤを受け取り、その胸に抱いた。
(この小さな命がこの世に誕生してから、何だか世界が煌く様に見える気がする)
アヤは思った。
皆がこの命の誕生を祝福し、その姿を見れば、皆がこの小さな命を愛しく思う。
アヤもまた、自分の胸の中で寝息を立て始めるオミサヤを、愛しく思った。
そして、ロウガに向かい礼をすると、この部屋を出る。
「あ、私も一緒に行きます! では、父上、失礼します!」
リュウキも父に向かい頭を下げると、アヤの後を追おうとする。しかし途中で立ち止まり、ロウガを振り返ると、
「私は、父上や母上に巡り会えた事も、とても嬉しく思います!」
ロウガは目を見開くと、フッと笑って頷く。
「ああ、そうだな。余もお前達に巡り会えた事は、とても嬉しいよ」
リュウキは、嬉しそうにニッコリと笑うと、今度こそ部屋を出てゆくのだった。
「兄上、兄上!」
リュウキは大きな声を上げて、部屋の中に駆け込んできた。
「なんだい、リュウキ。そんなに慌てて」
青白い顔の少年が、突然入ってきたリュウキに、苦笑いしながら尋ねる。
「ああ、兄上! 寝てなくていいのですか!?」
寝台から抜け出し、机で本を読んでいる兄、ムエイに向かい、リュウキは心配げに聞いた。
「ああ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。今日はとても気分がいいんだ。
それより、何か言いたい事があったんじゃないのかな?」
すると、「あ!」とリュウキは声を上げ、興奮して喋り出す。
「兄上! 今日、オミサヤが僕に向かって笑ってくれたんです。そしたら、父上が言ったんですよ。それは、オミサヤが僕に巡り会えたのが嬉しいからだって!」
輝くように笑い、リュウキは言った。
父の前では“私”と言っていたリュウキであったが、今は“僕”に変わっている。
そんな弟を、ムエイは眩しげに見ながら、頷き微笑み返した。
「父上が言うのなら、きっとそうなんだろうね。良かったじゃないか、リュウキ」
「はい、きっとオミサヤは、兄上とも巡り会えて、嬉しいと思いますよ。だって、僕も兄上と巡り会えた事は、とっても嬉しいもの!」
「それはありがとう。私もリュウキ、お前に巡り会えて嬉しいよ……」
そう言うのに、ムエイは何処か、寂しそうに見えた。
ムエイは、リュウキが去った後も、机で一人、本を読んでいた。
そして、今聞いた弟の言葉を思い出す。
(巡り会えて嬉しいか……果たして、父上や母上は、私と出会えた事を、嬉しいと思っているのだろうか? この、体の弱い自分を……)
ムエイがそう思っていると、急に部屋の雰囲気が変った。
ぬるりとしたその異様な感覚に、ムエイはハッと後ろを振り返った。
いつの間にやら、そこには男が立っていた。
鉛色の髪をゆるく束ね、紙の様に白い肌。そして、その顔には仮面をつけている。
ムエイはゾクリとした。
(誰かが入ってくる気配なんて、一切感じなかった。それよりも、ここは王宮の奥だ。普通の男が入ってこれる訳がない)
そう思って身構えていると、
「申し訳ありません、坊ちゃま。ここは一体何処でしょうか? 私の名前は、オルハリウム・バーツと申します。この度、異界より参りました。以後、お見知りおきを。あ、この仮面はどうぞ気になさらず。顔に酷い怪我を負っているのです。とてもではありませんが、人様に見せられるようなものではありません……」
男はすらすらと淀み無く、一気にここまで言った。
ムエイは眉を顰め、この男を注意深く、そして慎重に見つめる。
「異界……?」
「はい、世界から世界へと渡り歩く、所謂、旅人というやつですよ、坊ちゃま」
「その“坊ちゃま”は止めてくれませんか? 何だか馬鹿にされた気分だ。
私はムエイと言います。ムエイ・オウジュド・オルカです」
ムエイがそう言うと、オルハリウムは深々と頭を下げ、謝罪の言葉を口にする。
「これは失礼致しました、ムエイ様。私の事は、オルハリウムとお呼び下さい。ところで、この世界には如何やら、かなり強い力を持った者がおるようですが、もし宜しければ、その者に会わせて頂けないでしょうか?」
ムエイは、この仮面から覗くオルハリウムの瞳が、スッと細くなるのを見た。
ムエイがそこに行くと、揺りかごの中から、小さな手がのぞくのが見えた。
まるで、何かを掴もうとするように、いっぱいに手を伸ばしている。
「オミサヤ? 一人でつまらないのかい?」
ムエイはそう語りかけ、覗き込むと、円らな瞳と目が合った。
不思議そうに見やるその小さな妹に、ムエイは微笑みかけ、そっと揺りかごを揺らしてやる。
オミサヤは、ムエイをじっと見つめ、「あー」と声を発しながら、手を伸ばしてくる。
此方に向かって、いっぱいに手を伸ばしてくるオミサヤに、ムエイもまた手を差し出した。
しかし、次の瞬間、ムエイの手がピタリと止まった。
何故ならば、この小さなオミサヤの瞳が、紅く染まっていたからだ。
それは魔眼――。
母から引き継がれたもの。そして何らかの力が備わっている。
リュウキも魔眼を持って生まれた。しかし、自分には引き継がれなかったもの。
ムエイは手を引っ込めた。
オミサヤは、何かを求めるように声を上げ、更に手を伸ばそうとするが、ムエイはそれに答える事が出来なかった。
(オミサヤには、万物の力も備わっているのに、更に魔眼もだなんて……)
愕然とし、そう考えていると、肩に何者かの手が置かれた。
「ムエイ様、此方でしたか……」
その声に振り返るムエイ。
そこには、オルハリウム・バーツが立っていた。
彼はその後、王であるロウガに取り入り、役職を得た。
神官だという。
ムエイは今や、この男に、ある信頼を置いていた。
異界の話もムエイを惹きつけるものだが、それよりも、彼の顔の傷が、人から哀れまれるその姿が、何処か自分と重なって見えたのだ。
ムエイは揺りかごから離れた。
「何か御用ですか?」
「いえ、そろそろお休みになられませぬと、お体に毒ですよ?」
「いいえ、貴方に施してもらった術のお陰で、ここの所、大分楽になりました」
後ろで、オミサヤのむずがる声がした。
だが、ムエイは部屋を去ろうとする。
「……よろしいのですか?」
揺りかごを覗き込み、オルハリウムが聞いた。
ムエイは彼を振り返ると、淀んだ瞳で、
「私には、その子に答える事は出来ませんから……」
そう言うと、そのまま部屋を出て行った。
そうして、この場に残されたオルハリウム。彼は泣きじゃくる幼子を見下ろす。
彼を見ると、何処か怯えた様に、更に泣き出した。
「分かるのか? 私が何を考えているのか……」
オルハリウムは手を伸ばす。その口に、引きつった笑みを浮かべて。
しかし、その手がオミサヤに触れそうになった時、バチンと何かに弾かれた。
「っ!!」
オルハリウムは、痛みに顔を顰め、手を引っ込める。
怯えた様に此方を見る赤子の瞳は、紅く染まっていた。
彼はクックッと笑う。
「私を拒むか……まぁいい。準備は着実に進んでいる。……早くお前の心臓が喰いたいぞ、オミサヤ……」
そう顔を近づけ囁いた時、
「そこで何をしている!」
鋭い声が飛んできた。
顔を上げ、振り返ると、白髪の女性が此方を睨んでいた。
オルハリウムは、一瞬、表情を固くするが、直ぐに取り入るように笑顔を作る。
「いえ、オミサヤ様がむずがっておられたので、あやしておりました……」
「そんな事は結構です! さっさと出ておいきなさい!」
オルハリウムは内心、舌打ちをしながら、王妃である彼女に向かって礼をすると、部屋を出て行った。
オルハリウムが出て行った後で、キヨウはオミサヤを抱き上げた。
すると、落ち着いたのか、泣くのを止め、ウトウトと眠り始める。
「……母上……」
ポツリと呼びかける声が聞こえ、キヨウは顔を上げる。
そこには、扉の影から此方を覗きこむ、リュウキの姿があった。
キヨウはリュウキに優しく微笑みかけ、頷く。
「母上、オミサヤは無事ですか?」
キヨウに駆け寄りながら、リュウキは尋ねた。
「ええ、リュウキが教えに来てくれたお陰ね」
リュウキは、扉の影から見ていたのだ。
あの男が、小さなオミサヤに触れようとするのを。そして、キヨウに知らせに行った。
「母上、僕はあの男が怖いです……」
特に、あの瞳が怖かった。
仮面から覗くあの瞳は、何か背筋が凍るような、そんな眼差しだった。
「決して、あの男には近付いてはいけませんよ。何かあったら、直ぐに母に知らせなさい……」
「はい、母上……」
リュウキは、母の胸に抱かれる小さなオミサヤを見た。
今は安心して眠っている。そして思った。
(オミサヤは、絶対に守らないと……)
ある日、リュウキは信じられないものを見た。
ピチャピチャと何かを咀嚼する音。
広がる赤い水溜り。
倒れ伏す人。
そして、その傍らに立つのは、自分が恐ろしいと思っていたあの人物。
後姿ではあるが、その手を口元に持って行き、何かを食べているのだと、動きで分かった。
リュウキは震えた。
一体、何をしえいるのか、何を食べているのか、この光景を見て、最悪の答えが導き出される。
その男は、グイッと口を拭う仕草をした。
リュウキは、その紙の様に白い手が、真っ赤に染まっているのを見る。
体が震え、声が漏れそうになるのを必死で押さえた。
そして、思い浮かぶ母の顔。
リュウキは何とか震える足を動かすと、キヨウの元に走ったのだった。
キヨウは話を聞いて目を瞑っている。
その傍らではアヤが青い顔をしていた。
キヨウは目を見開くと、今だガタガタと震えるリュウキをその胸に抱く。
「もう大丈夫ですよ。母がついています……直ぐにこの事を、王に知らせなくては……」
しかし、キヨウが王の元に行くと、そこには既に、オルハリウムの姿が……。
白を基調とした、神官服には、赤い汚れなど一切見当たらない。
「ああ、キヨウ。そんな所に立っていないで、お前も此方に来たらどうだ? 本当に、オルハリウム殿の話は面白い」
そう言うロウガに、キヨウは何か違和感を感じ眉を顰めた。
よく見ると、ロウガの瞳が淀んでいる事に気付く。
キヨウは、胸に絶望感が広がるのを感じた。
恐らく、今の王には何を言っても通じないだろう。この、オルハリウムによって、何かしらの術を施されたのだと分かった。
キヨウはオルハリウムを見やる。
傷のせいなのか、引きつるように笑うこの男。
この男が来てから今までに、何人か人が失踪している。しかも皆、魔力の高い者達ばかりだった。
そしてさっき、リュウキの話を聞いて確信した。
全てはこの男がやった事。しかし証拠がない。
王はオルハリウムの傀儡となろうとしている。いや、もう既になっているのかもしれない。
キヨウはその時、ある覚悟を決めた。
「本気ですか!? キヨウ様!」
「ええ、あなた方を異界に送ります」
アヤは小さなオミサヤを胸に抱き、そしてその傍らには、リュウキが不安そうに、キヨウとアヤとを交互に見ている。
「万物の力。あの男は如何やらそれを欲しているようです……」
キヨウはアヤの胸に抱かれるオミサヤを見つめる。
オミサヤは気持ちよさそうに眠っていた。
「万物の力というのは、オミサヤの力の事ですよね、母上」
「ええ、そうよ。魔術に関するあらゆる知識と、それを行使できるほどの魔力を授かった物の事。そして、オミサヤはそれを授かった、神より祝福された存在」
皆でオミサヤを見つめた。
「そうか、だからオミサヤがいると、皆が笑うのですね? 神から祝福されたのなら、その周りの者も幸せにしてくれる。オミサヤはそんな存在なのですね?」
リュウキのその言葉に、キヨウもアヤも微笑み頷く。
「そうです、リュウキ。だから、この子は守らねばならない存在なのです。分かりますね?」
母キヨウの言葉に、リュウキは暫し考え、そして頷いた。
「はい、僕は……いえ、私は、オミサヤの兄です。兄は妹を守ります。ですから……ですから母上は、私達の心配はなさらず、自分の身を守ってください!」
キヨウは目を見開く。
(この子は……まだ幼いこの我が子は……全てを悟り、そしてこの母の身を案じている……)
キヨウはリュウキをその身に抱いた。
「どんなに離れていても、母は、貴方とオミサヤを想っています」
「……はい、母上……」
「母に会いたくなったら、そのお守りが母代わりです……」
リュウキは胸元に手を伸ばす。その下には、母から渡されたお守りが存在する。
「そして、アヤがいます。アヤが第二の母となるでしょう……。アヤ、お願いね?」
キヨウは顔を上げ、アヤを見据える。
「はい、キヨウ様……このアヤ、全力をもって、御子達をお守りします」
アヤは、覚悟を決めた顔で頷いた。
キヨウはリュウキを放すと、アヤに抱かれるオミサヤを見た。
今まで眠っていた筈のオミサヤが、目を覚ましていた。そして、何かを求めるように、キヨウに手を伸ばす。
キヨウは微笑みながら、オミサヤのその小さな手をとると、願いを込めて、額に口付けを落とした。
「どうか、あなたのその力が、あなたを守ってくれますように……」
それからキヨウは、呪符を取り出すと、四方の壁にそれを貼り付け、予め描いてあった、床の呪印に魔力を注ぎ込む。
送る場所は決めていた。かつて、あの人に教えてもらった世界。
そこの世界の人間は、見た目も此方の世界の人間とあまり変らないと聞いていた。
言葉の通じる術も施してある為、きっと馴染む事が出来るだろう。
できる事ならば、一緒に行きたい。我が子と離れたくなんかない。しかしあの男は、きっと、魔力を追って、世界も渡ってきてしまうだろう。
それをさせない為、自分は此方に残って術の痕跡を消さねばならない。それに、王ともう一人の我が子、ムエイを放っておく事も出来ない。
「リュウキ、アヤにしっかりと掴まっていなさい。術を発動させます!」
リュウキがアヤに掴まるのを確認し、キヨウは術を発動させる。
光の帯が、アヤとリュウキ、そしてオミサヤを包んだ。
もう大丈夫だと、キヨウが頷いたと時、部屋の外が急に騒がしくなった。
「王妃様、おやめ下さい。皇子と皇女をお放し下さい!」
兵士達がなだれ込む様に入ってきた。
そして、その後ろからは、オルハリウム・バーツ。
「ご乱心召されたか、王妃様。王も大変ご立腹ですよ。さぁ、術を解除し、オミサヤ様を此方にお渡しください」
その言葉を聞いて、キヨウはフッと笑う。
「オミサヤだけですか。リュウキの名は出さないのですね? はっきり言ったら如何です? 万物の力を此方に渡せと」
オルハリウムの瞳が、仮面の下で鋭くなった。
「残念でしたね、術はもう解除不能ですよ」
「母上!」
「キヨウ様!」
背後で、リュウキとアヤの声を聞いた。キヨウは顔だけを向け、微笑むと、
「アヤ、子供達を頼むわね」
そう言って頷いて見せた。
そして、光は更に強くなり、彼等は姿を消したのだった。
「母上!」
もう一度リュウキは叫んだが、もう既に目の前には、その姿は見えない。
最後に見た母の姿。
多くの兵士に囲まれ、そして母の前にはあの仮面の男。
リュウキは、いつか見た赤い記憶が蘇り、倒れふす人の姿を母と置き換えていた。
「嫌だ! 母上!」
「っ!! なりません、リュウキ様!!」
アヤの声が一瞬で遠くなる。そして、泣き出すオミサヤの声も。
振り返ったが、そこには真っ暗い闇があるだけ。
リュウキは、アヤから手を離してしまったのだ。
「アヤ! オミサヤ!」
そう叫んだ時、ほんの僅かだが、オミサヤの泣き声が聞こえた気がした。しかし、それっきり、リュウキは暗闇と静寂の中に、一人取り残されたのだった。
目の前には光が見えた。
リュウキは振り返る。
だが、そこには誰もいないし、何ものも存在しない。
どうやってここまで辿り着いたのだったか、リュウキは思い出せなかった。
ただ確かなのは、その光に向かえばよい事だけ。
其方に向かうと、光はだんだんと強くなり、そして――。
何とか携帯で、ちょろちょろと続きを執筆すると思います。
パソコンよりも時間がかかると思いますので、ご容赦を……。
今回第二部となり、過去の話となっておりますが、次回からはちゃんとクラジバールのお話に入ってゆきます。