2.晩餐会
今、早夜の目の前には、豪華な食事の数々が並んでいる。それらは、目にも鮮やかで味もきっと極上だろう。
五感全てで味わうのが本物の料理だとは何処で聞いたのだったか。目の前に並ぶこれらの料理は、正に本物の料理と呼ぶに相応しいだろう。
そんな料理の並ぶテーブルを挟んで、ミヒャエル達が座っていた。そして、早夜の隣にはシェルが座っている。
ミヒャエルに食事に誘われてから、漸くこうして夕食会を開く事が出来た。
早夜にとっては、初めて見るもの、初めて食べるものばかりである。
夢で見て知ってるのではないかと言われそうだが、大体は朝食か昼食の光景で、夕食の光景は見た事がなかったのだ。
そしてやはり、夕食のメニューは知らぬ物が多かった。
異世界という事もあり、素材自体も見た事がない物ばかり。このように、目の前に並ぶ物で疑問に思った物を時々隣のシェルに訊ねては、その味に舌鼓を打った。
その光景を微笑ましいものと思ったのか、ニコニコした顔でミヒャエルが眺めている。
ふと顔を上げてそんな彼の表情を見てしまった早夜は、シェルの言っていた事を思い出す。
(やっぱりシェルさんと私をくっつけたいって思ってるのかな?)
と、少し考え込んでしまったのが悪かったのだろうか。
ミヒャエルが、心配そうに訊ねてきたのだ。
「そういえばサヤ、身体の方は本当にもう大丈夫なのか?」
その視線は鋭く、少しでも異常を逃すまいと探っている。
早夜は少しばかりたじろきながら首を振った。
「えと、もう全然大丈夫です。皆さん心配し過ぎ、と言うか過保護過ぎだと思います。私こう見えても結構丈夫ですし、それに日本で風邪をひいた時はいつも自力で治してましたし……」
「自力で!?」
ミヒャエル達は目を見開く。
「はい、自分で氷嚢を作ったりお薬飲んだり……。なるべく母に気付かれないように、こっそりとやるのがミソです」
大体は一晩で治っていたし。と、何でも無い様に笑う早夜。
逆に聞いている方が辛そうな顔をしている。
「それは……大変だったな」
眉を顰めるミヒャエルに、早夜は首を振った。
「そんなに言うほど大変な事じゃないですよ。寧ろ大変なのは、母に気付かれてしまった時なんですから」
「え!? 何故だい?」
「まず、私の具合が悪いと知った途端パニックを起こすんです。そして救急車……えっと、病院に行く為の乗り物なんですが、それを呼ぼうとします。それを呼ぶって事は、近所でも知れ渡ってしまう位大事になってしまうので……それって人様にも迷惑ですし。
で、それを阻止して一先ず落ち着かせたとしても、今度はぴったりと張り付いて付きっ切りの看病が待っています」
「……? 看病の何処がいけないだ?」
隣のシェルが尋ねる。
それに早夜は軽く溜め息を付くと答えた。
「……看病自体は悪くないんです。ただ、仕事を無断で休んでしまうんです……。大事な取引先との約束も、重要な会議のある時でさえも……。
以前、母はそれで仕事をクビになった事があります……。あの時は危うく、路頭に迷う所でしたっけ……」
フフッと笑って遠い目をする早夜。
「でも、母にはいつも感謝しています。いつでも私を一番に考えてくれて、時々そそっかしい所もあるけど、私をここまで育ててくれましたから」
そう言って早夜は綺麗に微笑んだ。
しかし、その微笑み中に何処か憂いのようなものを見つけ、シェルは一人訝しむのだった。
早夜の心は今、春の訪れを喜ぶ小鳥のように舞い上がっている。
デザートが振舞われたのだ。
見た所、焼き菓子のようで、辺りに甘く香ばしい匂いが漂う。
早夜は頬を紅潮させ、フォークを差し込む。サクッと表面を割ると中はしっとりとしていた。きっと口に入れたら蕩ける事だろう。
この先来る至福の予感に目を期待で輝かせる。
まず一口と小さく切り分け口に運ぶと、口いっぱいに広がる香ばしい香りと蕩ける甘み。刻んだフルーツも練り込んであるのか、爽やかな果物の風味が残った。
「〜〜〜っ」
あまりの美味しさに言葉にならない。頬がキューッとなり、頬っぺたが落ちるとはこの事かと思った。
たっぷりとその甘さを堪能し、若干の寂しさを覚えつつそれを喉の奥に送ると、暫しホゥッと余韻に浸る。
そしてまた一口……。
(ん〜〜あま〜い! おいし〜!)
そうやって、一口、また一口と口に運ぶ度に、早夜はほぅと恍惚の溜息を吐くのだった。
とうとう最後の一口になった。
フォークに乗った最後の一欠片を名残惜しそうに眺めた後、ゆっくりと味わいそれを飲み込む。はー……と寂しげに長い溜息を付いた後、フォークを置いて手を合わせ「ご馳走様でした」と一言。
ティーカップに手を伸ばし、お茶をコクリと飲み込むとほっと一息つく。
そうして大好きな甘い物によって幸福感に包まれていた早夜だったが、ふと顔を上げると皆が此方に注目している事に気付いた。
思わずビクリと身体を震わせてしまう。見れば、給仕をしている男性も、早夜に見入っているではないか。
「な、何ですかっ!?」
何か粗相をしてしまったのではと不安になる。
しかし、皆ニコニコと笑っているので、どうやらそうでは無いらしい。
なら一体何故と思っている早夜の目の前に、ツツッと手付かずの菓子が差し出された。
「え?」と差し出された方見ると、シェルが微笑みながら此方を見ている。
「良ければ私のも食べてくれないか? 甘いものはどうも苦手なんだ……」
それを聞いた途端、早夜はパッと顔を輝かせたが、直ぐに我に返る。
「で、でも、人の物を食べるのは行儀が悪いんじゃ……」
テーブルマナーのことを考えると、これはマナー違反になるのではと考えた。
しかし、シェルは兄のミヒャエルの方を見て言ったのだ。
「何、この場は身内だけの席ですから、そんな事気にしませんよね? 兄上」
それを聞いたミヒャエルも、にっこりと笑うと頷いた。
「ああ、構わないさ。彼もきっと見ないフリをしてくれるさ、なぁ?」
壁際に控えている給仕の者に向かって投げかける。そんな給仕の彼は早夜の傍まで来ると、目の前に置かれている、空になった皿を下げながらこう言った。
「これをお下げするついでに、料理長にはサヤ様が大変美味そうに召し上がっていた事を伝えてまいりますね。なるべくゆっくりと事細かに……」
そうして彼はにっこりと笑うと、頭を下げ出て行ってしまった。
どうやら、その間にマナーの事なんか目を瞑るよ、ということらしい。
「だそうだ、サヤ。気にしないで食べるといい」
「ええ、そうですよサヤ様。わたくし、あんなに美味しそうに召し上がる方を初めて見ました。
なんだか、見ている此方まで幸せになってくる表情でしたわ」
「サヤはそのお菓子がお好きなの?」
ミシュアも可愛らしい声で、そう尋ねてくる。首を傾げる仕草は非常に可愛らしい。
「えっと……このお菓子は初めて食べた物だし……何と言うか甘い物は全般的に好きです……」
「まぁ、あれだけ美味そうに食べてもらえば料理長もさぞや作った甲斐があっただろうな……」
クスリと笑ってシェルが呟いた。
(えっと、私どんな顔して食べてたんだろう……?)
頬に手を置き首を傾げる。
いくら悩んだ所で自分の表情など窺い知る事など出来ないのだから、早々に諦める事にして、シェルが差し出してくれた菓子を口に運ぶ。
やはり美味しくて、また至福の表情を披露する事になったのだった。
「そういえばサヤ。君はリュウキと氏が違うが、どうしてだ?」
デザートも食べ終え、紅茶を飲み、一息ついていたミヒャエルが尋ねてきた。
「サヤはオウカで、リュウキはオルカか……まぁ、音は似ているな……」
シェルもそう呟いた。
早夜は考えるように黙り込むと、ハッと顔を上げ言った。
「それは多分、おじぃちゃん先生が付けたんだと思います。オルカと言う姓も私の本名だと言うオミサヤも、日本には無い名前ですから……恐らく、それらしいように、おじぃちゃん先生が名付けてくれたのだと思います」
「おじぃちゃん先生……?」
「あ! 私の子供の頃、母共々お世話になった人です。お寺のお坊さんでした」
「ほぉ……」
皆、興味深そうに聞いている。
「でもそうなると、おじぃちゃん先生は、私達が異世界から来た事を知っていたのでしょうか……?」
「……その人は今どうしているんだ?」
シェルの言葉に、早夜は少し淋しそうに笑う。
その笑顔に皆ハッとなった。その表情が意味する事を理解したからだ。
「もう亡くなっています。最期の最期まで私の幸せを願ってくれていました……」
「まぁ、そうでしたの……」
「辛いことを聞いたな。すまなかった……」
「いえ、もう大分前のことですし……。
あのっ! 因みに、私の名前の早夜は早い夜という意味で、苗字の桜花は桜の花という意味なんですよ」
しんみりした空気を切り替えるように、早夜が明るく自分の名前の意味を伝えた。
皆も彼女の意を汲み、その話に耳を傾ける。
そうして名の意味を知り、彼女の姿を改めてよく見てみれば、成る程、その漆黒の髪も瞳も夜がやって来た様だと誰もが思った。
この世界にも双黒の者が居ない訳ではない。リュウキもまたそうだが、男女の差なのか何なのか、彼女の黒は全然違うのである。
早夜の髪も瞳も、濡れたように艶やかで、深い闇の色を纏っていた。けれど決して冷たくはない。夜の帳のように、全てを包み込む温かさがある。
「サクラってなぁに?」
可愛い声でミシュアが問いかけてきた。
早夜はクスリと笑うと、桜について語り始める。
「私の住んでいる日本という国にある、淡いピンクの小さい花をつける樹木です。春になると一斉に咲き乱れて、それはもう夢のような景色になります」
「へー!」
頬を輝かせるミシュア。自分の知らない異界の話に、興奮しているようだった。
「特に一番美しいとされるのは花が散る時です。雪のように止め処無く舞い落ちて、風が吹けばそれは桜吹雪となります。その大地はまるで、ピンクの絨毯を敷き詰めたみたいに、一面が桜色で覆われるんです……」
その情景を思い浮かべながら語る早夜。
ミシュアだけでなく、大人達もその話に引き込まれていた。
「因みに、私がお世話になっていたお寺は桜の名所だったんです。春になると、よくおじぃちゃん先生と一緒に、お堂からその光景を眺めていたものでした」
「いーなー、ミシュアも見てみたいなー……」
心底、羨ましそうなミシュアの呟きに、早夜はうーんと考え込んだ。
この幼い少女に、あの桜の光景を見せてあげたい。きっと、頬を薔薇色に染め見入ることだろう。
もしかしたら魔法で見せられるかもしれないと、自分の内に意識を集中させ、万物の力の恩恵である知識を探ってみる。彼らに桜を見せる、そんな魔法はないだろうか。
すると、その知識の中に引っかかるものがあった。
「……何とか出来そうかな……。ミシュアちゃん、幻で良ければ見せて上げられるよ」
「本当!?」
思わぬ早夜の言葉に、願いの成就するかもしれないと、ミシュアは顔を上げ興奮したように聞き返す。
「うん。でも今は魔法は使えないからもうちょっと待ってね」
喜色満面だった薔薇色の少女は、願いが今すぐ叶わないと知ると途端に意気消沈し、不満たっぷりに口を尖らせた。
その子供らしい愛らしい仕草に、口元を綻ばせる早夜だったが、隣で話を聞いていたシェルが目をつり上げる。
「サヤ、安受け合いしすぎだ。お前は今、クラジバールだけでなく、他の国からも狙われている身だ。下手に魔法を使えば、見つかる危険があるんだぞ?」
その言葉にハッとする早夜。この穏やかな空気に、リジャイからも言われていた事をすっかり忘れていた。
「そう言えばそうでした……。
でも私、どうしてもあの光景を見てもらいたくて……」
でも我が儘は言えないと、ミシュアに向かい頭を下げる。
「ごめんね、ミシュアちゃん。期待させといてなんだけど、やっぱり無理みたい……」
なんだか、ミシュアよりも意気消沈の度合いが深そうな早夜に、ミシュアは健気にも首を振った。
幼いながらにも今の会話を聞き、雰囲気で事の深刻さを感じ取ったようである。
「ううん、大丈夫よ! ミシュアがまんする!」
「まぁ、なんて偉いのミシュア!」
「ああ、さすが私とアイーシャの子だ」
ミシュアは、母アイーシャと父ミヒャエルから、交互に頭を撫でられ、頬を染めて上機嫌になった。
早夜は微笑ましげにその光景を見ていたが、ハッとして隣のシェルに目をやった。
そういえば、彼はアイーシャ好きなのではなかったか。そう思って目を向けたのだが、捉えた表情は想像と違っていた。
シェルは微笑んでいたのだ。
早夜は僅かに目を見開いた。
それは偽りのない心からの微笑だった。その中に切なさも若干残していたが、それでも彼らを心より祝福しているのだと分かる。
シェルは此方の視線に気付いたのか、早夜を見ると苦笑し肩を竦めて見せた。何を考えているのか分かったのだろう。
早夜もまたそんな彼に微笑み返した。
どうして急に吹っ切れたのだろうか。何か切っ片があったのか。疑問は浮かぶけれど、取り敢えず良かったと早夜は胸を撫で下ろす。
それから彼女はミシュアの前にしゃがみ込むと、目線を合わせて言った。
「今は約束できないけど。いつか気兼ねなく魔法が使えるようになったら、真っ先にミシュアちゃんに桜を見せてあげるね」
「本当?」
「うん、本当!」
「約束ね!」
「うん、約束!」
早夜はミシュアに小指を差し出した。
差し出された方は、その小指の意図が読めず指と早夜とを交互に眺め、他の大人達にも目を向けるも彼らも分からぬようで首を傾げている。
日本独自の風習である。異世界の住人である彼らが分かる訳はない。
早夜もその事に気付き、ああと笑ってミシュアの小さい手を掴み、その更に小さな小指と自分の小指とを絡ませた。
「日本では約束する時、こうするんだよ」
そう言って早夜は独特の節で歌い出す。
「ゆーびきりげんまん、うーそついたらはーり千本のーます、ゆーび切った♪」
歌に合わせるように手を揺らし、最後にその手をパッと離した。
最初、突然の早夜の行動に、目を見開き驚いていたミシュアだったが、いきなり手を離された際、楽しそうに笑っていた。
「もう一回! ねぇ、もう一回やって!」
「えー、一回きりだよー」
そんなほのぼのとした光景の中、シェルが一度時間を気にするようにした後ミヒャエルに向かって言う。
「兄上、そろそろお開きにしてもよろしいでしょうか? 私も早夜もこれより行く所がありますので……」
すると、妻と共に娘達を暖かい眼差しで見ていたミヒャエルが、ああと言って頷いた。
「そういえば星見の塔へ行くんだったな」
それを聞いたミシュアがつまらなそうに眉を下げ、早夜の手を掴む。
「ミシュアもっとサヤとお話がしたい」
いじける様に頬を膨らませ顔を俯けるミシュア。
そんな時はやはり母の一声というものは大きい。
「2人の邪魔をしてはいけませんよ」
その注意の言葉に、素直に手を放すミシュア。
そしてハッと何かに気付き、キラキラした目で早夜とシェルを交互に見ると、キャッキャッとはしゃぎだす。
ミシュアのそのはしゃぎっぷりに早夜は首を傾げ、シェルは苦笑するのだった。
「では、行こうか? 」
「あ、はい! 行きましょう!」
シェルに促され、早夜は嬉しそうに彼に笑いかけると、ミヒャエル達に頭を下げる。
「今日はお誘いありがとうございました! とっても楽しかったです!」
「いや、此方も楽しかった」
「今度はお茶会にしましょう。お菓子もたくさん用意して」
「また、ミシュアとお話してね!」
ミヒャエル達に見送られながら、もう一度軽く頭を下げ、早夜はシェルと共にこの場を後にした。
「あー、ミシュアちゃん可愛かったなー……」
部屋を出た後早夜は呟く。
それをチラリと見遣って、シェルはクスリと笑った。
「そういうお前は、甘いものを前にして、中々面白いものを見せてくれたながな……」
「えっ!? どうゆう事ですか!? 私、そんなに変な顔してましたか!?」
するとシェルは、焦る早夜に流し目をおくりながら言った。
「いや、中々可愛かったぞ? それにあの、菓子を口に入れた時の恍惚とした表情は、色気さえ感じられた……是非今度は二人きりで見たいものだ」
「っっ!?」
彼の色香に声の出ぬまま、真っ赤になる早夜。
ククッとシェルが喉の奥で笑う。
からかわれたのだと一瞬頬を膨らませる早夜だったが、ふとシェルの顔をじっと見るとふわりと笑った。
てっきり突っかかってくるだろうと思っていたのが外れ、訝しげに眉を上げる。
「何だ?」
「いえ、良かったなと思って」
「……? 何がだ?」
「だって……シェルさん、アイーシャさんを見ても辛そうじゃありませんでした。何故かは分りませんけど、吹っ切れたみたいですね」
よかったと呟き嬉しそうにする早夜を見て、シェルは立ち止まる。
「……嬉しそうだな?」
「え? はい、嬉しいです……よ?」
早夜は何故か一歩後ろへ下がってしまう。
「何故だ? 何故嬉しいと感じる?」
その時何故下がってしまったのか分った。それは、シェルが一歩づつ近づいている為だ。
そして、続いてトンと背中に壁が付く。
「あ……れ?」
「教えてくれ、何故嬉しいと感じた?」
更にシェルは距離を縮め、早夜を閉じ込めるように壁に手を付くと顔を近づけた。至近距離で目を合わせられる。
「だ、だって、そうしたらもう、シェルさんは傷付かなくて済むじゃないですか」
「じゃあ何で俺が傷付ないと嬉しいんだ?」
横に動けば、彼から逃れられる。
だが、早夜は動けなかった。まるでシェルのその瞳に縫い止められた様だった。その熱を含んだその眼差しに……。
顔がカァッと熱くなるのが分かる。うるさい位に胸が早鐘を打つ。
からかっている素振り等一切見受けられない。が、それでも早夜は言わずにはいられなかった。それは防衛本能故か。
「ま、また、からかってるんですか……?」
「これが、からかってる様に見えると?」
そう言ったシェルは、早夜の手を取り自分の胸に導いた。
布越しに彼の固い胸板を感じ取った。
何だか生々しいほどに、シェルという男を意識させられ、恥ずかしくなってくる早夜。
「シェ、シェルさん!?」
慌てて手を引こうにも、その手はしっかりと捕まえられていてビクともしない。
その間も彼の視線は早夜から離れる事はなかった。
「俺の魂に触れてみろ。からかっているのか、そうでないのか分るだろ?」
「ふ、触れる事はできませんよぅ……」
何とも情けない声が出た。弱々しく震えた声。
彼の鼓動がその手に伝わってくる。早く感じるのは自分の心臓の音のせいだろうか……。
「触れる事が出来ないのに、俺の胸に触ったのか……?」
シェルの顔が更に近づく。吐息が唇を掠り、ある事を連想させて顔を背けたくなった。
その時、彼の瞳に映る自分の顔は、真っ赤で今にも泣きそうで酷く情けなく映る。
そんな早夜の心情など手に取るように分かるのか、シェルは余裕そうにフッと笑って言った。
「……やっぱり大胆なんだな……」
「ち、違います! あれは、少しでも傷付いた魂を――」
「分っているさ」
シェルは早夜の言葉を遮ると、その耳元で囁く。
「では、俺の魂を見てくれ。そして教えてくれないか? 今、俺の魂は傷付いているのか……」
耳を掠る感触に顔を赤らめながらも、早夜は彼の魂を見ようと気持ちを切り替え意識を集中させた。
やがてぽつりと告げる。
「……傷付いてはいます……でも」
いったん言葉を区切り、シェルの顔を真っ直ぐに見つめるとにっこりと微笑んだ。
早夜の手を握る手に、僅かに力がこもる。
「でも、その傷に覆い被さるようにして、何かでそれを塞ごうと癒そうとしているみたいです……」
早夜は無意識にその胸に置かれた手を動かしていた。まるで、幼子を褒めるように動かしたつもりであったのだが……。
その動きはどう捉えられたのか、シェルが溜息を吐き、掠れた声でその耳元に囁いてきた。
「やっぱり大胆だ……」
途端に我に返った早夜は、背筋がゾワゾワと粟立つのを感じた。
実際、男性の胸板を撫でるのは思春期の少女にとってははしたない事だと理解すると、次の瞬間にはさっき以上に真っ赤になってしまう。
「きゃあっ!! ご、ごめんなさいぃっ!」
殆ど悲鳴に近い叫びて飛び退くようにその手を離す。
意外なほどあっさりとその手を開放された。
「………?」
そのあっさり感に、てっきりまたからかわれると思っていた早夜は、恐る恐るシェルを見上げる。
すると、彼は何処か嬉しそうに此方を見ていた。
「謝るな。寧ろ思い通りの行動で嬉しいんだが……」
そして近かった距離を離すと、行こうかと促してくる。
まだ騒がしく鳴る心臓を静ようと、早夜は胸を押さえながらシェルの後ろに並んで歩く。
何だか、隣で歩くのかや恥ずかしく感じる。
「俺が癒されているとすれば、それはお前のお陰だな、サヤ……」
前を歩くシェルが、ポツリと言った。
「え? 私がですか?」
「ああ、お前が癒してくれた……」
シェルは顔だけを振り向かせる。その眼差しは何処までも優しげであった。
なんだかまともに直視できずに早夜は顔を俯ける。
「そ、そうなんですか? それは、少しでもシェルさんの魂を癒すお手伝いが出来て、良かったです……」
恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに笑う早夜を見て、シェルは苦笑いする。
「……それが一体何を意味してるのか、お前は理解しているのか……?」
聞こえぬように口の中で呟くと、早夜が首を傾げてシェルを見る。
「ん? 何か言いました?」
「……いや、ただの独り言だ」
そう、自分は早夜の存在によって癒されている。
その意味する所。
それは、自分が早夜に惹かれている事。
さて、どうやって振り向かせてやろう。この熱くたぎる情熱を、どう伝えていこうか。
今、アイーシャの時以上の熱をシェルは自分の中に感じていた。
彼は自分の胸に手を置く。
先程早夜に触れられた場所が、以前触れられた時よりも熱く疼いていた。
おお、シェル始動っすか!?
お気づきでしょうが、彼が本気になると「俺」と変ります。
実は、四章と五章は、一つの章でありました。しかし、長くなると思い、二つの分けたんです。
まぁ、今では良かったかな、と思っておりますが。