おまけ(おじぃちゃん先生の言葉)
「幸せになりなさい……」
早夜にそう言った、おじぃちゃん先生の話です。
早夜は学校から帰ると、真っ直ぐにお堂に向かう。
「ただいまー、おじぃちゃん先生ー!」
「ああ、おかえり早夜」
そう言って早夜を迎える。
「今日は、学校でどんな事がありましたか?」
おじぃちゃん先生がそう訊ねると、早夜は落ち込むように俯いた。
彼は、そんな早夜を膝の上に座らせる。
「どうしました?」
「あのね、今日、学校で飼ってるウサギがね、死んじゃったの……」
「……そうですか……」
彼の声は、優しく早夜の耳に響く。
「ねぇ、おじぃちゃん先生。どうしてウサギは死んじゃったの? もう生き返らないの?」
早夜がそう訊くと、彼は早夜の頭に手を置いた。
「早夜、この世に生きるものは、皆いずれは死んでゆくのが運命なんですよ。そして、死んでしまえばその身体は、生き返る事は無いんです……」
それを聞いて、早夜は悲しくなった。
「でもね、早夜。死ねばその魂は、魂の故郷へと還って行きます。そこは、魂のあるべき場所。この世の全ての生命の故郷なんです。
だから、そのウサギはきっと、寂しくない筈ですよ。何故なら、そこには全てがあるのだから……」
「でも、死ぬのは怖いよ?」
ポツリと呟く早夜に、彼はふっと笑うと、まるで独り言のように囁いた。
「そうですね、死ぬのは怖い……。でも、そう思う事は、もしかしたら幸せな事なのかもしれませんね……」
「どうして?」
早夜はおじぃちゃん先生を振り返り聞いた。
彼はそんな早夜を、慈しみを持って眺める。
「早夜、死というものは本質的には、怖い事ではありません。今言ったように、故郷へ帰る事ですから……。
でも、死ぬのが怖いと言う事は、それだけこの世に未練があるからです。この世に生きる事が幸せだから……そして、愛する者がいるからです。だから、その人を残してしまうのが怖いんです」
「おじーちゃん先生も怖い?」
「はい、怖いですね……以前は、死ぬのがあまり、怖くはなかったんですけれど……。今は、死ぬのが怖くて堪りません……」
すると、パッと顔を輝かせて、早夜が彼に言う。まるでいい事を思いついたと言うように。
「じゃあ、死なないようにすればいいんだ!」
それを聞いたおじぃちゃん先生は笑い出す。
「はははっ、無邪気ですね早夜は……でもね、早夜。この世に死なない者などいやしないんですよ……。でも、もしそんな人が居たのだとしたら、それはとても可哀想な事なのかもしれませんね」
「どうして? 死なない事は良い事じゃないの?」
「ふふっ、何故ならそんな人は、帰るべき場所に帰れない、魂の迷子と呼べるでしょうから。早夜は迷子は嫌でしょう?」
「嫌だよ! だって、すっごく心細くて怖いもの」
「ほらね、死なない事は怖い事でしょう?」
こくりと早夜は頷いた。
ザァッと音がして、風が吹く。
桜の花びらが、お堂の中にも入ってきて、老人と少女に降り注ぐ。
「……幸せになりなさい、早夜」
「おじーちゃん先生……?」
彼は静かに外を眺めている。
「……でも、幸せってどうすればいいの?」
「ふふっ、幸せになる為にはまず、他人を幸せにしなさい。そして、日々の中にも小さな幸せを見つけて、その日々を、一時一時を慈しみなさい……。そうすれば、何て事の無い、そこらに落ちている石や、そこにある花びらにも命が宿ります……」
そう言って、舞い降りてきた桜の花びらを、一枚摘み上げると、早夜に手渡した。
早夜は手のひらに置かれた花びらを、指でそっと撫でてみる。
「どんなに気に入らない、自分に合わない人間に会っても、その人の良い所を見つけてあげなさい。そうすれば、その人は早夜にとって、かけがえのない友となってくれます。
辛い事があっても、決して自分を悲観したりしてはいけませんよ。それは早夜を不幸にしてしまう事……。いつでも前を見ていてください。そうすれば、道は早夜の前に必ず現れます。
そんな事の積み重ねが、きっとあなたを幸せにしてくれますよ……」
早夜は、彼の低く穏やかな声を聞いて、ウトウトとし始める。
春の陽気がぽかぽかと暖かく、早夜をそのまま眠りへと誘っていった。
そんな早夜を、老人は愛しげに撫でていると、アヤがやってきた。
「あら、早夜ったら、眠ってしまったんですか?」
アヤがそう言うと、彼は人差し指を口に当てる。
アヤはその隣に座り、早夜の寝顔を眺めた。その幸せそうな寝顔に、自然と笑みがこぼれた。
また、ザァッと音がして、お堂の中に入り込んだ花びらを巻き上げる。
外にはまるで、雪のように桜の花びらが降り注いでいた。
暫く、その夢のような光景を眺めていたアヤだったが、隣に座り、早夜を抱いている彼が、ぽつりと言った。
「……アヤさん方が此処に来て、大分時間が経ちましたね……」
「はい……」
アヤは彼の横顔を見て頷いた。
「突然、光を纏ったあなた方が、庭に現れた時は驚きました……」
「それでも、あなたは何も聞かず、こうして私たちを迎えて下さいました」
「あの時の貴女は、必死でこの子を何かから護ろうとしているみたいでした。……その必死さに心打たれたのですよ……」
早夜を見下ろし、髪を梳くように頭を撫でる。
その時、桜の花びらが一枚、早夜の頬に落ちる。それを、クスリと笑ってそっと取ってやると、その花びらを、大事に手に握る。
まるでそれに、たった今、命が宿ったのだというように。
「実を言うと、私はあなた方を恨んでいます……」
アヤはハッとして、彼を見つめ、謝罪の意を込め、頭を下げた。
「住まいを提供して下さるだけでなく、私の働き口も、早夜を学校にも入れて下さった事、本当に感謝しています。出て行けと言われれば、何時でも出て行く準備は――」
「出て行かないで下さい」
アヤは顔を上げ、彼を見る。彼はアヤを見て、微笑んでいた。
「私は妻に先立たれ、老い先短い命です……。私は、死ぬ事が待ち遠しくて仕方がありませんでした。でも、今はどうでしょう……。
死ぬのが怖くて怖くてたまりません……。あなた方を見守っていきたいと、心から思っています。早夜が学校を卒業して、成人を迎えるのが見たいと思っているのです……だから出て行かないで下さい……」
アヤは、今度は感謝を込めて深くお辞儀をした。彼は、そんなアヤを見つめ、静かに言う。
「恨んでいると言ったのは、死ぬのが怖くなってしまった事……。だからどうかアヤさん……幸せになって下さい。誰よりも何よりも……。
貴女と早夜の幸せが、私の最後の願いであり、幸せなのです。
どうか私を、幸せに逝かせて下さい……」
「そんなっ! 逝く等と――」
顔を上げたアヤはハッとした。
彼の顔は、全てを悟ったような、そんな顔だった。
「私が死んだら、私の部屋の箪笥の上から二番目の引き出しを開けて下さい。そこに全てが入っていますから……」
アヤは顔を下げる。その目からは涙が溢れ出していた。
「どうかそれまでは、出て行かないで下さい……。私の傍に居て下さい。早夜に教えたい事が沢山あります。伝えたい事が山のようにあります。最期まで、この子の笑顔を見ていたい……」
それから数ヵ月後、彼は早夜とアヤが見守る中、息を引き取った。
彼のその顔は、幸せそうに微笑んでいた。
その後、アヤが彼の言っていた引き出しを開けてみると、そこには新しい住まいと、学校などの書類があった。全て手続きが済まされており、アヤは感謝しながら、その場に泣き崩れるのだった。
―――幸せになりなさい、何時でも笑顔でありなさい。それは早夜、人を幸せにする事。私はあなたに出会えた事を、この運命を、心から感謝しています―――
どうも、今回のお話は如何でしたでしょうか?
自分が考えたとは思えないセリフ……。
桜の景色と、おじぃちゃん先生に抱かれる早夜の光景を思い浮かべていたら、自然と出て来たセリフではあります。