6.会いたい衝動
「あ、そうだリカルド。例のあれ、手に入ったんだった」
「本当か!?」
ふとデュマが思い出したように告げてきた言葉に、リカルドが顔を輝かせた。
デュマは「ああ」と頷くと、奥にあった棚から何かを取り出した。そして、中央にあるテーブルの上にそれを広げる。
(……? 地図?)
皆がそれを覗き込むのに習い早夜もそれを見た。それは地図だった。
キースが感心して言った。
「以外に早く手に入ったよな」
「ああ、オレのじーさんが旅してた時に手に入れたって話。昔はそんなに、国の出入りは厳しく無かったってさ」
「……一体何処の地図なんですか?」
早夜が尋ねるとデュマは答えた。
「クラジバールの地図だよ」
「え!?」
思わぬ答えに驚きの声を上げる。そして、テーブルの上の地図に見入る。
(クラジバール……リュウキさんがいる国……)
ハッと顔を上げ、リカルドを見る。彼は真剣な顔をして、地図を見つめていた。
「このバカ王子はな、リュウキ様を助ける為に、クラジバールに潜入しようとしてるんだ」
いつの間にか隣にやってきたマシューが、早夜にボソッと言った。
「な? スゲー事考えてんだろ?」
早夜はここに来る前にマシューの言っていた言葉を思い出した。
(……これがケジメ?)
もう一度リカルドを見る。その顔はやはり真剣で、少し怖いくらいだ。
(一体何を思ってこれを見てるんだろう……)
途端に、彼に対して意地を張ってしまった自分が恥ずかしく、そして罪悪感も湧いてくる。
キュウッ……と胸が痛くなり、胸を押さえる早夜。今すぐリカルドに謝りたくなった。
「あの、リカル――」
「あー、ここ間違ってるよー。ここは今、通れなくなってる。行き止まりだよ」
意を決してリカルドに声を掛けようとした時、突然後ろから出てきた手と声に、それはかき消されてしまう。
「っ!! おまっ、何でここにっ!?」
一体誰だと言う前にリカルドが後ろにいる人物に怒鳴りつける。
そうして振り返ってみると、直ぐ目の前にその人物の顔があって目を見開く事になった。
「リ、リジャイさんっ!?」
息がかかる位の近さに、思わずあの時の事を思い出し、早夜は顔を赤くしてしまう。
そんな早夜にリジャイはニッコリと笑い掛けると、上から下までジックリと眺め言った。
「アハハ、カンナが言ってたのはこういう事か。うん、なかなか似合ってるよ、早夜」
「はなれろっ、何でお前が此処にいんだよ!」
リカルドはリジャイの肩を掴み、早夜から引き離す。
するとリジャイは、彼の前に左手を出し小指をクイクイと動かして見せた。
そこには、早夜の髪が巻きつけられている。
「これを使って早夜を探してたら、此処に辿り着いちゃったんだよー。ねぇ早夜、君さっきカンナに会ったでしょ?」
「はいっ!?」
何の事やら分らない早夜は、首を傾げる。
「えーとねぇ……紫の長い髪の女性で、屋根の上に居なかった?」
『ああー!』
早夜だけでなく、リカルドとマシューも声を上げた。
それは先程、早夜が屋根の上で言っていた事ではなかったか……。
「あの人がカンナって人なんですか? 私を狙っていると言う……」
「ちょっと待てって、それってヤバクないか?」
リカルドが焦った様に言う。
「んー、大丈夫だと思うよ。実際、判ってなかったみたいだし、僕の掛けた呪印が効いてるみたい。でも早夜がカンナを見たお蔭で、彼女が動揺して、僕でも見つける事が出来ちゃったんだよねー」
感謝感謝、と軽い調子で笑うリジャイ。
彼が現れた事で一同が呆気に取られる中、マシューが我に返り尋ねた。
「あー……ってゆーか、話がまったく見えてこねーんだけど……説明してくんねーかな? 誰なんだ、ソイツ……目茶苦茶あやしーんだけど……」
不信感を露わに目を眇める。すると、リジャイはパッと彼らの方を向いて陽気に挨拶を始めた。
「どーも、はじめましてー! 僕、リジャイ・クーでーす。呼ぶ時は、ジャイジャイ、それかクーちゃんでいいよー♪
それに僕、クラジバールから来たから、何かとお役に立てるかもよ?」
「なっ! クラジバールだって!?」
「そーそー、まさかこんな所でリュウキ救出作戦が計画されているなんて、以外や以外! なかなかやるねー、リカルド王子様?」
ニィーと爬虫類を思わせる彼特有の笑顔を見せる。
しかしリカルドは、リジャイに詰め寄り彼を睨み付けた。
「ぜってー、城の奴らには言うなよ!」
「えー? どーしよっかなー?」
釘を刺され首を傾げて見せたリジャイ。リカルドは「てめっ!!」と、今にも掴み掛からんばかりに怒りを露わにする。しかしそんなのは物ともせずに、リジャイはクスリと笑って見せた。
「ジョーダン、ジョーダン。確かに言わない方がいいかもねー。下手したら全面戦争にもなりかねないもんねー。
よしっ、決めた! 僕、全面的に協力しちゃう!」
「てめーの協力なんかいらねーよ!」
リカルドは即座に断るも、リジャイはフフンと余裕の笑みでもって、テーブルの上に腰掛けた。
「あれあれー? そんな事言っていーのかなぁ……僕だけだよ? あの国の中の事詳しく知ってるの。リュウキとも連絡取れるし、この地図大分古いでしょ? 直してあげられるよ」
地図に手を置くと、それを撫でる。
「確かにそーしてくれると助かるけど……。なー、リカルド、こいつは確かに怪しいけどさぁ、ここは一つ、協力してもらおーぜ」
「そうだな、何よりリュウキ様と連絡が取れるのは、いい事だと思うぞ?」
デュマとキースが、リジャイの協力を仰ごうとするが、頑固にもリカルドが嫌だと突っぱねる。
「おいおい、何でそこまで……」
キースのとがめる様な口調を受け、リカルドはチラッと早夜を見る。
今は少年の姿をしている彼女は、心配そうにリジャイとリカルドを交互に見ていた。
そして、リカルドの脳裏に浮かぶ、あの光景とリジャイのあの言葉。
――君に早夜は渡さないよ――
カァッと頭に血が上るのを感じる。感情のままにリジャイを睨んで指を突きつけた。
「それは、俺がっ、こいつが、大っ嫌い、だからだっ!!」
一語一語区切って言ったのが余計に彼の怒りを表すようだった。
『そんな、身も蓋もない……』
呆れたように呟く一同。
「お前がそこまで人を嫌うなんて……一体何したんだ? こいつ……」
マシューが眉を顰めて尋ねるが、リカルドは無言のままだった。
リジャイはそんな彼を見て肩を竦めると、早夜を手招きする。
「早夜ー、ちょっとこっちにおいでー」
「何ですか? リジャイさん」
呼ばれた早夜は、ハッとして彼のもとに駆け寄ろうとする。しかし、それをリカルドは止めた。
早夜は驚いてリカルドを見る。彼はとても怖い顔をしていた。
何故そんなにも怒っているのか。
「あんな奴のとこなんか行かなくていい!」
「でも、リジャイさんは私の恩人で――」
「あんな事されたのに、まだんな事言ってんのかよっ!」
あんな事と言われ、一瞬何の事だろうと思ったが、すぐに思い出して顔を真っ赤にする。
「な、何でリカルドさんが、そんな事言うんですか!? リカルドさんには関係ありませんっ!」
「っっ!!」
これは自分の問題で彼が憤る意味などないのに、と。
しかしリカルドが一瞬、傷付いた顔をしてハッとした。
何か言おうとして手を伸ばし掛けたが、ギリッと歯を食い縛ると止めるのに掴んでいた手を乱暴に離した。
「ああ、分った! もー知らねー!!」
突き放す言葉に、ズキンと胸が痛んだ。
(完璧に怒らせちゃったな……。リカルドさんはただ、私の事を心配してくれただけなのに……)
早夜は俯くと、落ち込んだ様子でトボトボと歩き出す。
それをリジャイが苦笑して向かい入れた。
「あららー、ごめんねー? 僕のせいで喧嘩しちゃったね」
「いえ、全部私が悪いんです……」
「イヤイヤ、心の狭いあの王子様も悪いかな。青いというか、てんで子供だねぇ……いやー若い若い」
不貞腐れているリカルドを見て、肩を竦めながらクスリと笑った。
「さて、と……早夜、これを君にあげる」
早夜が顔を上げると、目の前には青白く光る珠があった。
「これは……?」
「これはねー、呪印を解く鍵だよ」
早夜は目を見開く。
改めて見てみれば、自分の中の知識がそうだと教えてくれる。
「……これを割るんですね? でも、呪印は自然と消えるんじゃ……」
「まあ、一応保険にね。
どうしようもない事態とか、君一人で対処しなくちゃならない時とか、万が一カンナが君の存在に気付いて、君の前に現れた時とか。
その珠は僕と繋がってるから、割ればすぐに分かるんだ。必ず君の元へゆくから、それまでの時間を稼ぐ意味あいでね」
例え力を使って気を失ってしまっても、一時的に相手や物事を止められればいいという事かと、早夜は頷きながらそれを受け取った。
「それともう一つ。カンナは、ナイール王子の命令で動いてるって言ったでしょ?」
「はい」
「そして、その命令を取り消すのには、彼以上の存在が必要だって言ったよね?」
「はい、それで王様に頼んだんですよね?」
アルファード王に、「命は賭けられるか?」と言ったリジャイの言葉を思い出す。
その時の事を思うと、今でもやっぱり心苦しい。
「今日、カンナに会って分ったんだけど、どうやら王様の命令では駄目みたい」
「何だとっ!?」
不貞腐れながらも、話は聞いていたリカルドがリジャイを見る。
リジャイは険しい顔の彼を見据えながら、静かに告げた。
「カンナは、王様以上の存在を見出してる」
そして、そのまま早夜に向き直ると、こうも告げてきた。
「カンナは、君が自分を支配する者かもしれないと言ってる」
「えぇ!? そんなっ! 私がですか?」
「それだけ、早夜の力が強大って事だよ。さすが、万物の力だね……君はカンナの前で、その力を見せ付ければいい。後は命令なり何なりすればいいと思うよ」
茫然となる早夜だったが、その時、場違いな位明るい声でハルが尋ねた。
「ハイハイ、質問! その万物の力って何スか?」
突然声を掛けられたのにも拘らず、リジャイは平然とその質問に答えた。
「万物の力って言うのは、この世の全ての魔法や、超常的な知識を司り、それを具現できる力の事。
如何してそんな力の者が生まれてくるのかとか、どういう者がその力を授かるのかとかは分らないけれど、早夜はその力を持って生まれてきてしまったんだね」
「へー、サヤはすごいッスねー」
ハルが仕切りに感心していたが、早夜は首を振った。
「でも私、今までそんな力があったなんて知りませんでした。夢の中でリュウキさんを助けた時、初めて魔法を使ったんです」
リュウキを助けた時、そしてあの暴走の時に感じた、あの底が無いのではと思う位の凄まじい力と知識。
あの時、リジャイが助けてくれなかったら――。
そう考えると、恐ろしくて堪らない。
そして思うのだ。このような力、人が持って良いものなのだろうか、と……。
深く考えていた早夜は、リジャイの声に現実に戻される。
「それは多分、君が魔法とは無縁の世界にいたからだよ。君のお友達はまったく魔力が感じられなかった。必要とされなかった力は、今まで目覚める事無く君の中で眠り続けていたという訳」
「でもそれじゃあ、私がリュウキさんの夢を見続けていたのは……」
「それは多分、早夜が幼い頃、無意識に使った魔法かもしれないね。リュウキと離れたくないって気持ちがそうさせたのかも……」
しんと静まり返る室内。
いきなりやってきた男と、早夜の力の話。
この街の住人であるマシュー達は、話についてゆけず、呆気にとられるばかり。
ハル一人だけが、興味津々と言った風に耳を傾けるのだった。
リジャイの言葉を聞いた早夜は、無言で俯く。
離れたくないと言う気持ちがあの夢を見せた。一体何故離れ離れになってしまったのだろう。物心ついた時から当たり前のように見ていた夢。そして、夢を見なくなってしまった時の喪失感……。
確かにそこに絆はあったのだ。
思考はぐるぐると巡る。
リジャイは黙ったままの早夜の頭に手を置いた。
ハッとして早夜が顔を上げれば、彼は紫色の瞳で早夜を優しく見つめている。
「リュウキに会いたい……?」
リジャイの言葉に早夜の瞳は揺れた。
「……会いたいです……」
言葉は自然と口からこぼれ落ちた。
「リュウキも君に会いたがっていると思うよ。だって、いつも君の心配ばかりしてるから……」
リジャイの言葉を聞いて、ますます会いたいという衝動が強くなる。
「会いたいです。凄く会いたい……。どうして離れ離れになっちゃたんですか?」
早夜はリジャイに縋り付く様に言った。
「お母さんは仕事で遅くて、家に帰るといつも一人で……寂しくて……夢を見ると寂しくなくなりました。
……虐められてる時も、夢だけが私を癒してくれました……。でも、起きるとまた一人で……ずっと、ずっと会いたいと思っていました……」
いつの間にか早夜は、リジャイの膝に取り縋って泣いていた。
今まで、胸にしまっていた感情が溢れ出す。
「何で? 何があったんですか!? 私にお父さんは居るんですか? もう一人のお兄さんって、どんな人なんですかっ!?」
そんな悲痛な叫びを受け止め、リジャイは優しく早夜の背を撫でる。
リジャイの瞳もまた、悲しげに揺れている。そして、天井を見上げると呟いた。
「そうだね、会いたいね。……本当に、何があったんだろうね……僕も知りたいな」
その呟きに何処か違和感を覚え、泣き顔のまま彼を見上げる早夜。
視線に気づいたのか彼は顔を戻すと、顔を見て苦笑する。
「……はなみず……」
「えぇ!?」
慌てて拭おうとするが、拭くものが無い。
あたふたとする早夜を見て、リジャイはぷっと噴出すと、ウソウソと言って、掌で涙を拭いてやる。
途端に恥ずかしくなる早夜。
ハッとして、周りを見ると、皆が此方を見ている。
完璧に彼らの存在を忘れていた。というか、リジャイと二人だけの世界になっていた。
リカルドなどは、早夜と目が合うと気まずそうに目を逸らす。
「さて、と……」
リジャイはそう言って、テーブルから降りると、リカルドに言った。
「王子様? 君は嫌だと言ったけど、僕は無理矢理にでも協力させてもらうよ。早夜とリュウキの為に……」
リカルドは暫く無言でリジャイを睨んでいたが、ふいっと顔を逸らせる。
「分った……」
リカルドも早夜の涙を見て思ったのだ。会わせてやりたいと……。
(その為だったら何でもやってやる。例えこの男の手を借りる事になったとしても……)
「じゃあ僕、そろそろ行くね。王様に報告したい事があるし、カンナの事とか、いろいろとね」
「っ! お前いま、協力するって言ったばっかで行くって……」
「うーん、実は他にも厄介事が出来ちゃってねー……」
「厄介事だと?」
「まぁ、早夜を狙っているのは、何もクラジバールだけじゃないって話」
「何っ!?」
リカルドが声を上げる中、早夜も吃驚してリジャイを見た。
「当然でしょ? あれ程の力、他の国にも届いちゃってるし、探りを入れてくるに決まってるでしょ。まぁ、そう言う僕もカンナに言われるまで気付かなかった訳だけど……」
リジャイはテーブルの上に何やら置いた。
それは、よくホテルなどで見かける、呼び出しベルの様であった。
「で、僕に用があったら、これ鳴らしてよ。鳴らしたら僕に伝わるようになってるから。あ、でも、僕が来れない時なんかは鳴らないからね」
そう言って、ベルをチーーンと鳴らすのだった。
それから彼は、デュマに地図の改良点を幾つか述べて、去っていった。
それから、リカルド達が作戦の話し合いをする中、マシューは早夜を呼び出す。そして、そのまま外へ連れ出すと、集会所からそんなに離れていないサニアの家へと連れて行った。
そこで告げられた事。
「えぇ!? じゃあ、マシューさん、気付いてたんですかぁ!?」
マシューはこう告げた。実はお前女の子だろう、と。
早夜はそれに驚くばかり。
「判るって、そんなに肩の細い男なんて居ないだろ?」
その言葉に、早夜は肩に手を置かれた時の事を思い出した。
そんなに前から気付いていたのかと驚く中、彼はサニアに視線を移す。
「サニア、後頼むな?」
「ええ、任せて頂戴」
彼女は微笑み頷くと、早夜を連れて二階へと上がった。
「めいっぱい可愛くしてもらえよー!」
そんなマシューの言葉を背に受けながら、早夜は奥の部屋へと入る。
「か、可愛くって……?」
「フフッ、女の子に戻りましょう?」
サニアは嬉しそうに笑うと、すでに用意されていた服を差し出す。
「この服は私の死んだ妹が着ていた物だったの……このまま、箪笥の肥やしにする訳にもいかないから、着てあげて頂戴?」
早夜は躊躇う。
彼女はそう言うが、欠かさず洗濯をしているのだろう。渡された服からは石鹸とお日様の匂いがした。
「まぁサヤ、とっても可愛いわ! よかった、サイズはぴったりね」
最初は躊躇ったものの、サニアの有無を言わせぬ微笑みに結局負けた早夜。
恐らく自分より年下の子のなんだろうな、と何と無しに思いながら着替え終わった姿をサニアに披露した際の言葉だった。
「ううー、でもなんかスカートが短くて、あと背中がスースーします……」
恥ずかし気に膝を摺り寄せると、居心地悪そうにそわそわとし始める。
スカートは膝が見えるくらい短く、ボリュームもあり、ふんわりとした作りをしていた。そして上半身はと言うと、背中の方が大きく開いた造りになっている。そこに長めのリボンを首に巻いて後ろで縛り垂らすのだ。
「あら、今街中ではこれ位の服が女の子の中で流行ってるのよ」
その後、サニアは早夜の髪を結いながら妹の話をした。
住んでいた村がバスターシュに襲われた事。そして、その時に妹を殺されてしまった事。サニアの目の傷もその時に受けたものらしかった。
「その後、暫くは絶望してたけど、ガマじぃさんに拾われて、この街で暮らしている内に妹の分までしっかり生きなくちゃって思うようになったわ。
今でもまだその時の夢を見る事があるけど、そんな時はマシューが抱きしめてくれる。
マシューに会えて良かったって、今ここに……生きている事に心から、感謝しているわ……毎日毎日が、本当に愛しいの……」
「あ……」
サニアの幸せそうな顔を見た時、早夜の頭の中に懐かしい声が響いた。
どうして忘れていたんだろう……。
早夜の脳裏には、あの静かなお堂と桜の花びら。そして、早夜を優しく撫でてくれたあの人の言葉が蘇っていた。
「サ二アさんは今、幸せなんですね……」
早夜がぽつりと呟くと、サニアは満面の笑みで答える。
「もちろんよ」
――幸せになりなさい――
それが、おじぃちゃん先生……早夜のお世話になった、お寺の住職の言葉だった。
「サヤは幸せじゃないの?」
サニアの言葉に早夜は俯く。
「私が幸せになるのには、まだ時間がかかりそうです……」
(――私にはまだ、その資格はないから……)
早夜はそう、心の中で呟くのだった。
「あの、マシューさん……」
髪を二つに縛って貰い、おまけに薄っすらと化粧までして貰って全てが終わった。
一階に降り、そして椅子に座ったマシューを見つけ声を掛けたのだが、早夜はそのまま固まってしまう。
彼が帽子を脱いでいた為である。
大きく広がる傷の痕、彼の左耳は、ケロイド状のもので覆われていた。
その時そっと肩に触れられ、ハッとして顔を上げる。
サニアだ。
彼女はマシューに近づくとそっと声を掛ける。
彼はサニアを見ると早夜を振り返り、困ったように笑った。
手で弄んでいたニット帽をかぶり直し、早夜に近づく。
「ごめんなサヤ、気付かなくて。こっちの耳、聞こえ辛いんだわ」
それから早夜の姿を上から下まで見ると、にっこりと笑った。
「おー、カワイーカワイー、よく似合ってるじゃん!」
そして、悲しそうに俯く早夜を見て、寂しげに笑った。
「……怖いと思ったか?」
早夜はハッとして顔を上げると、ぶんぶんと首を振る。
「っそんな! 怖くなんかないです! ……ただ、何だか凄く、悲しかったんです……」
今日会ったばかりだが、マシューの優しさと、人柄の良さに、親しみを感じている。
そんな彼が、この傷のせいで、どんなに辛い目に会って来たのだろうと思うと、悲しくて、そして悔しくて仕方がなかった。
「でもな、サヤ。俺はこの傷がなければ、サニアに出会えなかったよ。この傷があってこその俺だ」
泣きそうになる早夜の頭を、少し躊躇いがちに撫でると、優しい眼差しで言った。
「本当に良い子だよなー、サヤは……。ありがとな、それから……会えるといいな、リュウキ様に」
早夜はマシューを見上げると、クシャリと顔を歪めた。
(……違うんです……私は良い子じゃない……)
だが、その言葉は胸にしまい、早夜は無理やり笑った。
「はい……ありがとうございます……。何だか、マシューさんはお兄さんみたいです……」
「ははっ、それは光栄だなー」
「そして、サニアさんはお姉さんみたいです」
早夜がサニアを見上げてそう言うと、サニアは右目を見開き、瞳を揺らめかせ、言葉もなく早夜をギュッと抱きしめるのだった。
△▼△▼△▼
〜日本・一時帰宅その後 其の六〜
学校から帰って来た蒼と亮太は、蓮実から早夜の母アヤに連絡が取れなかった事を聞くと、そのまま早夜のアパートへと直行した。
そして部屋の前まで来ると、そのドアの所には何日分かの新聞があり、帰った様子がない事が窺えた。ドアに触れると、スッと開く。
「あの、お邪魔します……」
声を掛けてみるが、やはり返事はない。
「開けっ放し? すっごい物騒なんだけど……」
「とにかく、中に入ってみよう」
中に入ると、部屋の中が綺麗に整頓されている中で、テーブルの上だけが散らかっている。乱雑に置かれた化粧道具。
それはあの日、アヤが出て行った時のままなのだが、蒼たちがそれを知る筈もない。
「何か、慌てて出て行ったみたいね……」
「探しに行ったのか?」
「ケータイも全然繋がんないのよね……一体何処に行ったのかしら……」
自分のケータイを見詰めながら、蒼は言う。
「とりあえず、いったん家に戻ろう」
「……そうね、明日もまた来てみましょう」
蒼達は、早夜が無事な事と、アヤに聞きたい事があるという事を綴った置き手紙を残してアパートを後にするのだが、やはり数日経ってもアヤは帰って来なかったのである。
マシューですが、彼の言葉には重みがありますね。 私書いていて、マシューお前って奴は……と感動してしまいました。
彼は、頼れるお兄さんな感じで書いています。