2.早夜の夢(五日前)
白いバラの庭園の中、美しい銀髪を背中に流した少女が佇んでいる。
「姫、そうしていると益々シルフィーヌ様に似てきましたね」
そう言われ、振り返る銀髪の少女は言葉を発した人物を見て綻ぶ様に微笑んだ。
少女の名はセレンティーナ、この国の皇女である。
「リュウキ様! お待ちしておりましたわ」
リュウキはセレンに跪きその手を取ろうとして、右手を後ろに隠しているのに気付く。その事を訝しみながら、反対の左手を取りその甲に恭しく口付けをした。
そうやって前に屈むと、頭の後ろで束ねた彼の長く黒い髪が流水の如く前に流れ落ちる。
その漆黒の美しさに、思わずセレンは見惚れてしまう。
「いきなり私を呼ぶなど如何したのですか? 突然だったので驚きました」
明日はいよいよバスターシュとの戦。
本当なら準備などで色々と忙しいのだが、彼はセレンの頼みの為、無理を押してやって来たのである。
二人は少し前に婚約し、この戦が終われば結婚する約束をしていた。
セレンは後ろに隠していた手を差し出し、その手に持っていた物をリュウキに手渡した。
「これは……」
それは、銀の美しい糸で編まれた翡翠の珠の付いた御守りだった。
リュウキにはその糸がセレンの髪であると分かる。
ではこの翡翠は彼女の瞳の色だろうか。
「それは、戦場に行く夫に妻が無事を祈って渡す御守りですわ。本当ならもっと早くに渡したかったのですけれど……意外に難しくて今朝までかかってしまいました」
そう言って俯くセレンの顔には、疲れが見えた。
リュウキは寝不足の為に赤くなった彼女の目を覗き込むと、気遣わし気にその目元を指先で優しく撫でる。
「有難うございます。必ずや無事に帰って来ると約束しましょう。そしてその時は……」
セレンは我慢できずに、リュウキの胸に飛び込んだ。彼は難なく受け止める。
「分かっております。絶対……絶対にに無事に帰ってきて下さい……」
セレンは潤んだ瞳でリュウキを見上げ、そっと目を瞑る。
リュウキはそんなセレンを見て息を呑んだ。そして瞳を揺らし、拳を握り締めると、そっと身を屈め銀色の乙女に口付けをする。
「………」
そして、そっと目を開けてリュウキがセレンを見ると、彼女は眉を下げ不満そうな顔をしていた。
「どうしてですの?」
「姫?」
「何故唇にはしてくださらないの……? わたくし達婚約しておりますのよ? それにどうしてセレンと呼んでくださらないの? 昔は呼んで下さったわ……」
リュウキが口付けをしたのは、唇ではなく額にだった。
困惑するリュウキに、ますます不機嫌になり唇を尖らせて拗ねて見せるセレン。そうなると、なかなか機嫌が直らなくなるのを、今までの経験でリュウキは良く知っていた。
リュウキはハァーと長く息を吐くと、静かにセレンを見た。
その溜息を聞いて、肩を揺らすセレン。不安気にリュウキを見上げた。
そんな彼女の頬をリュウキは両手で優しく包み込む。
「リュウキ様……?」
「……セレン」
そっと囁くリュウキに、セレンは不安に揺らしていた目を見開く。
目の前の男の漆黒の瞳が、熱く切なげに揺れているのを見た。
「俺が何故、唇にキスをしないのかと言ったな……それは……それをしてしまったら、俺は自分を抑える自信がない。
名もそうだ……その名を呼んだだけで、俺はお前が欲しくなる……この胸に抱きしめて、欲望のままにお前を愛すだろう。
そんな俺をセレン、お前は知らないだろう? こんな浅ましい考えを持つ俺を、お前は軽蔑するだろう?
それでもお前は、俺にこうして口付けをせがむのか……?」
口調も雰囲気もがらりと変わったリュウキに、目を丸くし驚くセレン。最初恥ずかしそうに顔を俯けていたが、次に顔を上げた時は嬉しそうに頬を染め、リュウキに向かって微笑んでいた。
そんなセレンに、今度はリュウキが目を見開く番だった。
「……はい、わたくしはリュウキ様を愛しています……。
ですからこんな風にわたくしを求めて下さるのは、とても嬉しい事ですわ。
私はずっと不安でしたのよ? わたくしだけが、リュウキ様を好きみたいで……リュウキ様はそれ程わたくしを好きではないのではと……」
「そんな事はない。有り得ない……。俺はお前を傷つけないようにと、いつも必死だったんだ……」
「わたくしは決して傷つかないと誓いますわ。ですからどうか、わたくしにキスをください……」
「では、俺の事はどうかリュウキと呼んで欲しい……。どうか、お前とは対等でいさせてくれ、愛しているよセレン……」
「はい、わたくしも貴方と対等でいたい。愛しています、リュウキ……」
目にうっすら涙を浮かべるセレンに、リュウキは微笑みかける。
そっと目を瞑るセレン。リュウキは顔をゆっくりと近づけていった。
**********
(―――っっ!!)
早夜は思わず言葉にならない声を上げた。顔が熱くなっているのが分かる。
実体など無いのに何故、と思うがそう感じるのだから仕方がない。
(そ、そんな事より、い、いきなりラブシーンだよぅっ!!!)
今までいい雰囲気の二人は何度か見てきたが、ここまであからさまなラブシーンを見るのは初めてだった。
興味が無いといえば嘘になるが、それでも何か覗きをしているようで気分が悪い。
何とか見ないようにできないものかと、見ちゃいけない、見ちゃいけない、と念じたところ不思議な事に目の前が、もやがかかったかのように薄い膜が張る。
だがしかし、
(きゃぁあーーっ!! こ、今度は音がっ! 生々しい音がぁっ!!)
見えにくくなったのはいいが、今度は口付けをする時の吐息や湿ったような生々しい音が、耳の中に響く。
これもさっきの要領で何とか出来ないかと、今度は聞いちゃいけない、聞いちゃいけないと念じる。
すると、思ったとおり段々と聞こえづらくなっていった。
(あービックリした。そうか、そうだよね。リュウキさんも大人だモンね……。そういう事もあるよね……)
変に納得した様子で、心の中で頷く。
何やら凄く気恥ずかしい。何とかその羞恥をやり過ごす。
(そ、そろそろいいかな……もう終ってるよね……)
そうして、もう大丈夫だろうと見切りを付け、早夜は意識をリュウキに合わせていった――。
**********
目を開けると、目を潤ませ頬を上気させたセレンがいる。
そんなセレンに、リュウキはクスリと微笑むと、彼女の美しい髪を一房取り唇を寄せた。
「続きは帰ってからに致しましょう、姫。これ以上は私が抑えが利かない……」
普段の畏まった口調でそう言って、名残惜しそうにその髪から手を離す。
するとセレンは、赤い顔を益々赤くして恥ずかしそうに目を伏せると、小さい声で言った。
「お、おまちしておりますわ……」
あれから、セレンと別れを告げたリュウキは城の中を歩いていた。
すると前の方から、何やら本や紙の束を抱えた人物が歩いてくる。
「……? リカルド?」
その人物は、金の癖のある髪を無造作に束ねた、この国の第三王子リカルドの姿だった。
「お前いったい何してるんだ?」
そこで漸く此方に気付いたリカルド。彼はリュウキを見ると、ばつの悪そうに目を逸らした。
「お、おう! き、奇遇だな! こんな所で会うなんて!
お前はてっきり準備に忙しいもんだと思ってたぜ」
そんなリカルドを訝しげに見るリュウキは、彼の抱えていた本を一冊抜き取った。
「っあ! リュウキ何勝手に取ってんだよ!」
焦った様子で取り返そうとするが、今抱えているもので手が塞がっており、取り返すのは無理そうだった。
「これは……国境付近の地図?」
本の内容を言ったリュウキに、リカルドは一瞬「まずい」という顔になったが、すぐに表情を取り繕った。
「お、おお! そうだ。何せ俺が、今回の戦の指揮を執るんだからな! 戦をする場所の地理を知っておいた方がいいだろ?」
ふふんと胸を張るリカルド。
リュウキは頭を抱え、溜息をつくと、呆れたように首を振った。
「珍しくやる気になっている事とその心意気は褒めてやるが、そういうものはもっと事前にやっておくものだろう? 当たり前の心構えだ。そもそも今回は指揮をすると言っても、兵達の志気を高める為の号令程度だ」
「そ、それでもいいだろう? 備えあれば憂い無しって言うじゃねえか。
あ、あー……それじゃあ俺は忙しいからもう行くな!」
そう言うと、そそくさと逃げるようにその場を立ち去った。
「おい! これは……」
そう声を掛けるが、もう奥の廊下を曲がる所で此方の声が聞こえた様子は無く、リュウキは手に持つ本を眺めて、また溜息をついた。
「おや? リュウキじゃないか。こんな廊下の真ん中で如何したんだ?」
「っ!! ミヒャエル殿下! お邪魔でしたか? 失礼いたしました」
慌てて頭を下げるリュウキ。
声をかけてきたのは、この国の第一王子ミヒャエル。そして、その隣には彼とそっくりの第二王子シェルが控えていた。
彼らは双子である。
彼らもまた金髪なのだが、リカルドとは違い、ストレートで色も薄い。瞳の色も青く、印象は全く違かった。
第一王子ミヒャエルは次期王と言われ、第二王子のシェルはその補佐として、それからミヒャエルの影武者として育てられてきた人物だ。
「いや、別に邪魔という訳ではないが……何かリカルドの声がしたような気がしてな」
「はい、たった今ここにいましたよ。こんな物を置いて……」
そう言って、手に持つ本を見せる。
「真剣に戦に臨むつもりならいいのですが、何やら気になりまして……何も問題を起こさなければいいのですが……」
それを聞いて、ミヒャエルは何か考えるように頷く。
「分かった、後でカートにリカルドを見張っておくように言っておこう。それにしてもあいつはいつまでも子供のようだな……」
呆れたように首を振るミヒャエルだったが、それでもその顔には何処か愛情が見受けられる。
その時ずっと黙っていたシェルが口を開いた。
「それでも私には、どこかリカルドが羨ましく思います」
その言葉にミヒャエルも頷く。
「そうだな。私もあいつには、あのままでいて欲しいと思う。まぁ、変わるべきところは変わるべきだとは思うがな」
そう言って苦笑するのだった。
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早夜は、意識が遠のくのを感じる。
(あ、目覚める……)
早夜は光の中へ落ちていった。