7、クローゼットの中から
見ている前で、無表情に変わってゆくサラサを、早夜は隠れたクローゼットの中から、半ば呆然として眺めていた。
そうする事で、元々整っている彼女はまるで作り物めいて人形のよう。
どこか近寄りがたく感じてしまう。
そして別の部屋からは、サラサを呼ぶ男の声。
苛立たしげである。
「おい、女! 何処だ! 何処に居る!」
女、というのはサラサの事だろう。
恐らくムハンバードであろうその声。
一切喋らない為、ムハンバードはサラサの名前も知らないと言っていた。
好きな人に名前を呼んでもらえないというのはどんな気持ちだろうと、早夜はサラサの事をクローゼットの中から窺う。
サラサは、相変わらず「女、何処だ!?」と呼ぶ声にまるで答えるように、無表情のまま手に持っていた竪琴を軽く爪弾く。
暫しの間があった後、ずんずんと此方に近付いてくる気配と足音。
「何故いつもの場所に居ない! 何をしていた!」
ムハンバードの怒鳴り声も近くなる。
でも、その声を聞いて、早夜は「あれ?」と思った。
(王様の声って、こんな声だったっけ?)
会ったのは一度きりであったが、自分に鞭打ってきた時の声は忘れ難いものがある。
あの時は夢中で怖さなど感じなかったが、後から思い出せば恐怖が蘇ってくる。
あの時のあの声。
低く篭もったような声であった。
首に纏わり付く贅肉のせいで、喉が締め付けられ、掠れてもいた。
しかし如何だろう。
今聞こえてくるこの声は、篭もりも掠れもしていないような。広い屋外にあっても、よく聞こえるであろう、よく通った声であった。
(それにどこか若々しいような……)
首を傾げながら、外の様子に耳を傾ける。
寧ろナイールを思い起こさせるような声。
その声がどんどんと此方に近づいてきた。
僅かに開いたクローゼットの扉からでは、其方はよく見えない。
目の前に立つ無表情のサラサが、一瞬だけ感情の篭もった視線を早夜に向けてから、身体ごと其方に向ける。
今そこにムハンバードが居るのだと思うと、早夜は今にも飛び出しそうな位、心臓が激しく脈打っているのが分かった。
細かく体が震え、呼吸まで荒くなってくる。
思わず魔法を使ってこの場を逃げ出したい衝動に駆られるが、この魔力を封じられた場所では、自分は何も出来ない事を思い出す。
知識は湧いて出るのに、どれもここにある呪印に関するもの事ばかりで、脱出の糸口になるような物は何一つ出てきてはくれなかった。
それならば、こんな知識は無意味でしかないではないか。
そして、自分が助けを求める事が出来る人間も助けてくれそうな人物もここには誰もいない。
こうして考えてみると、自分は今までいかにして護られてきたのかがよく分かった。
日本ではアヤに、そしておじぃちゃん先生に、転校してからは蒼や亮太にも。
それから夢の中ではリュウキに見守られ、此方の世界に来てからは、アルフォレシアの人たち。
リカルドやシェルや王様や、ゴミための街のマシュー達であったり、他の国の人間ではマオやオースティンやバーミリオンにマウローシェ。
それはもう大勢の人から。
ここクラジバールに来てからも、色んな人に護られた。
そして一番自分を護ってくれたのがリジャイ。
彼が居なければ、自分は生まれてさえもいなかった。
母を救ってくれた人。それに死に掛けた自分の命も。
早夜は彼の事を思って無意識に、左手に嵌められている指輪に触れていた。
魔法の封じられたこの部屋の中、連絡を取る事は不可能である。
会いたいな、と思った。
今感じる不安も、彼の飄々とした態度や優しい眼差しを前にしたら胡散するかもしれない。
でもここに居る限りは無理だ。
改めて、今自分は一人だと実感させられた。
それによって、抑えていた恐怖と緊張が湧き上ってきた。
ここでは魔法を使えない自分は無力な赤子に等しい。助けも来ない。
頼るのは自分だけ。
けれど、攫われていきなりこのような場所に入れられて、自分に一体何が出来るのだろう。
今もこうしてサラサにまで護られて、でも何も出来ずに恐怖だけが募る。
何てざまだろう。
何かできると、救えると思ってこの国にやってきても、結局は恐ろしいと思っていたこの万物の力に頼っていた自分がいるのだ。
すっかり寄りかかっていて、こうして無くなってみると無様に地面に倒れふす。
何て滑稽な姿。
早夜はその滑稽さに、恐怖心も合わさって壊れたように笑い出してしまいそうになるも、隠れている事を思い出して、その衝動をじっと抑えた。
そして、少し落ち着いた所ではたと思い出す。
(あれ? でも私を攫ったのは王様だよね? 本当は隠れる必要は無かったんじゃ……)
サラサも咄嗟の事で慌てたのだろう。そういった考えには及ばなかったらしい。
あの時の彼女の焦った顔が浮かぶ。
実際、あのムハンバードの前に出るのは恐怖でしかないけれど、早夜を隠した事でサラサが彼から咎められるのではと危惧してしまう。あの時の自分のように鞭打たれるのでは、と。
そうなっても、今の早夜には何も出来ないのだ。
しかし、そんな風に考えている間にも、彼は一向に早夜の事に触れる素振りは見せない。
(もしかして、王様は私が攫われた事は知らないの? じゃあ、だとしたら王様以外の誰かが私を攫ったの?)
そんな考えに至るのだが、だとしても自分をここに……サラサの元に送ったのは何故なのだろうかと疑問に思う。
『黒い魔女め……王だけでは飽き足らず、ナイール王子様まで誑かすつもりか? そんな事私がさせるものか……』
自分を攫った何者かの言葉を思い出す。
早夜を黒い魔女と称し、王やナイールを誑かしたとその人物は言った。
全くそんな事をした覚えはないけれど、この台詞から考えるに、どうやらムハンバード本人が手を下したのでは無さそうだ。そして、今現在のムハンバードの言動からも窺えるように、彼のあずかり知らぬ事でもありそうだ。
しかし、一体誰が……? 何故ここに早夜を放り込んだのか……?
そういえば、あの暗闇で見た白い人は?
いくら考えて見ても、早夜は答えに至る事はできなかった。
それによく考えてみれば、ムハンバードは知らないのではと思いつきそうなものなのに、と早夜は少々悔いる。
そんな風に考えても埒の明かないと早夜は外に意識を向ける。
何かの糸口になるのでは?
そう思ってサラサに語り掛けるムハンバードの言葉に耳を傾けた。
しかし、だ。
聞いている内に、何だかその言葉の雰囲気に早夜は「あれ?」と首を傾げる事になる。
「髪が濡れているな。何だ、湯でも浴びていたのか……」
ドキリと心臓が跳ねた。
木製の扉一枚隔てたすぐそこから声がする。
サラサの前に立っているようだ。
それに、その声はあのムハンバードからは想像できない位に甘やかなもの。
まるで愛の語らいのような響き……。
いや、そういう想像などしたくも無いのだが……。
しかし、隙間から見えるサラサの後姿。
その背に垂れる水色の髪が、ゆらりと揺れた。
サラサは身じろぎ一つしていない様子だから、きっとムハンバードが触れているのだろう。
(こ、これは……本当に愛の語らい!?)
早夜の胸が嫌な感じにざわめく。
「フッ、わしに抱かれる為に身体でも磨いていたのか? 中々可愛い事をするようになったではないか。漸くわしの所有物だと自覚したのか?」
クックッと笑いながらそんな事を言っているのが聞こえる。
そして「抱かれる」という言葉にざわめきが増した。
こんな場所に閉じ込められているサラサ。会うのはムハンバードだけだと聞いた。
何の為に会いにくるのか……。
鈍い早夜でも何となく想像が付く。
(ひ、ひやぁぁぁ~!! どどどどうしよう!!)
早夜は一人、クローゼットの中でうろたえまくる。
果たして自分はここに居ていいのだろうか。
否応にもその場面を目撃してしまう事になってしまうのではないだろうか。
見つかる心配より、そんな考えが頭の中を占める。
以前、夢でリュウキとセレンのキスシーンに遭遇してしまった時以上の居た堪れなさに、早夜は今苛まれた。
あの時はまだ視覚や聴覚を自分の意思でどうにか出来たけれど、今の自分はあの時と違って、精神体で無く生身だ。
目の前でラブシーンなどされては、直接耳に目に届くものは回避できない。
しかも今回は、水の精霊を思わすような美しく神秘的な美女と、あのムハンバードである。
まさに美女と野獣……。
そのあまりな組み合わせに、早夜は頭を抱えたくなってきた。
御免被りたい状況である。
そんな状況もあって、早夜はいま軽くパニックになってきていた。
こうしている間も、目の前で今まさに美女と野獣なラブシーンが繰り広げられようとしているのだから。
その時、サラサが一歩動き、扉の隙間から二人の全容が見えた。
サラサは褐色の腕に絡みとられている。
抱き締められているのだと判るのだが、その腕は思っていたよりも細く、そしてその顔を見た時、
「え……」
思わず漏らしてしまった声。
微かに吐息と共に漏らしたものだから外に漏れる心配は無いけれど。
早夜は我が目を疑った。
(ナ、ナイール王子!?)
そこにいるのはムハンバードではなくナイール王子に見えた。
こげ茶色の癖のある髪。褐色の肌。その点は以前見たムハンバードも同じである。
しかし、そのサイズが明らかに違うのだ。
(よ、横に縮んでる……?)
そしてその容姿。
ナイール王子そっくりの、その微笑めば甘くなるだろうその顔は、今はどこか皮肉気に歪められており、それでもその美しさは損なわれなかった。
(な、何でナイール王子がここに? 王様は? あれ?)
一瞬、彼の姿にホッとしそうになったが、元より混乱している所に、何故と更なる混乱の種が芽吹く。
自分は何者かに攫われたのではなかったのか。
ではナイール王子が自分を攫ったのだろうか。
いやいや、今さっき彼は早夜がここにいる事を知らなさそうだと結論付けたばかりではないか。
何より、ナイール王子は何でムハンバードと名乗っているのか。
彼はムハンバードの事を嫌悪していなかったか。
そもそもナイール王子は今まで自分に告白じみた事を言ってきていたではないか。
抱き締められも、キスされそうにもなったのだし。
それなのに、何で彼は今サラサを抱き締めているのだろう。
やはり彼は自分をからかっていたのか。
様々な疑問が浮かび上がってくる。
今直ぐにでもここを飛び出して彼に問い質したい所であるが、それをしないでいられた事は奇跡としか言いようがない。
しなくてよかった。もししていたならば、この先大分事情が変わってしまっていただろう。
早夜は今、悶々としながらも、呆然として二人の事を眺めていた。そしてある事に気付いて愕然とする。
(ううん、違う……ナイール王子じゃない……)
目の前でサラサを抱き締めているのは、ナイールにそっくりであったのだが、よくよく見れば違うと分かった。
まず瞳の色が違う。
ナイール王子は澄んだ泉のような水色の瞳。けれど、目の前にいるナイール似の男は、綺麗な琥珀色をしていた。
成る程、サラサの言ったように光の加減で金色にも見え、彼の浮べる非肉げな笑みが不遜さを表す事によって、その体格とも相まって獰猛な肉食獣を思い浮かべる。彼女が黒雹と称した事も頷けた。
その体格は、がっしりしていて逞しい、鍛え上げられたもの。けれど逞しいだけでなく、引き締まってしなやかだ。
ナイール王子も、早夜を軽々と抱き上げられるほどには鍛えられているのだろうが、どちらかと言えば彼は内の仕事向きのように思う。それに何より、ナイール王子はいくら大人っぽいとは言っても、早夜と同じまだ十代で、未熟さがあるように思う。
でも目の前の人物は、ナイール王子には無い、戦いの場にあっては最前に立つような戦士のような精悍さと大人特有の貫禄と言うか自信の様なものがあったのだ。
似ているからこそ感じる違いである。
(えっと……誰?)
早夜のそんな疑問に答える者は居ない。
ただ呆然と目の前の出来事を見つめ続けるのみであった。
そうこうしている内に、ナイール似の男は吊り上げていた口を引き結び、不機嫌そうな顔になると、サラサの顎を掴んで上向かせ、乱暴な仕草で口付ける。
背に回っていた彼の手は、サラサの後頭部に回りがっしりと掴んでいるのが見えた。
早夜はアワアワと慌てるが、以前見てしまったキスシーンより生々しく感じてしまい、駄目だとは思っていても、視線を外す事が出来ずにいた。
その行為が不意に止まると、その表情よりも不機嫌な声音で、
「抵抗も、わしの行為に答えもせぬのは何時もの事ながら、僅かな反応も見せぬ……まるで人形を相手にしているようだな……」
独り言のように呟く男性。
実際にサラサは答えも反応もしないのだから、独り言と言っていいだろう。
けれど、不機嫌さを露わにしていた彼の表情が、次の瞬間ふっと柔らかくなった。
「そんな人形に執着するわしも、大概か……」
浮かべた笑みは自嘲気味ながら、その眼差しは優しい。
乱暴に彼女の顎を掴んでいた手を外し、するりとサラサの頬を撫でている。
「そして、わしに人形遊びなどさせるお前も大概だな……」
低く怒ったように言うけれど、彼の仕草は何処までも優しかった。
両手で頬を挟み、サラサの瞳を覗きこむ。
まるで、そこから僅かな感情も読み取ろうとするように。
しかし、その試みは失敗に終わったらしい。
口を苦々しく引き結び、目を眇め不機嫌そうだ。
「何故だ……何故笑わぬ……何故泣かぬ……飴も鞭もお前には効かぬ。
わしが憎いか? 憎いなら怒ってみせよ。最初の頃のように睨んでみせよ。
何故喋らぬ。最初に聞いたお前の声は幻聴か? その楽器を使って歌ってみせよ」
何故と要求を、まるで睦言のように繰り返す男性は、眼差しに徐々に熱情をはらみ、その手でサラサを撫でていく。どこか懇願しているようにも感じた。
「わしに許しを請わせたいのか? 生憎だが王は何者にも謝罪したりはしない。かのサーゴ王もそうであったように、わしが頂点で無ければならぬからな。
だが……」
ふと彼がその手の動きを止めた。
その形のよい眉を一瞬顰めたかと思うと、自分とサラサの間にある白い竪琴を見やる。
そして一言「邪魔だ」と言うと、その竪琴を取り上げ床に追いやった。
しかしながら彼のその仕草は、そのぞんざいな口調からは想像もできないくらいに彼女の竪琴に触れる手は優しく大事そうで、傷のつかないようにそっと置いていたのだ。
そして二人の体の間にある障害物は無くなり、ナイール似の男性は、サラサの腕を掴んで引き寄せると、ギュッと抱き締める。
「もし、今お前が口をきき、わしの名を呼ぶのなら、たった一度だけ謝罪しても構わぬ……」
囁くような願いは、クロゼットに隠れている早夜にも届いていた。
そうして見ていて、早夜はこの男性が、いかにサラサの事を想っているのかよく分かった。
彼のその優しさ切実さも、大事に扱うその仕草も、全身でそう言っているのだ。
彼が誰であれ、それだけは確実である。
それに、彼は今自分の事を“王”と言っていた。
(じゃあ、やっぱりこの人は王様って事? ハッ! もしかして若返りの呪印でもあったのかな!?)
早夜は以前、ナイールが若い頃のムハンバードは自分にそっくりらしいと言っていた事を思い出す。
まだ、この部屋の全部を見たわけではないので、そういった呪印があっても可笑しくないかも知れないと早夜は思い至る。
その時、サラサを抱き締めていた男性の手が、サラサの服へと伸びた。
あ、と思う間も無く、流れるような仕草でサラサの身体から服が滑り落ちたのだ。
「っ!!」
咄嗟に息を飲みギュッと目を瞑る早夜。
恐れていた事態に着実に近付いている。
サラサの裸は先程風呂に入って見ているが、さっきと今では状況と意味合いが全く違う。
まだ恋のなんたるかも分からない早夜にとって、とてつもなく刺激の強いものであった。
アワアワと意味もなくクローゼットの中を見回すと、僅かな隙間からの光で薄ぼんやりとながらその中の様子は窺えた。
数多くの衣服が並んでいるのだが、結構広い事が分かる。
「相変わらず何も反応はしないのだな。ここだけはこんなにも熱いと言うのに……」
聞こえてくる声に、思わず其方に目を向けてしまい、許容できる以上の光景を見てしまった。
「~~っ!!」
両手で口を押さえ、叫びだすのを必死で抑えながら、早夜は今までで一番素早い動きでグルリと後ろを向いて、少しでもその現状から遠ざかろうとする。
なるべくクローゼットの奥へと。
しかし、次の瞬間足に激痛が走った。
口を押さえていた為、悲鳴はなんとか抑える事はできたが、あまりの痛さに一瞬意識が遠退きそうになる。
早夜は目に涙を溜めながらその場で蹲った。
どうやら何かを踏んだらしい。
貴族の女性は逃げ出さぬように靴も履かせてもらえないと聞いた。
早夜もナイール王子の部屋にいる間は例外ではない。そしてそのまま飛び出してきてしまったのだから裸足なのは当たり前である。
恐る恐る見てみれば、それはアクセサリーの類だったが、その金具の尖った部分が足に刺さっていた。
貫通とまではいかなかったが、結構深く刺さっているようだ。時間差のように、ゆっくりと血が溢れ出てくる。
震える手で抜こうとするが、血で滑って中々掴めない。痛みによって僅かに振るえ、力も入らない事もある。
けれどその時、背後から聞こえてくる声にどきりとした。
「何だ? 今この中から音がしなかったか?」
無意識に物音を立ててしまったらしい。
早夜は慌てた。
見つかったら一体どうなるのか。
早夜の事を一切触れなかった彼(恐らく若返ったムハンバード)は、きっと自分がここに居る理由をを知らないのかもしれない。だからどうなるのか分からない。
あの時のように鞭打たれるのだろうか。
攫われる前の貴族達の仕打ちも思い出す。
魔法が使えない今、どんな事をされてもされるがままだろう。
目の前で、クローゼットの扉がゆっくりと開かれてゆくのを、早夜は絶望的に眺めていた。
一方、クローゼットの外にいるサラサは内心かなり焦っていたが、そんな素振りは一切表に出さず、彼の動きをただじっと眺めていた。
(きゃ~!! どうしよう! サヤちゃん、逃げて~!! って、絶対無理だわぁ~!!)
心の中ではそんな風に叫びまくっていた。
実を言えば、彼に抱き締められている時点でも、もう既にパニック状態だった。
今日出会ったばかりの少女に、情事を見られそうになっていたのだから仕方がない。
声をかけて止めようにも、彼の前では喋らないという事は、もう体の芯まで刻み付けてしまっている事なので、咄嗟に出てくる筈もないのだ。
けれども、声を出す代わりの物はある。この竪琴だ。
この竪琴を鳴らして彼の注意を逸らせようと、サラサは床に置かれている竪琴を拾い上げようとする。
しかし、竪琴を持って、音を鳴らそうとする前に彼はクローゼットの扉を開け放ってしまった。
(ああ! 間に合わなかった!! サヤちゃんごめん!!)
サラサの叫びは心の中でだけなので、シーンという静寂だけが部屋を包んだ。
そしてその静寂を破ったのは、目の前の男性、ムハンバードである。
「……何もない、な……気配も感じたのだが、気のせいだったのか?」
(え!?)
目を見開いてバッと顔を上げると、サラサも彼の体越しに中を見た。
中には服やアクセサリ類が並び、他には何も無かった。
中はそれなりに広く、奥行きもあるが、隠れられる場所などない筈である。
(サ、サヤちゃん? 何処に行っちゃったの!?)
気配も一切ないその状況。
そもそも、ここにあの不思議な少女が来た事事態夢だったのではないだろうか。
そんな風にサラサは思い始めてしまう。
だが、そんな思考もここまで。
彼女は表情を消し、瞳を虚ろにした。
「何故またそんなものを抱いている。邪魔だと言ったであろう」
彼が此方を振り向いたからである。
すぐまたムハンバードはサラサの手から竪琴を奪う。それでも、彼女の半身とも言えるそれを、彼は大事に扱ってくれる。
彼の腕に抱かれて顔の隠れるその間だけ、サラサは笑みを浮かべていた。
何か切欠があれば、意地をはらずに声を出す事が出来るのだが、その切欠を早夜が作ってくれるのではと思っていた。
けれど全部幻だったのだ。
そう思ったサラサの目の端に、ふと赤いものが映る。
クローゼットの中。アクセサリーが転がるそこに、パッと見、気付かない位の赤く染まった箇所があった。
今は確かめる術はないが、アレはもしかしなくとも血であろうか。
自分は怪我をした覚えはないし、目の前の男も怪我など一切していない。そもそもクローゼットの中に入って、わざわざ怪我をするような事はしていないのだ。
考えられるのは一つだけ、やはりそこに黒髪の少女は存在したのだと。
(サヤちゃん、怪我してるの? あなたは今何処にいるの?)
そんな事を思いながら、サラサは早夜を心配すると共に、魔女だと言うあの不思議な少女に対して何かを期待せずにはいられない。
サラサは逞しい腕に絡め取られながら、その表情は一切動かさず心の中で神に祈るよう気持ちで、早夜の事を思うのだった。