上官殿と約束
三番隊に来て、二週間が経った。
私の苛々は募りにつのり、とうとうこの報われない哀れな恋に新しい症状が生まれた。
上官殿の顔が見られない。
遠目でも、割と近くても。
上官殿と会う時は常に仕事中で、つまりは彼の周りには当然のようにエレナ様がいる。
聞こえてくる不愉快な会話も今では眉ひとつ動かさずに聞いていられるほど私の心は麻痺してしまった。
でも、上官殿の顔は見ることが出来ない。
私は上官殿のことが嫌いになってしまったのだろうか…。
でも、だとしたこの黒い澱んだ気持ちはなんなのだろう。
姫様も時折心配して声をかけてくれる。
表情には出ていないはずなのに聡い姫様だ。
ついでにいうなら、ロッドさんは心配と言いつつ面白がっていた。
勘のいい人はこれだから困る。
でもそんなロッドさんに少なからず助けられているのも事実だ。
早朝。
まだ日が昇るかどうかという独特の明るさの世界の中、私は一人歩いていた。
今日は昼から姫様の公務にご一緒する。
つまりまたあの隣国の姫君とも会うことになる。
またあれを見聞きするのかと思うと気が滅入って上手く眠れなかったのだ。
歩いて、歩いて、私は気がつくと二番隊の演習棟に来ていた。
私は演習棟を見上げた。
その奥には寄宿舎の棟が見え、煙突からはすでに煙がもくもくと上がっている。
さらにその奥の青い屋根は少し見える程度だった。
上官殿はその青い屋根の下で生活をしている。
上官殿ともあれば普通の騎士たちとは別棟だ。
まだ彼はきっと眠っているだろう。
もしくは食堂で朝食を待っているかもしれない。
いや、まだ顔を洗っているかも…?
以前ならもう少し的確に上官殿の居場所を察することが出来たのに、たった二週間でもう私はそんなこともわからなくなっていたことに驚いた。
私は特に何も考えることなく演習棟に入っていった。
やはりこの時間は誰もいない。
広いトレーニング室はがらんとしていつもの雰囲気とは全然違った。
ダンベルやバーベルがキチンと片付けられ、懸垂のバーにはタオルがかかっている。
一人で一生懸命ここで鍛えていたことを思い出す。
あの頃孤独だと思わなかったのは上官殿のおかげだ。
今の三番隊ではまず一人になることが少ない。なんだかんだてロッドさんといることも多いし、トレーニングをしようとすれば一緒にやろうと声をかけてくれる隊員たち。
食事は基本的にその時にいる全員で取っていて隣は未だに変わらずロッドさんだ。
私は三番隊で随分上手くやれているらしい。
ふいに窓の外を見た。
ここからなら先ほどの青屋根の建物がよく見える。
上官殿の部屋の窓も。
辺りは先ほどより明るくなって来たけれど、まだ屋根に朝日が当たるほどではない。
涼しく、静かで、絵に描いたような風景だ。
(綺麗だな…)
ぼんやりと眺めていると人の歩いてくる音が聞こえた。
私はさっと振り返ってあたりを見渡した。
入り口は二つ。
反響していてどちらから来ているのかいまいち掴みにくい。
私はなんとなく寄宿舎の渡り廊下に繋がる方の出入り口を見た。二番隊の人間が来るならこちらからだろう。
「フローリア、こんな所にいたのか。」
しかし私の予想は外れた。
私の思っていたのとは反対側からのはロッドさんだった。
誰もいないトレーニング室は思いの外声が大きく反響する。
(私は…なにか期待してたんだろうか…)
現実いつもそんなものだ。
期待した以上のことなんて滅多に起こることはない。
もしかしたら会えるかもしれないなんて一瞬でも考えた自分が恥ずかしい。
側にエレナ様のいない、私の知っている上官殿に会えるかもなんて。
「申し訳ありません、散歩のつもりだったのですが…」
「いいよ、むしろ当初はもっと早くここに来るかと思っていたよ。」
ロッドさんは相変わらず勘がいい。
彼は出入り口で立ち止まった。
私とは少し距離がある。
「ほら、おいで。朝食にしよう。」
ロッドさんは私に向かって手を差し出し、ウインクをした。
(…え、ウインク…今…?)
私は軽く混乱し、訳も分からず口を開く。
彼はにこやかに微笑んでいる。
「上官殿…」
私はとりあえず約束を守ることにした。
ロッドさんの方に寄り、呆然としたままなんとなく差し出されている手を取ると、ロッドさんは慣れた様子で私をエスコートするように演習棟を出た。