上官殿と月夜
この部屋には騎士になってから何度となく来た。
上官殿に頼まれた時には私が必ず迎えに来て、食堂で朝食を共にしていたから間違えようもない。
下から見たときに上官殿の部屋からは明かりが漏れていた。
上官殿が部屋に居てくれてほっとする。
扉の前まで来て私は落ち着きを取り戻すために息を整えた。
ああ、情けない。
でも、どうしたって今は不安で仕方ない。
現実が怖い。
どちらにせよ、縁談となればそれこそ騎士を継続するしないの問題や引き継ぎ、任務のスケジュールに関わってくる。
だから上官殿には相談せねばならない。
そうだ、上官殿に相談するのは間違ってなんかいない。
遅かれ、早かれ。
頭の中でここに来てもいい言い訳を沢山たくさん考えた。
本当はただただ会いたいだけなのに。
(上官殿は、なんと仰るだろうか…)
おめでとうなんて言われたくない。
いっそ怒って欲しい。
そんなことで騎士を辞めるなと言って欲しい。
でも、上官殿は優しい。
きっと上官殿ならば母のように今ではなく未来を案じた答えを私に出すだろう。
上官殿は良くも悪くもいつだって正しかった。
私はドアをノックする。
少ししてドアが開き、上官殿が驚いたように私を見ていた。
「ウォーカー、どうした。それにその格好…」
言われて初めて気がついた。
(あ…)
休みだからと、ズボンや隊服などは全てクリーニングに出してしまったため手元にあるのが以前祭で着たワンピースぐらいだった。
風呂には入ったものの、私は最後に三番隊の隊舎をみんなが寝静まった頃に散歩するつもりでいた。
だから髪もくくっていないし、寝巻きではなく、手元にあったワンピース姿でいたのだ。
今日中に部屋を片付けて、夜中に散歩をして、明日には一度実家に帰る予定だったから。
(しまった…)
こんな格好で上官殿の部屋に訪れてしまったことを私は後悔していた。
上官殿は縁談中だというのに私がこんな格好で部屋の周りをうろついては変な噂が立ちかねない。
軽率にもほどがある。
私はその場から一歩引いた。
「も、申し訳ありません。帰ります。こんな格好で来るのは本意ではありませんでした。ちょっと、動転してしまって…また休み明けに出直して参ります。」
私は口早に言ったが喉はからからだった。
時折滑舌の悪い部分もあったかもしれない。
己の愚行に対する恥ずかしさから私はその場を去ろうと身を翻すが、私の体は前へは進むことはなかった。
「入れ」
「うわ、」
ぐいっと腰に回された腕、次の瞬間には上官殿の部屋に入っていた。
迎えには来たことがあるものの中に入るのは初めてだった。
小さな玄関を過ぎてあるのは恐らくは書斎。
机には書類がいくつかあり、整頓されている場所もあれば少しバラついた所もあった。
奥の部屋にはちらりとベッドが見えて思わず視線を逸らした。
左の部屋にはキッチン。
恐らく寝室の隣ぐらいがシャワールームだろうと推測する。
足を踏み入れてしまった。
私は少し身をよじる。でも今もまだ上官殿の腕に腰を抱えられているような状態だった。
片足がつくかつかないか、これではとても動けない。
「上官殿、ダメです。こんな格好でこのような時間にうろつくのはマズイです。日を改めさせて下さい。」
「気にするな、お前がそれだけ判断能力を失う事態があったということだろう?俺はそちらの方が放って置けない。その手にあるのものが原因か…?」
私はドキッとして咄嗟に手紙を胸元にぐしゃりと寄せる。こんなことが意味がないのはわかっているのに。
ここまで来たら言うしかないのか。
一瞬躊躇って、結局私は諦めて力を抜いた。
私が逃げないのを察して上官殿も腕をするりと離してくれる。
顔を上げると、思いの外まだ近くにいた上官殿。
その心配そうな顔が視界いっぱいに広がって私の目にはじわじわと涙が浮かんでしまう。
知らず私はぎゅっと上官殿の上着を掴んだ。
話をしに来たのは私なのに、失礼だとは思いながらも俯いた。
今はどうしたって惨めな顔を見られたくはない。
「上官殿、申し訳ありません…以前お約束したことを守れないかもしれません…。」
「それは、三番隊に残りたいということか?」
私はゆるゆると首を振った。
違う、そんなわけはない。
なんと言っていいのか言葉がまとまらない。
しかし、まとまらないながらに伝えなければと私は口を開いた。
「縁談が、おそらく以前行った祭であった方から縁談がありまして…母は受けて欲しいと言っています。女の身では、長くは騎士でいられないからと…。」
私はゆっくりとした動作で手紙を手渡した。
上官殿がそれを読んでいく。
終わりに近づくにつれ私の鼓動は以前とはまた違うドクドクとした音でいっぱいになっていく。
「…そうか、なるほどな。」
上官殿は手紙を丁寧に折りたたみ私に返してくれた。
わかっている、どうするかは私自身の裁量だ。
誰に委ねていいものではないし、誰かに委ねさせるなんて重荷を背負わせることもできない。
頭ではわかっている。
「せっかく二番隊に、戻れるのに…彼は確かに騎士に対して普通よりも理解があります。だからもしかすると騎士を続けていいと言ってくれるかもしれません。しかし、まだこの縁談を受けていいかすら私にはわからないのです…私は、ただ…」
(私はただ、貴方の側に居たいだけなのに…)
私は口を噤んだ。
唇をぎゅっと噛む。
「これを聞いて、お前はどうしたい?」
「今は騎士を続けたいです…しかし母の指摘はもっともです。私に縁談が来るなど初めてのことで次がある保証がありません。だから、私はこの縁談は…受けるべきなのだとは思います…。」
頭ではわかっているのに。
もしこれが妹の縁談ならば縁談を受けるように私だって言っていたかもしれない。
でも上官殿と会えなくなると思うとどうしても答えが出せなかった。
縁談を受けて、庶民の生活に混ざってしまえば上官殿にはもう一生会えない確率の方が多い。
たった一ヵ月でもこんなに苦しかったのに、もう上官殿に会えないなんて。
決断できるわけがない。
「お前は私にどうしてほしい。」
「わか、りません…混乱してしまって…縁談を受けるならば辞める可能性もあるかと思い、上官殿にご相談せねばと…明日には私は実家に戻るのでその前に報告だけでもと…とにかく上官殿にお会いしたくて…」
ぽつりぽつりと言う私に上官殿は辛抱強く話を聞いてくれた。
手がわずかに震える。
思わず最後の言葉に本音を混ぜてしまったのを言ってからとてつもなく後悔した。
「正直悪くない話だとは思う。だがまだお前自身が縁談の席で相手に会って話もしていないのに、何もかも決断するべきではないだろう。それとも、俺が受けてくれ、受けるべきだと言ったら君はこの縁談を受けるのか?」
「…そのとおりです…」
「ウォーカー、正気か…?」
「上官殿が背中を押してくださるなら、なおの事…私は縁談を受けます…。」
上官殿は呆れただろうか。
自分のこと一つ決められない奴だと失望されたかもしれない。
私には嫌われるよりもそちらの方が痛い。
やってしまったと後悔する。
今はもうなにもかもが遅い。
しかし、上官殿の声は優しかった。
「ならこの縁談を受けろ。」
思いやるような、優しい声。
頭がすぅっと冷えていく。
手の震えが止まる。
頭が妙にはっきりしてきた。
俯いた顔のままゆっくりと目を瞑り、私は答えた。
「…はい。」
私は静かに頷く。
貴方がそう言ってくれるなら。
私はきっと貴方から離れることができる。
きっとそのうち上官殿の縁談もまとまる。
ならばその前に去った方が幸せなのかもしれない。
「とにかく一度母上と話してこい。」
「そう、ですね。…そうします。」
私はようやく顔を上げた。
上官殿は優しい表情で私を見ていた。
あとどれだけ上官殿と同じ時間を過ごせるのわだろう。
少しでも、少しでも長く上官殿を見ておきたいと思った。
「では失礼します。」
「ああ待て、そんな格好でうろつくんじゃない。送っていく。」
上官殿はクローゼットからジャケットを取り出し私の肩にかけた。
ふんわりと上官殿の匂いがして今までないタイプの不意打ちに少しどぎまぎしてしまう。
(ああ、上官殿は本当に心配症だな…)
こんな過ぎた気づかいも今は微笑ましく思える。
だが私は上官殿のこういう所がたまらなく好きなのだ。
幸いなことに、遅い時間とあってか三番隊への寄宿舎へ行く間、誰に会うこともなかった。風が冷たかったが着せられたジャケットのおかげであたたかい。
月夜に照らされた道中を上官殿と二人っきりで歩く。
なんて素敵な思い出だろう。
(私は幸せものだ…)
長く報われない恋だったけれど、決して不幸ではなかったことを思い出す。
部屋のドアの前まで着くと私はジャケットを脱ぎ、上官殿へと返した。
「上官殿。送っていただきありがとうございました。あと上着も…」
私はにこりと微笑んだ。
今までできるだけ無愛想に徹して来たけれど、少しくらいは笑顔の自分も覚えていてほしいと思った。
だというのに上官殿ときたらそれには驚きもせず、むしろ予想外なことに彼は眉間にシワを寄せ、不愉快そうな顔をした。
よっぽど私の笑顔が気味悪かったのだろうか、とおかしくなり心の中で少し笑ってしまう。
私は扉をあけ、部屋に一歩入った。
「お茶でも飲まれますか?」
あまりにおもしろい反応だったから冗談のつもりでさらににっこりと笑って言ってみた。
片手で扉をあけて、はいどうぞといわんばかりに。
普段ならこんなことは絶対にできない。
だがもうこんなこと最初で最後だと思えば恐くも無かった。
きっと上官殿はまた嫌な顔をしてくれるだろうと思った。
思ったのに。
「風呂上がりの匂いをさせた女が男をからかうもんじゃない。」
私は驚きのあまり声が出せなかった。
「じゃあな。ちゃんと鍵は閉めるように。」
それだけ言うと上官殿は扉を閉めて振り向きもせず去って行った。
私は一人、玄関で呆然とする。
(え、今の…)
私はおでこにキスをされた。
____________
翌日。
朝起きて、昨日のあれは夢だったのだと思うことにした。
もしくは願望の見せた幻。
うん、頭が混乱していたのだものそうであってもおかしくなどない。
死ぬほどリアルな幻想。
例えその感触を覚えていたとしてもあれが本当だったと認めるわけにはいかない。
だってあれは単なる恋の思い出の領域から逸脱したものだから。
私はとにかく荷物をまとめ、一通り二番隊の部屋へと移した。
そうして帰省分の荷物を持ち、寄宿舎を後にした。
(縁談の話が、来てからで良かった…)
そうじゃなければあらぬ期待がどこまでもどこまでも広がっていたに違いない。
そうすればもっと心苦しい日々だっただろう。サリーさんの存在にだって耐えられなかったはずだ。
私は家に帰る道すがら、どうにか無理やり自分を納得させる理由をもやもやと考えていた。
そもそも上官殿も少しからかったくらいであんなことしなくたっていいのに。
本当に私の気も知らないで…。
それとも貴族の方にとってはおでこへのキスくらいどうってことないのかしら?
そう言えば、ロッドさんがよく社交界で恋愛はゲームなのだと言っていた。もしかしたらそういうことなのかもしれない。
恋愛に不慣れな私みたいなのが部屋に誘うような真似ごとでからかったから、からかい返されただけだったのかも…。
そうだ、きっとそういうことだ。
まったく上官殿も人が悪い。
(一番悪いのは縁談の相談をしておきながらからかった私だけど…)
家につくと母がすでに今か今かと待っていてくれた。
以前からしばらく休暇だということは言ってあったせいだろうか。
突然帰って驚かせようと思ったのになんだか肩すかしをくらった気分。
「ああ、おかえりフローリア!待っていたのよ?手紙は読んでくれたかしら?」
(うぅ、さっそくこの話題なのか…。)
できればもう少し落ち着いてから話したかった。
ただ相手のあることだ。
私がうだうだして待たせるわけにもいかないのだろうことはわかっていた。
「ええ、読んだわ。その、すごくいいお話なのよね…?」
「ええそうよ!あんな素敵な人いったいどこで見つけてきたのかしら!貴方ったら本当に全然言ってくれないのだもの。お母さんびっくりしちゃったわ!」
母はかなり興奮していた。
おかげで肌の血色もいい。
いつも穏やかな気性の母がこんなに明るいのを見たのは数年ぶりかもしれない。
「ねぇフローリア、この縁談どうかしら、受けてくれる?ねえそうだと言ってちょうだい。」
私は持ってきた自分の荷物の持ち手をぎゅっと握った。
(さぁ、言わなければ…)
私は母に微笑んだ。
これで後戻りはできない。
「ええ、母さん。お受けしようと思うの。」
「まぁ、ありがとうフローリア!!母さんとっても嬉しいわ!急いでお相手の方に手紙を出さなくっちゃ。まずは会って詳しいお話をしないといけないものね!」
さっそく母は便箋を出し、筆を探していた。
でも私にはもう一つ言いたいことがある。恐らく母は反対するだろう。
言ってみるだけ。
そう、言ってみるだけだ。
ただの、私の我侭、ただの願望を。
「母さん、私ね。その方に私が騎士を続けたいこと言おうかなとも思ってるの。それでもしもその方が駄目だって仰ったら、少し考えたいなって…。」
「フローリア、貴方…」
返信の準備を終え、手紙を書き始めようとした母の手がぴたりと止まった。
ペンの先からインクがぽたり、ぽたりと紙に染みを作っていく。
母の目は明らかに困惑していた。
そんな母を見て、私は諦めのため息をつき、一瞬だけ俯いて目を瞑った。
「ごめん、お母さん。そんなの駄目よね。ごめん、今のはなしよ。そんなことしない…ちゃんとお受けするわ。突然だったし、騎士に未練があって、まだ心の整理がついてなかっただけ…。」
泣きそうなのを堪えて、私は曖昧に笑ってみせた。
母はそんな私を見て、多少冷静になったのか、少し落ち着いた様子で言った。
「ごめんなさい…私こそ、すっかり浮かれてしまって…貴方だって考える時間が欲しいわよね…。当然だわ、お相手と会うのもお返事ももう少し先にしましょう。」
「ううん、覚悟ができているうちに縁談を纏めてほしいわ。じゃないと、それこそ逃げ出してしまいそうだもの。」
肩をすくめて、今度はちゃんと笑えた。
自嘲気味ではあるけれどこれも事実だ。
上官殿が昨日言った言葉がしっかりと耳に残っている間に縁談を受けたかった。
『ならこの縁談を受けろ』
昨晩の上官殿の声が頭の中で再生される。
せっかく好きな人に背中を押してもらったのだ、私も覚悟を決めねばならない。
私は荷物を置くため部屋の中に入ろうとした。
「騎士は続けても良い。ただし子供ができるまでだ。」
(え…?)
幻聴か、いるはずのない人の声。
目の前には母。
扉はまだ開けっぱなしで私は入口に立ったままだ。
部屋を見渡しても他に誰もいない。
私はまさかと思ってゆっくりと振り返った。
「上官、殿…」
私はまた白昼夢でも見ているのだろうか。
振り返ってみた先には、ジャケットを手に持ち、黒いズボンに白いシャツというラフながも多少フォーマルな服に身を包んだ上官殿が立っていた。
「昨日、縁談を受けると言っただろう?」
上官殿は穏やかに笑った。