表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第一章

第一章 「七月三日」


 灼熱の太陽が空の上で延々と輝き、地表のアスファルトをこれでもかといわんばかりに熱していた。

 七月三日月曜日、今日も真夏日である。

 今年は全国的な快晴とともに日本全国どこも軒並みに猛暑が襲っていた。

「暑いぜー、こんちくしょう!」

 そんな猛暑の中を呻きながら走る男がいた。黒いリュックを背負った、左の半袖に県立光陵高校のマークが刺繍されたカッターシャツを着ている俺こと向井頼政(むかいよりまさ)である。

 ただいま俺は全力疾走中である。何故こんな月曜日の朝っぱらから走らにゃいかんのだ、と心底思うが、それはそれ、遅刻しかねん状況では走る以外の選択肢は残されていないのだ。

 おかげで体育の授業でもないのに、朝から無駄に疲労が溜まる一方だ。

 後悔先に立たず。その言葉を今更ながらかみ締める。

 朝から全力疾走をせねばならん原因は簡単明瞭だ。寝坊。それだけ。

 完璧に自業自得すぎて笑えてくるぜ。

 大抵の家庭なら、誰か家族が起こしてくれそうなものだが、生憎と俺は現在気ままな一人暮らしである。

 今年の四月までは俺と親父の男二人暮らしだった。そう、俺の家は父子家庭なのだ。だけど、その親父も今年の春から東京の方へ単身赴任することになり家を空けている。

おかげで現在は気ままな一人暮らし。築十年の一軒家である自宅は男二人でも広かったが俺一人で暮らすとなるとよりいっそう広く感じる。

 俺は家事を一通りこなせるので一人ぐらしでも生活上あまり困ることはない。ただ親父が家にいた頃は毎日朝食を出勤前に用意してくれていた。それがなくなったせいで早起きが苦手な俺は学校に遅刻しそうな日の朝食は味も素っ気もない食パンのみになってしまった。

 ちなみに遅刻しそうな日は週五回だ。つまり学校がある日だ。

 特に月曜日はだるいのですよ。昨夜遅くまでネトゲをやりすぎた。

 それにしても、これが漫画やアニメの世界なら、隣に住む可愛い幼なじみの女の子がいろいろとお世話してくれるような展開がありそうなものだが、残念な事に現実にはそんなことは絶対といっていいほどにないことなのだ。

 神様、どうか毎日遅刻しそうで哀れなこの俺に、漫画に出てくるようなかわいい幼馴染の女の子を下さい――できればネコ耳――いや、通ならキツネ耳だろここは! そしてメイド服着ているドジだけど健気で守ってあげたくなるような女の娘を超絶希望! ――って何考えてるよ俺!

 うだるような暑さのせいか、変な方向に暴走する思考を抑えつつ俺はしばらく走った。

 通りすがりの人々の奇異な視線をものともせず走ってきたおかげで、校門をくぐり教室に駆け込んだのはぎりぎり本鈴のチャイムがなる寸前だった。

「……もうちょっと余裕を持って行動しなさい」

 教壇の前に立っていた担任の先生は駆け込んできた俺を見て呆れているらしく、苦笑していた。

「へいへい」

 俺は先生の言葉を右から左へ聞き流し、さっさと教室の窓際の一番後ろにある自分の机にリュックを置き、席に座った直後にちょうどタイミングよくチャイムが鳴った。



「……よぅ、向井」

 一時限目の放課のチャイムがなり、次の時間までだらだらと本でも読んでいようかと思い、リュックから本を取り出そうとリュックを覗き込んだちょうどそのとき、誰かが俺に話しかけてきた。

 顔を上げるとそこには、射殺さんばかりの視線の強さで俺を見下す、すらりと引き締まった体格と顔立ちをした三白眼の男がいた。

 こんな奴に睨みつけられたら、気の弱い奴ならそれだけで震え上がってしまうだろう。彼の三白眼を持ってすれば、視線だけで人を殺せるのではないかと思えてくる。しかし、これが彼にとっては普通なのだ。

 彼の名は神谷蓮(かみやれん)。クラスの中で一番浮いた――いや、敬遠されている存在。しかし、俺にとっては中学の時から、唯一親友と呼べる奴である。

 ちなみに三白眼とは、黒目が上部によっていて、左右と下が白目になっている目のことである。

「ん? 何か用か〜?」

 俺は本を読みたいんだけど。

 ……どうでもいいことだけど、相変わらず神谷の威圧感はすごいな〜。俺は慣れているからどうってことはないけど、他の連中はどう思うことやら。

基本的にいい奴なんだけど、その眼と愛想のなさですごく近寄りがたい威圧感あるからな、こいつ。

「……どういうつもりだ?」

 そう言って神谷はポケットから淡いピンク色の封筒を取り出し俺に突き出した。

「ん、これは……?」

 俺は突き出された封筒を受け取り、その裏表じっくりと観察した。

まず封筒は、ポケットに入れていただけあってしわくちゃだった。まぁ、それはいいとして、とりあえず宛名をチェック。――書いてないか。次に差出人は――これも無記名。

 全体を見ても特徴と呼べるのは、まず封筒が淡いピンク色をしていることぐらいだ。色から考えてこの封筒は女子の持ち物である可能性が高い。そしてそれを神谷が持っているということは……まさかとは思うが、もしかしてこれラブレターだったりして?

 まず今時、ラブレターを出すような女子高生がいるなんてことがまず信じられん。クラスの女子を見てみろ、そんな奥ゆかしそうな女子なんて皆無である。しかし、それはまぁ、そういうことをする女子もいるってことで納得するにしても、よりにも寄って、これを持っているのが神谷なのが一番信じられん。

 ついでに何故、神谷がそれを俺に見せるのかも良く分からん。

 ……そうか! つまり自慢か? ラブレターをもらった喜びを誰かに自慢したくてたまらないが、生憎とその無愛想な性格が災いしてその相手がおらず、そこで唯一の親友でもあるこの俺に自慢にきたと、そういうことですな。

 いいだろう。祝福してやろうではないですか。親友のめでたい出来事をお祝いせずして何が親友だ。

「おめでとう、心から祝福するぜ。こんちくしょう。で、お前にこれを渡した物好きは誰なんだ?」

 俺は満面の笑みを浮かべながら席を立ち、神谷と一方的に肩を組んだ。

「本当に知らんのか?」

何か考える素振りをしながら、俺の腕を払いのけた。

「そりゃおまえにラブレターを出すような物好きなんて知らんさ。ささ、も

ったいぶらずに教えろよ。俺達って親友だろ〜?」

 俺は満面の笑みを浮かべつつ、もみ手をしながら訊ねた。

 我ながら好奇心旺盛だと思う。だが誰だってこの手のことに関しては興味がないという奴の方がおかしいのである!(断定) 

「……アホ」

 苦笑しつつ呆れたような口調でそう言って肩を竦めた。

「様子を見ている限り、これはお前の仕業ってわけじゃないようだな」

「おいおい、俺の仕業って、どういうことだ?」

「ん、つまりだ。今朝登校してきたら、下駄箱にこの封筒が入っていた。その瞬間、これはお前が悪ふざけで用意したものだと判断したわけだ。だとしたら大方の中身は想像をつけていたが―――どうやら外れたようだな」

 ……なんですと? 俺は冗談だろうと、男に対してラブレターを書くような真似はしないぞ。やるとしたら、悪戯として笑って済ませられるようなことだけだぞ。見損なうな! こんちくしょう。

 俺は不機嫌そうに眉を寄せた。

「はっ、お前の日頃の俺に対する言動その他から考えれば、俺がそう考えるのも仕方がないことだろう? いかにもお前がやりそうなことだ。胸に手を当てて考えるがいい」 

 ……むむ、そういわれると反論できん。

 こういう時に俺の日頃の行いを持ち出されると強い態度は取りづらい。

「む。まぁいい。ところで、おまえが下駄箱を見た瞬間に俺の仕業だと思ったってことはだ、もしかしてまだこの中身を見ていないのか?」

「てっきりお前の仕業だと思ってたからな。それなら開けたら負けだろ」

 確かに俺の仕業だったとしたらそうだろう。封筒を開くということはすでに中身を期待しているということであり、中に「馬鹿が見る」とか「鏡を見たまえ」とか書いて入れておけば爆笑モノだったに違いない。――今度やってみようかな。

「おい、その何か良からぬことを考えているような笑い方をやめろ。薄気味悪いぞ」

「はは、俺は何もやましいことなんて考えておりませんぜ、ハ、ハ、ハ」

「お前がわざとらしく笑うときは何か企んでいるときだ」

 まったく俺のことを信用していない目だ。まあ、仕方がないがね。なんていってもその通りなのだから

「まぁ、それはそれとしてこれ中身を見てもいいか?」

「構わんぞ」

 良いのかよ! と心中でツッコミをいれた。

だってそうだろ? こいつは自分の下駄箱に入っていたラブレターを、親友の俺にとはいえ、他人に最初に読んでもよいと言ったのだ。

もしや神谷は、これがまだ何者かの悪ふざけの産物ではないかとうたがっているのだろうか? 確かに可能性はおおいにあると思う。 

もしくは差し出し人が入れる下駄箱を間違えたのであって、これは自分宛ではないと踏んでいるのか……?

 それとも、こいつの普段の他人への無関心ぶりから考えると、例えこれが本当に女子から自分宛のラブレターであろうとも、面倒なだけでたいして喜ばしい代物ではないのかもしれない。こいつはそういう色恋沙汰にはまったく興味を示さない人間だというのは、中学からの親友であるこの俺はよく知っている。

 俺はこのどれかの可能性は高いのではないかとちょっと思う。

 今日の放課後、五時に屋上で待っています。

 封筒の中に入っていた手紙には、丸っこい文字でそう書いてあるだけであり、宛名はおろか、差出人の名前すら書いていなかった。

 さっと目を通した後、そのまま神谷に返した。

「五時に屋上か…、行ってみるか」

 こいつはさっと文面を流し読みして一言そういった。

 少しは期待しているのだろうか? 俺の予想では「面倒だ。無視決定」の二言で済ませるだろうと予想していたけど外れたな。

 放課の終了のチャイムが鳴り、席に戻っていく神谷を目で追って、自然に笑みがこぼれる俺だった。

  


 放課後。午後三時五十分。俺と神谷は、文科系の部活の部室棟にある部室でオセロをやっていた。ちなみに、我が高校の部室棟は三つある。運動場に面した日当たりの良い場所に二つあるのが運動系の部活用であり、校舎裏の日陰にあるのが文科系の部室棟である。

 将棋囲碁部。それが俺達の部の名称である。将棋囲碁部なのに何故オセロをやっているのかは気にするな。我が部のモットーは他者に迷惑をかけなければ何をやっても自由なのだから。余談だが、ロッカーを開ければ麻雀やらチェスなどいろいろと詰め込まれている。

 部長は神谷で副部長は俺。会計係は部費ゼロな部活なので実際役目はないのだけど、一応は置かなければならない決まりなので一年生を任命してある。


 部員数は二十名。実活動人数は俺と神谷と一年生二人で、後は幽霊部員と

いう寂れた部である。

「こんちわっす」

 威勢のいい挨拶共に男が一人、部室に入ってきた。

「ん、よう」

「おっす!」

 俺と神谷はオセロの盤面から顔を上げた。

 そこには身長が百六十センチ前後の、背が低いメガネをかけた男がいた。

 彼は、この将棋囲碁部に今年入部した一年生であり、幽霊部員化しなかった二人の内の一人佐々木幸田ささきこうた)である。

 佐々木は部室の片隅に荷物を置くと、俺達の方に来て盤面を覗き込んだ。

「いや〜、相変わらずっすね……」

 盤面は黒一色。ちなみに俺は白であり神谷が黒だ。

 失礼な、その言い方ではまるで俺が毎回負け続けているように聞こえるではないか! ……そのとおりだけど。 

「これでもたまには俺だって勝つぞ」

 俺は苦笑しながら答えた。

「たまに……? おかしいな。俺はお前にオセロで負けた覚えは一度としてないのだが」 

 神谷が愉快そうに口元に笑みを浮かべた。

「スンマセン、俺、素で嘘つきました」

 冗談交じりに俺は両手を机に乗せ、額を机に付けるように頭を下げた。

「ところで、どちらか俺と将棋で勝負してくれませんか?」

「ん、そうだな。オセロの勝敗はもうすでに明白だからな。もう続ける必要はない」

 悔しいが事実だから否定のしようがない。それにまぁ俺も読みかけの本を持っていたのでそれでも読んでいるとするかな。

 俺は、負けたものが使った道具の片付けをするという、我が部の伝統を忠実に守りオセロを一人で片付けた。

 そして自分のリュックから本を取り出し、そして部室の窓際に椅子を持っていきそこで続きを読み始めた。



「ありがとうございました」

 神谷と佐々木はそう挨拶して頭を軽く下げた。

 将棋は礼に始まり礼に終る。特に我が部は、将棋と囲碁に限ってはそれを徹底している。

 何故なら、この部は将棋と囲碁の大会に積極的に参加しているからだ。

 つまり、普段から礼儀を守ることが出来ない奴が、大会の時だけきちんと礼儀を守れるとは思えないというのと、礼儀を守って勝負することで大会の時のような緊張感が得られるので一勝負事の練習効果が増す。この二つの理由から普段から大会で試合をしているような気持ちで礼儀を尽くして勝負をしようという部内規則があるのだ。

「やっぱり神谷先輩は強いっす」

 どうやら神谷が勝ったようだ。

 まぁ、予想通りだけど。なんてったって神谷はこの部で一番強いのだ。といっても部員数は実質四名だから、それだけではあまり意味がないけどね。

 少なくとも神谷はこの部では一番強い。かつて俺達が入部したときから現在まで部内の勝負じゃあ、将棋と囲碁では負け知らずだ。

 これだと大会に出たらある程度の結果を残せそうなものだが、面倒くさがりな性格ゆえ一年の時は一度も大会に参加したことはない。

 今年からは部長になったことだし、無理にでも大会に引っ張っていくがね。

ちなみに俺はチャレンジャー精神が旺盛なので出られる大会はすべて出た。まぁ、結果はご想像にお任せしますがね。

「佐々木も上達したな。これだとあっという間に向井ぐらいには勝てるようになるぞ」

「最近は向井先輩には三回に一回ぐらいは勝ってますよ」

 そこで俺の名前を引き合いに出すな。

 いつも思うのだが、どうも俺は佐々木に先輩として接してもらってないような気がする。

「っと、今日は用事があるから、ちょっと早いがそろそろ帰るわ」

 ポケットから黒い携帯電話を取り出し、時間を確認した神谷はそういうとさっさと自分のリュックを背負って部室を出て行った。

「お疲れっす」

 佐々木は負けたものが片づけをするという伝統を素直に守り、片づけをしながら見送った。 

 俺は本を自分のリュックにしまった。そして、ポケットから赤い携帯電話を取り出して時間を確認した。

 午後四時四十分。ちょっと早い気もするが、手紙が指定した場所である屋上へと向かったのだろう。

 俺も五時ぎりぎり。いや、それだと神谷に気づかれかねないから五時少しすぎにでも行くとしよう。

「それでは俺もそろそろ帰るとするっす。帰ってテスト勉強でもします」

 う、嫌なことを思い出させやがって。来週の水曜日から期末テストが始まるのだ。あ〜あ、なんでテストなんてあるんだろか。うんざりするぜ。

「おぅ、じゃあな」

 佐々木が部室から出て行く姿を見ていたら、俺も試験勉強のためにさっさと帰って勉強すべきだろうかと思えてきた。

 ――テスト勉強はいつでも出来る。むしろ神谷にラブレターを出すような物好きな差出人の顔を見てみたい。

 それでは、俺もそろそろ移動するとするか。

「あ、向井先輩、こんにちは!」

 部室を出ようとしたところ、ちょうどドアが開き、髪の横を藍色のリボンで左右に結んでツインテールにしている少女が入ってきた。

この女子の名は神谷(かみや)(はる)()。苗字から分かるとおり神谷の妹である。

 童顔な顔をしており、もし晴菜が高校の制服を着ていなかったら、まず間違いなく誰も高校生だとは誰も思わないだろう。むしろ小学生といっても通用するに違いない。

性格は明朗快活である。そしてその容姿は、どこかマスコット的な可愛さとあどけなさを併せ持っており、男女を問わず人気があるそうだ。

 この晴菜こそが、今年。囲碁将棋部に入部した一年生で幽霊部員化しなかった二人の内の最後の一人である。

「よぅ晴菜、こんちは」

 今日は全然来なかったので休みだと思っていた晴菜が、屋上へ行くため部室を出ようとしたタイミングで入ってきたため少し停止してしまったが、立ち直りとりあえず挨拶。挨拶は全ての基本ですヨ。

「あれ、お兄ちゃんは来ていないんですか? 今日は部活に行くって言っていたんですけど」

 小首を傾げてそう言った。

「あいつはさっきまではいたんだけど…」

 神谷はラブレターらしきものをもらって、今はそれに指定された屋上へ行っているのだ――と、晴菜に言うべきか言わざるべきか。

 なんといっても晴菜は妙に潔癖症なところがあり、俺が面白半分に、神谷と手紙の差出人が会っているところを覗きに行こうとしていると思われようものなら――事実そうなのだが――屋上へ行くことを止められかねん。

 そうすると、せっかくの面白い見世物、じゃなくて親友の晴れ舞台を見逃してしまうではないか! それはいかん。

「え〜と、あ! そうそう。あいつは図書室に行ったんだよ。ほら、確か今日だろ、図書室に新刊が入ったのってさ。それを借りに……」

 俺はでまかせ話を中断せざるを負えなかった。何故なら、晴菜の顔から表情というものが消えていたからだ。……こ、怖え〜。なんか怒ってるよ。

 特に、普段めったに怒らない人間が怒ると通常の三倍は迫力がある。

 ああ、君の小動物を連想させるような笑みはどこにいったんだい?

「私、今日は図書当番だったので、さっきまで図書室にいたんですけど。それに兄は昼放課に来て、今日入ったばかりの新刊を借りていきました」

 その口調は淡々としていた。……相当ご立腹なようだ。

 しかし、迂闊だった。そういえば晴菜は図書委員だったのをすっかり忘れていた。……もう、いっそのこと正直に話すべきか――いや、まだ挽回は利く、つーか利かせてみせるぜ! 

「あ〜、ごめん、ごめん。今の間違い。本当はホレ、あれあれ…」

「向井先輩。私、嘘をつく人は嫌いです」

 俺の次のでまかせ話は、始まる前に晴菜のその一言で中止させられた。

「………」

「………」

 ――沈黙。俺と晴菜は互いを見つめあったまま硬直。この状況を何かに例えるとしたら、蛇に睨まれた蛙、それがぴったりの例えだろう。もちろん蛇は晴菜で俺が蛙だ。

もしこれが漫画だったなら、さぞかし、大量の冷や汗が、俺の額からだらだらと流れていることだろう。

 俺は晴菜の視線に耐え切れず視線をそらした。

 ……正直、怖いです。

「正直に話して下さい。お兄ちゃん――いえ、兄はいったいどちらに行ったんですか」

 またも淡々とした口調。普段とギャップがありすぎです。ギャップがある女の子は萌えるとはたまに聞いたことがあるような気がしますが、正直こんなギャップは勘弁です。ギャップはツンデレだけで十分です。

 ……ギブアップ。仕方ない。せっかくの面白い見世物、じゃなくて親友の晴れ舞台を見逃してしまうことになるが、話さなければこの状況は抜け出せまいて。残念無念!

「え、え〜とね。それは――」

 俺は観念して、一時間目の放課に俺と神谷がした話を正直に話した。そして何故それを正直に話さなかった理由も。

 話を聞くうちに晴菜の頬はどんどん赤味を帯びていった。

 これは決して照れているわけではない。怒りの赤だ。

 俺は晴菜のその様子に内心びくびく怯えながらも、促されるままにすべてを話した。

「む〜。確かに私の兄は世界で一番格好よくて、好きになるのは無理がない――というか、当たり前ですが。それでも兄に手を出すことは、神が許しても、この私が絶対に許しません!」

「へっ?」

 予想外の言葉と内容に圧倒され思わず声が出た。

 てっきり、俺が神谷の晴れ舞台を面白半分で見に行こうとして嘘をついたことについて怒っていると思っていたからだ。

「時間は――もうあと五分しかないじゃないですか! 先輩、さぁ行きますよ!」

「い、行くって何処へ?」

「決まってるじゃないですか――」

 そこで俺の腕を引っ張って部室を出ようしていた晴菜が、俺の質問に答えるためこちらに向けたその表情は、彼女の最大の魅力である、可愛さとあどけなさを全開にした最高の笑顔でした。

 ……これが別の場面なら一発で惚れていたこと請け合いだろう。

 しかし、殺気に近い空気を纏わせたまま、そんな笑顔をされても、その内心には般若の顔があるのは間違いなく、ただ恐ろしいだけだった。

 ……トラウマになるかもしれん。

「兄の貞操を守りにです!」

 ……そういえば晴菜は、潔癖症以前にブラコンだったのをすっかり失念していた。しかし、これ程とは、もっと軽度だと思ってたんだけどね……



 我が高校は、中庭にある渡り廊下で繋がれた、北校舎と南校舎という二つの四階建ての校舎で成り立っている。

 つまり、学校に屋上は二つあるわけである。これではあの手紙の屋上がどちらであるかは分からない。しかし、そのうちグラウンドに面した南校舎の屋上は立ち入り禁止になっていて、生徒が立ち入ることの出来る屋上は北校舎の屋上のみである。したがって、あの手紙にある屋上とは北校舎の屋上ということである。

 午後五時一分前。南校舎屋上入り口近くへと続く階段のある四階から死角になる場所。そこで俺と晴菜は神谷が階段を上がり屋上へ行くのを気づかれないようにひそかに見送った。

ちなみに、俺と晴菜がこの四階へ来たのはつい数十秒前である。

何故なら、神谷と差出人双方ともに気づかれないようにその様子を見守りたければ、さっさと屋上への入り口に行って潜んでいれば良いというものではないからだ。

 だってそうだろう? 

 そんなことをやればどちらかに、少なくとも神谷には絶対に気づかれる。その理由の最たるものとしては、屋上への入り口は一つしかないことが挙げられる。そして次に神谷の性格上、指定された時間はきっちりと守るということだ。つまり、時間より少しでも前に屋上入り口に潜んでいたとしたら、入り口が一つしかない以上、神谷が時間をきっちりと守るために五時数秒前に通るとこはまず間違いがないから、そんな所にいては必ず見つかってしまう。それは、俺としてもそうだが、晴菜としても出来る限り露骨なことは避けたいという考えからは許容出来ることではない。

 それに現在の目的は、俺は面白い見世物、じゃなくて親友の晴れ舞台が見たいだけであり、また一方の晴菜の目的はどうやら手紙の差出人を確認することと、その差出人に対する神谷の反応を掴むのが目的であるようだ。

つまり、差出人が例え告白しても、神谷が断ったとすれば何の問題もないと考えているのだろう。

 十数秒待って俺と晴菜も屋上への入り口の階段を上った。

これが大人への階段だったらどんなにいいだろうか――なんちゃって。

話は変わるが、結局俺は、晴菜に腕を引っ張られるがままに、部室から四階まで来た。よくよく考えてみれば結構、情けない姿だったかもしれないと思う。

 ……冗談抜きで、情けなさ過ぎるかもしれん。

階段をゆっくり一歩一歩上がり、階段の折り返し部分から屋上への入り口の様子を伺う晴菜を眺めて思った。

 ……しかし、考えようによってはかなりおいしかったのかもしれない。晴菜は重度のブラコンであり、かつ彼女の兄のこと――つまり神谷のこと――となると目の色が変わるけど、少なくともその点を除けば美少女と呼んでも差し支えはない。そんな娘と端からみたら仲良く、手を取り合って――実際には引っ張られてただけだが――歩いてたのだから。

 でも、俺にとっては、その除いた点こそ重要であり、それさえ知らなければなあ、と考えると、やっぱりおいしくない。

 そうこう考えてるうちに、俺は晴菜と一緒に屋上への入り口の扉の影に二人して潜んでいた。

 思えばここは、当初、俺が一人でこの面白い見世物、じゃなくて親友の晴れ舞台を見ようと思っていた場所であり、結果としては見られるのだからOKな気がしないでもないが、やっぱり、あまり知りたくなかった晴菜のブラコンぶりを見せ付けられて精神的に疲労した俺はなんだかなぁという気分だった。

 まぁ、しかし、屋上の神谷の様子を伺うための不可抗力とはいえ、こと神谷のこと以外――まぁ、簡単に言えば黙っていれば――ただの可愛い少女である晴菜と限りなく接近している現状は、健全な男としてはかなり喜ばしいものなのだろう。

 ドアの隙間からちょっとだけ顔を出して覗くと、そこからは神谷以外の姿は見えなかった。

 ……もしかしてただの悪戯だったのだろうか?

 確かに、その可能性のほうが俺としても納得できるが……。

 ……っと、あぶねぇあぶねぇ。もう少しで気づかれるところだった。

 俺は神谷が屋上を見渡すために、扉側に振り向くのを予測して、素早く顔を引っ込めた。ついでに晴菜の口を右手で押さえつつ、扉の影へと引っ張り込んだ。

「ん、む〜む!」(な、何を!)

 俺が口を押さえているからうなることしか出来ない。

 断っておくが、別に晴菜に対してやらしいことをするためにそうしたのではない。ただたんに、神谷が振り向くであろうことを、晴菜が予測して行動できるか分からない以上は、驚いて悲鳴を出されないように口を押さえて扉の影に引きずり込むのは当然のことだ。

「しぃ〜」

 俺は左手の人差し指を口に当て静かにというジェスチャーをして、次に屋上のほうを扉越しに指差し、それがぐるりと反対側に向けて、神谷が振り向こうとしていたというジェスチャーをした。

 それで納得したのかおとなしくなったので右手を離した。

「これを俺の下駄箱に入れたのは君か?」

 神谷の声が聞こえたので 話に耳を傾けた。

 何故か、俺と晴菜がいる扉のほうに向かって声をかけているようだ。

「ええ、そうよ」

 よくとおるはっきりとした話し方の声が聞こえた。

 どうやら上の方から聞こえた気がする。

 ん〜、もしかして本当にこの上にいるのか? そうだとしたら変わった奴もいたもんだと思う。

 だってそうだろう? 人をラブレターらしきもので呼びつけておいて、明らかにその人より高い位置で待ち受けるなんて変わり者もいいとこだ。

 それだけで、これはラブレターじゃなかったという線が非常に濃厚になってきたと思う。では、何かと訊かれたら困るが、それは話の続きを聞けば分かることだ。

 とりあえず現時点で差出人について分かっていることは、その性格は、話し方から考えて、勝気な性格であると推測される――それ以上でもそれ以下でもない。まだ情報量が少なすぎるからそれ以上はなんとも言えない。

 ふと視線を降ろすと、晴菜は無表情であり、何かを考えているようであった。俺としては、彼女は差出人の声を聞いた途端に飛び出して行ってはしまわないかと心配だったが、どうやら当面は大人しく話を聞くつもりのようだ。

「呼びつけた用件は何だ?」

 神谷が再び問う。

 そこで一瞬の間があり、そして……


「神谷蓮! 私に部長の座を渡しなさい!」 


「……それが兄に近づく口実ですか。ふふ、やりますね」

晴菜があの可愛さとあどけなさを全開にした最高の笑顔でそう言った。

 こ、怖え〜。

たぶん違うだろうとツッコミたかったがやめておいた。だって怖いから!

 類は友を呼ぶという言葉をかみ締めながら、そこに少なくとも俺は含まれていないぞとむなしく思うだけだった。


第二章へ続く





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ